猫の爪とぎ

かずみやゆうき

Case.1 自信がない僕の場合

 僕の部屋には二匹の猫が住んでいる。

 一匹はオスのユータともう一匹はメスのナッツ。

 彼と彼女は、仲が良さそうだがお互い依存はしておらず、常に一人の行動に重きを置いているように見えた。

 毎日一度は大きなケンカをしては、ごく稀には同じ布団に丸まって寝ているとなんとも不思議なバランスの中で生活をしていた。

 そんな猫たちとの生活は僕にとってとても快適で、これからもずっとこのままでありたいと思っていたのに、あの日を境に僕の生活はガラッと変わってしまったのだ。


 理由は簡単だ。年齢=彼女いない歴の僕が、なんと同じ職場の後輩である都川七美とがわなみと付き合うことになったのだ。

 それまで、何度か挨拶を交わすくらいだった彼女のことを正直に言うと意識したことはあった。

 だが、『可愛い子だな。でも、僕とは住む世界が違うから』と無理矢理頭の中から打ち消していたのに、なんとその彼女から社内チャットで、『今度の土曜日に映画に行きませんか?』と誘われたのがきっかけだった。


 彼女と見た映画は話題になっていた長編アニメだった。

 僕も昔からアニメ好きだったということもあり、映画が終わってからのカフェでは二人で大いに盛り上がり、その後居酒屋で二人ともしこたま飲んだ後、なんとその夜、彼女は僕の部屋で一夜を明かしたのだ。

 僕にとってこんなに都合のいいこと…、いや、夢の様なことが起きるなんて今でも信じられない。

 だが、その日を境に、七美は僕の部屋に来ることが多くなり、週末は一緒に夕食を食べて、僕の部屋の狭いベットで二人一緒に眠って朝を迎えるという風になっていった。


 ユータは七美の事が大好きで、彼女がやってきたら、尻尾を彼女の足にこすりつけてはぐるぐると喉を鳴らした。一方、ナッツは昔から人見知りだったこともあるが、七美が来るとすぐにソファーやベットの下に隠れてしまう。そして、暫くすると辺りを見渡しながらそこから出て来て、最後には僕の横にぽつんと座るのだ。


 その頃からだろうか…。

 ナッツが色んな所に粗相をするようになったのだ。

 今までは、トイレにきっちりやっていたのに、廊下、デスクの上、水を抜いたユニットバスの中などでやるようになってしまった。

 僕は、そんな粗相をするナッツに対し、余り叱らなかった。


「なんで?何か嫌な事でもあるのかい?」と話しかけながらトイレットペーパーで柔らかいものを掴んではトイレに流す。ナッツは「ごめんね」という表情はしているのだが、一方で、「お前が悪いんだぞ」という風に言っているようにも思えた。


 ある日、いつものように僕の家で夕食を共にしていた時、七美が僕にこう言った。


「ねえ。私、賃貸マンション解約してここで一緒に住んじゃ駄目かな?」


 正直、僕は、驚きの余り声を出す事が出来なかった。

 こうして向かい合っている今でさえ、僕と彼女では全くつり合ってないと自己嫌悪に落ち込むのを必死で耐えているのに、彼女と一緒に住むなんて出来る訳ない…。


「う〜ん、僕はいいけど、本当に君は大丈夫なのか?」

「えっ?それってどういう意味なの?」

「だから、僕なんかが…」

「もう、それ、二度と言わないでって私、前に言ったよね」

「だ、だってさ…」

「分かったって言ったくせに。いつもそうなんだから。もう一度、言うからよく聞いて。私は貴方が好きなの。他の人の言うことなんて全く関係ないよ。だって、私は貴方だけが好きなの。……っ。もう、私も恥ずかしいんだから、何度も言わせないでよ」


 二人の雰囲気が一気に険悪なムードになった気がした。

 余りにも自信がなさ過ぎてうじうじしている僕の姿が七美からすると歯がゆいんだろう。例えば彼女とレストランで食事をしたり外を歩くと「えっ?あれが彼氏?」というような言葉が耳に入ってくる。その尖った言葉は、僕の心の中に深く刺さり、そして黒くジメッとしていくのだ。

 

 素敵な彼女を連れて歩く僕って凄いだろうって思えればいいのに…。


 だけど、七美の『貴方が好きなの』って言葉にじわっと身体が熱を帯びてくる。彼女は慰めなんて気持ちで言っていない。それは彼女の目を見れば流石の僕でもわかる。一体、どんな言葉を返せばいいんだろう?


 その時、さっきまで隠れていたナッツが七美の膝に飛び乗ると、急にくつろぎ始めた。そして、僕の方をチラッと見ると、大きな欠伸をして背伸びをした。


「嬉しい〜〜。ナッツが初めて私に乗ってきたよ!なんだろう、もしかして、私が貴方のことを叱っていたように見えたのかな?だから、私の上に乗ってきて、私にリラックスして深呼吸でもしなさいってことを言いたかったのかな?ふふふ。可愛い〜〜」


 そうかも…と僕は思った。

 ナッツは、何度も俺の方をチラチラ見ては、何かを言いたそうな顔をしている。そうだよな。流石に俺も頑張らないとな…。


「ごめん、七美。僕は、君のことが何よりも大事で…。そして、失いたくないんだ。だから、もっと君に相応しい男になれるように頑張っていくからそれまで待っていて欲しい」


「もう…!私にとっては、今の貴方でいいの。何度も言ってるでしょ!?ほら、もっとこっちに来てよ」


 七美が両手を伸ばしたまま僕にもっと近づけと手招きする。

 僕は、ゆっくりと二歩踏み出す。そして、遠慮しながらも彼女を抱きしめ「大好きだよ」と囁く。


「ふふっ。くすぐったい」と笑う七美はとっても幸せそうに見えた。

 

 僕が彼女を必ず幸せにするなんて必要以上に肩を張らなくてもいいのかもしれない。日々の小さなことを精一杯彼女と共に歩いて行けばなんの恐れはないんだろう。


 ほんの少しだけ自信が芽生えてきた。


 するとどうだろう…。

 いつの間にか七美の膝から下りたナッツとさっきまでしれっとリビングに寝転がっていたユータが、抱き合う僕らの周りで追いかけっこを始めたのだ。

 いつもは本気のケンカの時に走り回る二匹だが、今日はなんだかとても楽しそうに思えた。




Case.1 自信がない僕の場合

終わり







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