第五節 月の綺麗なこの夜に
「お主は儂の秘書じゃろう。こやつだけでなく、儂のことも洗うべきじゃ」
洗い場に用意した椅子に、ふんぞり返るように座った女王様。
鏡に映った顔はどうにも不機嫌そうだ。ソーンばかりが贔屓されたように思えて、苛立ったのかもしれない。
「えーっと……でも、女王様。前に『髪に触れられるのは嫌だ』って仰っていませんでした?」
これまでの王宮での生活で、お風呂の時間に女王様と鉢合わせすることは何度かあった。
お風呂好きだとか、そのために大浴場を作らせたとか、そういう話は女王様自身から聞いたのだ。入浴中はいつも上機嫌だったので、楽しそうに語ってくれたのをよく覚えている。
ある時せっかくだからと、背中を流したり髪を洗ったりしましょうか、と聞いてみたところ断られてしまったことがあった。
確かにこれだけ綺麗な髪をしているなら、他人にベタベタ触られたりするのは嫌というのも頷ける。だから、それ以降は触れたりしないように気を付けていたんだけど……。
「今日は良い。特別に、儂の
「は、はぁ……」
一体どういう心境の変化なんだろう?
……まぁ、洗えと言うなら洗いましょう。さっきので大体コツみたいなのは掴めたし、ソーンと違ってお風呂好きの女王様ならすんなり洗えるだろう。
「それじゃあ、失礼しまして」
まずはブラシで髪を丁寧に梳かしていく。触って良いとは言われたけれど、変に傷をつけるようなことをしたら逆鱗に触れるかもしれないので、慎重に。
そういえば『逆鱗』って竜の身体の一部のことなんだっけ。この子にもあったりするのかな?
「儂は髪を洗えと言ったはずじゃが」
「ええっと……。洗う前にこうやってブラッシングした方が、汚れも落ちやすくて髪も痛まないんですよ」
「ほぉ。それは初めて聞いたのう」
「もつれた髪を解く意味もあるんですけど、女王様には必要ないかもしれませんね」
実際、女王様の髪はブラッシングする前からものすごく滑らかな手触りで、まるでシルクを触っているかのようだった。
これは種族的なものなのか、何か魔法でも使っているのか……。正直、羨ましい。
「っとと、ブラッシングはこれくらいにして、お湯をかけていきますね」
「うむ、頼むぞ」
適当な頃合いでブラッシングを切り上げて、先程と同じようにお湯を流して頭皮と髪をマッサージしていく。やっぱりシャンプー前にはこうした方が、泡立ちが良くなる気がする。
「これだけでも中々、心地が良いではないか」
「ふふ、ありがとうございます」
女王様はお風呂好きなだけあって、おっかなびっくりしていたソーンとは違う。頭を洗われることを楽しんでいるのがよく分かる。
もちろん優しく丁寧にすることは心掛けているけど、慎重になりすぎなくても良い分、こちらとしては気が楽だった。
そうこうしている間にお湯も流し終わったので、次はシャンプーを使って髪を洗っていく。
「そういえば……お風呂のお湯ってどうやって用意しているんですか?」
揉み込むように髪を洗いながら、前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
この大浴場が温泉ではないのは分かるけど、これだけのお湯をどうやって用意しているのかはずっと気になっていたのだ。
「これは水と火の魔法で作っておるのじゃ」
「魔法なんですね」
「うむ。
「魚の住処がなくなっちゃうかもしれませんからねぇ」
「そういうことじゃ」
ドラゴンの力なら水を汲み上げること自体は簡単だろうけど、それでは川や湖に棲んでいる生き物が困ってしまう。それを
このひと月で、女王様のことは何となく分かるようになってきた。
いつも女王らしく尊大な態度を崩さないので、知らない人が見たら生意気な少女のように映るだろう。しかし、彼女はその実とても思慮深く、他人を思いやる心がある。本人は否定しているけれど、本当は優しい女の子なのだ。
この竜の島で絶対王政が成り立っているのは、彼女のその優しさによるところが大きいのだろう。そうでなければこんなに長続きはしていないはずだ。
「……はいっ。髪は洗い終わりましたけど、お背中はどうしますか?」
「ん、洗ってくれ」
「分かりました」
髪の泡をしっかりと落として、今度は背中を洗う。
そうだ、ソーンにやってあげたように翼と尻尾も洗っちゃおう。
「女王様の翼ってとっても綺麗な金色ですよねぇ」
「ふふん。そうじゃろ、そうじゃろ」
洗うためにこうやって近くでまじまじと見てみると、とても美しい金色をしているのがよく分かる。
ずっと見ていても飽きないというか、目が離せないというか、惹きつけられるというか……。金塊とかって実際に見たことないけど、見るとこんな気分になるのかなぁ。
金が人を惑わせる、なんて言葉も今なら分かる気がする。
「
「ははー、ありがたき幸せー」
「ふふっ。もっと心を籠めて言わぬか」
そうして丁寧に女王様の身体を洗って、ついでに私も軽く身体を流して……予定よりも時間は掛かったけどようやく湯船に入る準備が整った。
ようし、後はゆっくりお風呂を楽しめるぞ。
「遅いんだよ……。風邪をひくと思ったんだよ……」
湯船に向かおうとしたところ、洗い場で蹲(うずくま)っていたソーンにジトっとした眼で睨まれた。
結構時間が掛かってしまったから先に入っているかと思いきや、こうしてずっと待っていたらしい。申し訳ないことをしちゃったなぁ……。
「ハッ。儂らが風邪などひくわけがあるか」
