リアル・デス・ゲーム
七沢ゆきの@11月新刊発売
ゲームの始まり
『幸せな人間しか、他人には優しくなれないものなのよ』
その言葉は、私の中に滓のように残り、忘れかければ思い出す、指に刺さった棘のようなものだった。
仲のいい女友達の口癖だったからだ。
だったから、と過去形なのは、今はもう彼女とは連絡が取れないから。
通話に出なくなり、LINEは既読スルーが増え、各種SNSの投稿が病んでいくにつれ、私の心配は増した。「大丈夫?」とか「話を聞くよ」とか、何度も声をかけたけれど――私はきっと彼女の役に立てなかったのだろう。
彼女の名前は小野塚カオリ。大学時代からの友人で、お互いに認め合う、親友、のはずだった。
カオリとは卒業しても頻繁に一緒に遊び、旅行にも行って……それがこんなにもぷつんと関係が切れてしまうなんて、思いもしなかった。
なんでも話せる友人が消えてしまうのはとても寂しい。
返事が来ないことがわかっていても、今でもカオリのアカウントにLINEを送ってしまうくらい。
カオリにとってこの世界は、何か足りなかったのかな、とふと思うこともある。それと同時に、カオリに足りない物なんかあったんだろうか、という疑問も。
カオリは私と同じ職業を目指し、私より先に実績を出していた。同性でも目を惹く端正な顔立ちと、モデル顔負けのスタイルまで兼ね備え、頼りになる彼氏もいて、目の前は大きく開けていたはずだ。
ああ、でも。
……彼女からの最後のLINEは、「私は優しくなれなかった」だった。
※※※
そんな風にカオリのことを思いだしたのも束の間。
今の私はただの逃亡者だ。ひたすらに、私は走っていた。
「早くしな! キカ!」
前を行くフォンファが、それでも足りないと私を急かす。
フォンファは足は早い。リズミカルで一定の足運び。
新宿の裏通りで、いつも売れそうにないピアスの露店を開いている中国人のフォンファ。
私の住むマンションへの近道だから使っていた道だったけど、いつ通りかかっても彼女の前には客の一人の姿もないことが多かった。
小太りで、たまに来た客にいまだに少し中国訛りのある日本語で商品を売り込む彼女の姿を、いまさら故郷にも帰れなくなったオーバーステイの娼婦のなれの果てだろうと、私は半分憐れんだ目で見ていた。
二十六歳の私は自分の可能性を過信していたし、私に何が契約されていたかも、まだ、知ることもなかった。
若さという傲慢さは時に自身を輝かせもするし、目を曇らせもする。
それでも、自分の運命を知った時にフォンファに縋ったことだけは、正しい見込みだったと自信を持って言える。きっかけは、「フォンファはただのピアス屋ではない」という話を偶然聞いたことからだ。
それは、たとえば薄暗いクラブの片隅、シーシャの煙でけぶる店で隣り合った客同士。そんな場所で語られる荒唐無稽な噂。
フォンファは行き場のない元娼婦でも売れない露店の主でもなんでもない。彼女の本業は、必要とする人間に必要な物をなんでも確実に売りつける、『なんでも屋』だという噂だった。
普段の私なら一笑に付していただろう。そんな都市伝説のようなもの。
でも、こうして逃亡をしている私はもう違う。
どうせ助からないのなら、私に起きたことを誰も信じてくれそうにないのなら、私も信じられないものに賭けてみようと。
――フォンファに。
そして、私は賭けに勝った。
フォンファは本当に『なんでも屋』だった。
『逃がして。助けて』と哀願する私に、『『自由』は高いよ』と平然と言い放つ姿は、ピアス屋の店番をしているときとは全く違い、古いハリウッド映画に出てくるグランマのように見えたものだ。
そのときの私の胸に満ちたのは、絶望と、希望。
私が巻き込まれた地獄はどうやら本物らしいという黒い色と、でもまだ対抗する手立てはある、というほのかな白。二色はまじりあい茶色になり、濁るミルクコーヒーのように私を押し流し、こうやって走っている今も、私の心を揺らし続けている。
そんな私の思いも知らず、フォンファは新宿の迷路のような街をすいすいと走っていく。
私はそれについていくのが精一杯だ。
フォンファが選ぶルートは独特で、新宿なんて住み慣れた街のはずなのに、どこも見覚えがない。
ここはどこ?
