初恋

射谷 友里

第1話 奈々と由香

 夫をナイフで刺した時、高校からの友人の佐々木由香との約束を思い出していた。

『奈々、お互い結婚しなかったら一緒に住もうよ』

 高校二年の夏、好きだった人が別の女子と付き合い始めたと知った由香が、ひとしきり泣いた後に言ったのだ。由香の涙に濡れた顔を見て、私は一生、結婚しなくても良いって思った。

 胸に赤く広がった血が少しずつ乾き始めていた。時計を見ると夕方の四時だ。いつも仕事で帰りが遅い夫が急に帰って来たのが午後二時半過ぎだった。部屋の片付けがなってないと殴られ、エプロンのポケットに隠していたナイフで刺した時、三時のニュースが始まった。

「由香、由香に連絡しなきゃ」

 震える手で携帯電話を握った。

『……奈々、ちょうど良かった。今、そっちに向かってる所よ』

「え? どうしたの急に」

『急ぎで二人に相談があって……そっちの用件は?』

「……康介さん、殺しちゃった」

『……嘘でしょ……本当に?』

「うん」

 由香が電話の向こうでショックを受けているのが分かった。

「今日も殴られて、それでナイフで……」

『怪我してるだけじゃないの。ちゃんと確認したの』

「目が……」

『目がなに』 

「開いたままなの」

 由香が息を飲んだ。

『分かった。急いで行く』

「ありがとう。待ってる」

 電話を切った後、由香の相談内容を聞きそびれた事に気付いた。事前の連絡もせずに直接来るとは、余程の事が起きたのかもしれない。

「いや、私に比べたら……」

 これ以上、最悪な悩みがあるのかと淀んだ目の康介を見た。

ーーピンポーンーー

 インターフォンが鳴った。由香だろうかと恐る恐るモニターで確認してみると知らない二人の男が立っていた。テレビドラマでは刑事は二人組で行動するという。二、三度インターフォンを鳴らした後、ドアポストに何かを差し込んで帰って行った。

「まだ動いちゃだめ、だめよ」

 自分にそう言い聞かせて座り込んでいた。そうしてそのままじっとしていると、もう一度インターフォンが鳴った。今度こそ由香だ。よたよたとドアにしがみつく様にして開けた。

「入るわよ」 

 由香の緊張した顔が否応にも現実に引き戻した。

「由香、ごめん」

「謝るのはまだ早いわ」

 そう言って康介が本当に死んでいるかどうかを確認していた。

「……死んでるね」 

 ふうと息を吐いて私を見た。

「自首する意思はあるの」

「……あるなら由香を呼んだりしないわ」

 もう一つ息を吐いた。

「分かった」

 覚悟した様に大きなリュックからブルーシートを出した。

「……裏に車を留めてある」

 人目を避けて康介を運ぶのは骨が折れそうだ。

「ロールケーキみたいにくるくる巻けたら良いのにね」

 死体を目にしながら二人で笑った。

「車まで運べればうちの山に埋めれるのよ」 

 由香には親から相続した山がある。高校生の時、山に行くという由香の叔父に連れて行ってもらった事がある。本当に叔父さんなのと聞くと、大きなフードを被ったその男は鋭い目を向けて来た。私達とそんなに変わらない年齢だからそう呼ぶと怒ると由香が笑った。仲がいいねと言うと、あれはただ自分に逆らえないだけだと男を睨んでいた。

 男は私達が話をしている間、一人で大きなシャベルとブルーシートに包まれた何かを台車に乗せて山へ入って行った。それを見ながら大きな桜の木の下で美しく微笑む由香の顔は一生忘れられない。