「心の風邪なんだよ。ワタシのための入浴だというのに、ワタシを放っておくなんて酷いんだよ……」
「ふん。こやつは儂の秘書なのじゃから、儂に奉仕するのは当然じゃ」
「もー、こんな時にまで嫉妬心を発揮しないでほしいんだよ……」
「なんじゃとぉ?」
「まぁまぁ、二人とも……」
「よーし、では儂がお主を風呂に浸からせてやろう。ついてこい、ソーン」
「あ、ちょっと、止めるんだよ。嫌な予感がするんだよ」
「はーっはっは、女王自らが風呂に入れてやるのじゃ。涙して喜ぶがよい」
「ヒカリくーん! 助けてほしいんだよー!」
引き摺られていくソーンを追いかけて湯船に向かう。このまま放っておいたら本当に沈められてしまいそうだ。
☆
「はふぅ……」
「は、離さないでくれよヒカリ君。ワタシは絶ッ対に溺れたくないんだよ」
「はいはい、しっかり掴んでいますよー」
ゆったりと湯船に浸かる私は、膝の上にソーンを抱き抱えていた。
まるでベルトをするかのように彼女のお腹に腕を回して、離さないようにしっかりと掴む。なんか、チャイルドシートになった気分。
「お主はいい加減に水を克服したらどうなのじゃ」
「克服なんて出来るわけがないんだよ。三千歳を超えても怖いものは怖いんだよ」
「ふふん、風呂の楽しみも分からんとは哀れなやつじゃのう」
私の隣で湯船に浸かっている女王様は、上機嫌でソーンの頬をつついていた。
元々お風呂好きなのもあるけど、こうしてソーンがしおらしくなっているのも愉快なのだろう。……楽しそうで何より。
「それにしても、本当に広いお風呂ですよね~」
縁のところに寄りかかりながら正面を見ると、かなり遠くの方まで湯船が広がっているのが見える。
広い水面には月が綺麗に反射して、とても美しい光景を描いていた……のだが、バシャバシャと打たれた波で歪んでしまった。
「ああやって泳げるくらいには、な」
「あはは……」
目の前ではヴルカーンとニエーバが楽しそうに泳いで、じゃれ合っている。
こうした光景もここでは珍しくはない。湯船であのように泳ぐ子は結構いるのだ。
「あやつらはまだ若いから、静かに浸かるという楽しみ方が分からんのじゃ」
女王様はやれやれ、と言いたげな様子だが別に咎めようとはしない。
ここは竜の島。お風呂で泳いじゃいけません、なんてマナーはないのである。
「これって、奥に行くほど深くなっているんですよね?」
「うむ。潜るようなやつもいるからのう。一番深いところはそやつらのための場じゃ」
「そんなの正気じゃないんだよ……」
ここの湯船は段々状になっていて、奥に行くほど深くなっている。
私は別にカナヅチってわけじゃないけど、かなり奥のところでは流石に溺れてしまうかもしれない。
「……多分、
「でも
潜水が得意であり趣味であるという彼女は、いつも一番深いところで潜っている。
最初にそれを見た時は溺れないのか心配したけれど、毎回そうやっている姿を見れば慣れてしまうものだ。
「なんでプルート君とワタシが比較されるんだよ?」
「霧も泡も同じ水でしょう?」
「原種が違うんだよ。ワタシは幻竜種で、彼女は水竜種なんだよ」
「へぇ?」
「『水』竜ではなく『氷』竜じゃろう。水竜は『六竜分類』に含まれんはずじゃ」
「その『六竜分類』っていうのは曖昧で好きじゃないんだよ。風竜も雷竜も纏めて『飛竜』と呼んでいるじゃあないか。ワタシたちはみぃんな飛べるのに」
「じゃから、皆が飛べるようになったのは三世代からの話で──」
……二人が何か口論を始めてしまったが、さっぱり分からず、全然話についていけない。
「あ」
口論の方に夢中になり始めたせいなのか、ソーンはいつの間にか私の膝の上から離れていた。なんだ、掴んでいなくても大丈夫じゃないの。
そんなわけでシートベルトの役目を終えた腕を上に伸ばし、大きく伸びをする。
見上げた夜空には、きらきらと輝く星たちと、一際美しく光る丸い月が映った。
「綺麗だなぁ……」
☆
「どう? お風呂に入るのも悪くないでしょう?」
お風呂上りの脱衣所にて。
私はソーンのとてつもなく長い髪を乾かして、梳かしていた。
「んー、まぁ……悪くはなかったけれど……」
ソーンはというと肯定半分、否定半分といったような微妙な表情をしている。
「面倒なことには変わりないんだよ。これを毎日なんてやってられないんだよ」
素直に喜んでいないのは、毎日は勘弁してほしいという意味だろう。
入浴自体に悪い感情は抱いていないのなら充分だ。
「まぁ、ヒカリ君が一緒なら、たまには入ってあげてもいいんだよ」
「風呂くらい一人で入れるようにならんか、たわけが」
私の隣で、自身の長い金髪を梳かしているのは女王様。
お風呂上りで機嫌が良いのか、ソーンへの悪態もいつもより軽い。
「しかし……入浴っていうのは疲れるものなんだよ。元気がなければ入れないんだよ。おかしな話なんだよ」
「疲れを取るはずなのに、不思議だよねぇ」
限界まで疲れているとお風呂にすら入れなくなるというのはよく分かる。
体力を回復するために動く体力が無い……みたいな?
「で、だ。ヒカリ君、ものぐさなワタシにしては頑張ったと思わないかい?」
「はいはい、よく出来ましたねー」
「そんな頑張ったワタシに……ご褒美をあげるべきだと思うんだよ」
「……ご褒美?」
そう言ってソーンはニヤリと、いつもの笑みを浮かべていた。
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