そんな疑問が浮かんではかき消えていく。
その上、フォンファは、そのたぷたぷとたるんだ体からは信じられないほどの俊足の持ち主だった。
彼女より二十歳は若い私でも、この速度は息が切れる。
「遅い! ついてこなきゃ助けられないよ!」
振り向いたフォンファが、険しい顔で私に告げた。
私は必死でスピードを上げる。
かろうじて働く頭の隅に蘇る、全てが変わった日のはじまり。
※※※
それ』に気づいたきっかけは些細なことだった。
私は田舎産まれの平凡な女子高生で、希望していた大学の栄養学科に順調に進学し、在学中にSNSでバズったレシピアカウントをとっかかりにして、今は細々とながら『料理研究家』を名乗って仕事をしていた。
幸せだった。
雑誌への寄稿、自宅マンションで行う料理教室、たまにレシピ監修としてテレビのモニターに映る自分の名前。夢がかなっていく過程を眺めるのは、いつだって楽しい。
私生活では真剣に好きな男もでき、その男との仲も順調で、次の正月にはお互いの実家に行こうかなんてそんな話も出て。
そのくらいの時だった。
音信不通だったカオリが、突然私の前に現れたのは。
「キカ。キカよね?」
マンションの前で私に呼びかけたカオリは、びっくりするほど老け込んでいた。
老婆のように長く裾を引きずる服装をし、つややかだった自慢のロングヘアはざくざくと無造作に切られ、なにより、目が沼の底の鯰のようにどろりと濁っていた。
「キカ、キカ、わたし、わたしカオリよあなたの友達。大学時代は楽しかったね。覚えてる?一緒にベトナムに行った時のことお揃いのアオザイを買ったよねあれまだ大事に持ってるもう似合わないから着られないけれどでも持ってる思い出だけは誰にも壊せないからわたしあのとき幸せだったのよ」
まるで呪文のように一息に言うカオリが恐ろしく、私は思わず後ずさる。
なにか言わなければいけないのはわかっているけれど……驚きに、声が出ない。
私の前から消えていた間に、なにがあったの? カオリ?
「幸せだったころすべてにさよならを言わなくちゃいけないの今のわたしを見せなきゃいけないのそれが条件だったんだ全部取られちゃったぜんぶぜんぶゼンブ」
「よくわからないけど……何かされてるなら警察に行こう? 大丈夫、私もついていくから。カオリのこと、ひどい目に合わせてる人がいるなら、抜け出す手助けもする」
本当は、警察よりまずは病院が必要だと思ったけれど。こんな状態のカオリ、放ってはおけない。
カオリの肩に手をかけかけたとき、ケケケ!と怪鳥のようにカオリが笑った。よく見ると浅い傷跡だらけのその顔は歪んで、唇の端には唾液の白い泡がついている。
「警察! 警察警察警察! あれも偽物! キカ! あなたも逃げられない! あなたはわたしの幸せの一つだったから壊すために教えるために来て来て来てやったのよおおお!」
もう、カオリの声は壊れた音響機材から出ているようだった。
不自然なミキシング、不快なハウリング。これがあの颯爽としていたカオリ?
そのとき、だっと二つの影が飛び出してきた。
すみません、すみません、と頭を下げるそれは、たぶん、カオリの両親だ。
何度かお互いの実家に遊びに行ったこともあるから、うっすらと見覚えがある。
「ええと、キカちゃんですよね。いつかの夏休みに遊びに来た」
「あ、は、はい」
「驚かせてごめんなさいね。この子、仕事の人間関係でいろいろあったみたいで……」
お母さんらしき人が、カオリをなだめるように腕を取りながらまた頭を下げた。
「なんだかね、大学時代がよほどよかったみたいで。そのころのお知り合いを探してはこうやってご迷惑ばかりかけて困ってるんですよ。病院に入れても抜け出して……」
お父さんらしき人が目頭に指を当てながら、カオリの肩に腕を廻す。
「女の子なのにこんなに顔に傷までつけてねえ……綺麗な子だったのに……」
「カオリ……」
呼びかける私の声なんかもう聞こえないように、カオリは半眼になって空中を見つめていた。「大丈夫?」とか、そんな安っぽい言葉を全部拒否するような表情だった。
でも、カオリが、仕事の人間関係でこんなにも壊れてしまうんだろうか? あんなに順調だったのに? 私のずっと前を料理研究家として歩いていたのに? 彼氏も、誠実そうな男だった。カオリをひどい目に合わせる人間なんか、見当もつかない。
そんな私の思いとは裏腹に、カオリの両親は話を打ち切ろうとする。
「今日は突然すみません。ただ、一度ご挨拶に行けばもう満足なようなので、もうご迷惑をかけることはないと思います。本当に申し訳ありませんでした」
「私たちでしっかりと監督するように心がけますので……」
そんなことを言って、二人はカオリを連れて行こうとする。
路肩には、カオリを連れ帰るためだろう、バンが停めてあった。
二人の腕に逆らうように、カオリがこちらを振り返る。
「キカ! 嘘! この世界は全部嘘! でもわたしの言うことは本当! キカのところに鬼が来るのも本当! キカの幸せはあいつらが全部監視してるるううううううううううう」
「カオリ、もうやめなさい。キカちゃんが困ってるから……」
「……鬼ごっこの始まりだよ! キカ!」
目に焼き付いたのは、バンに押し込まれる前、私を見て、にたりと笑ったカオリの顔。
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