「しっかりしなさいよ」

 由香に肩を揺さぶられ我に返る。

「……ごめん。昔を思い出してた」

 眉間に皺を寄せあからさまに不機嫌になった由香を見て、慌てて話題を探す。

「あっ、そうだ。さっきの何だったんだろう」

「何?」

 郵便受けを開けると名刺が一枚入っていた。

いぬい探偵事務所だって」

「何で探偵事務所の人間なんかが来るのよ」   

「さあ。康介さんが頼んだのかしら」

 はっとしてカレンダーを見ると、今日の日付に赤丸が付いていた。

「何かを調査させようとしていた」

 由香の目が鋭く光った。

「死体をこのままにしておくのは危険って事よ。また、その探偵が来るかもしれないわ」

「でも、人に見られない様に運ぶなら深夜の方が目立たないんじゃない?」

「……そうね。とにかく車を動かして来るわ」 

「あっ、ねえ。由香の相談って何だったの?」

「夫がまた不倫してた。それだけよ」

 由香が吐き捨てる様に言って家を出て行った。いなくなると急に不安になって来る。落ち着こうと深呼吸していると、携帯電話が鳴った。それは康介のズボンのポケットから聞こえていた。ポケットから取り出すと、先程の探偵事務所からの電話だった。しつこく鳴っていたが、留守番電話に切り替わると電話は切れた。由香が置いていったブルーシートを見てため息が出る。死体をキャリーケースに入れて運ぶのはどうだろう。細身の女性ならいざ知らず、康介の身体が入る程のキャリーケースを今から用意するなんて無理な気がした。いっその事、私がここから逃げる方がよっぽど現実的ではないだろうか。たった一人で逃亡する所を想像して、余りの孤独に身体が震えた。

「じゃあ、自首する?」

 その問いには簡単に答えが出そうに無かった。一度は肋骨を折る程の暴力を受け、このまま死んでしまうのかと思った事もある。康介は私が不注意で二階の階段から足を滑らせて落ちたと知り合いの医者にそう告げた。康介はいつも聖人のふりをして私の怪我を医者に堂々と見せた。

「冗談じゃない」

 こんなの罪になるはずが無い。ナイフで刺してしまった事が今更ながら悔やまれる。康介の方からナイフを持った様に偽装出来ないだろうか。

「いや、無理よ」

 探偵を呼んでおいて妻にナイフを振り回すなんて愚行をするはずない。

「まだ来ないの」

 由香が出て行ってから一時間も経つというのに一向に戻って来ない。警察に駆け込んだのではないだろうかと、ほんの一瞬、頭を過ったがそれは絶対に無いと疑念を振り払う。

「康介のキャリーケースはどうかしら」

 二階のクローゼットからやっとの思いで下ろす。キャリーケース自体がやたら重かった。 

「折り畳めば入るかな」

 康介の身体は少しずつ硬直し始めていた。何とか体育座りの様な形に曲げられたが、キャリーケースに入れられる程コンパクトにはならなかった。

「……なんなのよ、もうっ」

 汗だくになった下着を取り替え、ごくごくと麦茶を飲み干して乱暴にグラスを置いた。

「死体って邪魔だな……」  

 つま先で蹴ると、先程より硬直が進んでいる様だ。康介の身体を起こし背中を押すと、フローリングの床を壊れた掃除機みたいにぎしぎしと動いた。

「これなら台車に乗せて運べそう……こういうのも証拠になっちゃうのか」

 由香にメールで聞いてみようとして、書きかけのメールを削除する。  

「早く戻って来ないかなあ」

 もし由香が離婚すれば二人で一緒に住むという夢物語が俄然、現実的になる。

「由香のろくでもない旦那も死ねば良いのに」 

 由香の自宅の住所は確か年賀状で分かるはずだ。年賀状の束からその一枚を探し出し、電車の乗り換えを検索する。

「アクセスが悪すぎよ……」 

 由香が車で来た理由が、康介の死体を運ぶだけでは無いのに気付いた。

「ダメだ」

 由香の夫は不倫を繰り返しており、今日も何処かの女と密会していたのだ。ならば、自宅にいるはずが無かった。

「二人まとめて山に埋めちゃえば良いと思ったんだけどなあ」

 今度こそ罪を共有していれば、お互いに裏切る事なくずっと二人で暮らしていける気がした。

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