愛さないと言われたけれど/言ったけれども
小鳩子鈴
第1話 愛さないと言われたけれど
「結婚はしたが、君を愛さないということは理解しろ」
――はぁ?
途切れていたらしい意識が戻ったときに聞こえた言葉に、私は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたと思う。
微妙に英文和訳っぽいセリフの出どころは、私の前に立つタキシード姿の男性からだ。
歳は25、6くらいだろうか。艶のある黒髪、涼やかな水色の瞳。彫りの深い、けれど濃すぎない顔立ちでスラリとした体つき。すっごい美形な外国人さんだ。
とはいえ。
「……誰?」
「は?」
私の呟きに目の前の男性は形の良い眉を顰める。不意を突かれたそんな顔もかっこいいなんて、なんだかずるくないか。
でも、本当に誰この人。それに、ここはどこ?
辺りを見回すと、ホテル……それも海外の古城ホテルのスイートルームのような室内だった。
年代物の美しい家具、総柄の壁紙で、凝ったモールディングまで施してある。
天井からはシャンデリア。銀の燭台にはロウソクの灯が揺れ、実際に使えそうな暖炉まであった。
木枠の窓の向こうは美しい夕暮れで、高い塔のシルエットが遠くに見える。異国ロマンチック感がすごいな。
壁際には、ザ・執事な感じのロマンスグレーなおじ様が心配そうな表情を浮かべて控えている。
彼の隣のお仕着せメイドさんは、青い顔をしてウエディングベールらしきものを持っていた。うわっ、あのレースとんでもなく豪華じゃない?
「――って、いや待って。なんで?」
変だ。
私は高校卒業後の進路について、母親のオフィスで激論バトルをしていたはずだ。
多忙なワンマン経営者でシンママの母に呼び出されて、「アタクシが選んだ完璧な学歴&人生設計」を強要されて、いつものごとく水掛け論になって。
捨て台詞を吐いて社長室を飛び出すと、エレベーターを待つ時間すらもどかしく非常階段に向かった。
追いかけてきた秘書の坂下氏に呼び止められた私は、振り返ろうとして――
覚えているのは足がもつれる感触。見えたのは飾り気のない天井。そこで記憶は途切れている。
階段から落ちた? じゃあ、今のこの状況はなに?
「聞いているのか、アマーリエ!」
「アマーリエ……?」
話している自分から気を逸らした私に苛立ったようだ。男が眉間にシワを寄せて低音ボイスを響かせる。顔だけでなく声までいいなんて、ますます不愉快だ。
けれど、忌々しそうに呼ばれた名前をオウムのように繰り返した瞬間、私の頭にどっと誰かの記憶が流れ込んできた。
「い、痛っ」
「アマーリエ様っ?」
ズキンと痛みを感じて額を押さえる。イヤリングが重そうに揺れる音の向こうに、気遣わしげなメイドの女性の声がした。
……アマーリエ……? ううん、違う。
いや、違わない。
オルロープ伯爵家の、名ばかりの長女。今日は義妹ヒルデガルドの結婚式。
けれど、ウエディングドレスを着ているのは義妹ではなく私、つまりアマーリエ。
「なにこれ……」
次々と押し寄せる記憶の濁流に溺れそうになる。
頭の痛みはすぐに治まったが、全身に悪寒が走り、目眩がひどくて冷や汗が噴き出す。うー、吐きそう。
ふらついて近くのテーブルについた手には、男の目の色と同じ水色の大きな石の指輪が嵌まっていた。
「今さら具合が悪いフリか? 芝居はもう結構だ」
顔色をなくした私を見下して鼻白むこの男は、ミュラー伯爵家当主のジークハルト。
……ここは、ヴィットガル国の王都ルナベルクにあるミュラー邸。ジークハルトはこの国の重鎮貴族の一人。
そんな情報がごく自然に浮かぶ。
「大人しく別邸で過ごすなら当面の間くらい面倒は見てやる。ただ、今までのように夜な夜な遊び回ったり、俺になにかを期待するなら――」
「ねえ」
いかがわしいパーティーが好きなのはヒルデガルドだ。義妹が自分の名を使って放蕩三昧している深夜、アマーリエは火も落とされた台所で鍋を磨いているか納屋のような自室で繕い物をしている。
噂の間違いも正してやりたいが、その前に。
「君を愛さない、って聞こえたけど」
私が彼の言葉を遮ったことに、ジークハルトはひどく驚いたようだった。
ひくりと頬を引きつらせる彼に目を眇め、ふらつく足に力を入れると体を起こし、冷や汗で顔に張り付く金の髪を掻き上げる。
この髪……先妻を思い出させるとかで、義母には散々されたなあ。引っ張られたり、ざんばらに切られたり、泥水を掛けられたり。
子供に当たるなんてバカじゃないの、いや、バカだろ。器小っせえ。
「なんだ、その態度は……いや、いい。君などに礼節を求めるほうが間違っていたな。ああ、たしかにそう言った。不満は――」
「それって、私があなたを愛している前提っぽくない?」
さらに言葉を遮る私に、彼は信じられないというように目を見開いた。
「まるで、アマーリエがあなたのことを好きで、ヒルデガルドからあなたを奪ったみたいじゃない。ありえないんだけど」
「はっ、その通りだろう。そのために妹を階段から突き落としたというのに、見下げ果てたものだ」
「なにそれ。あの子はピンピンしてるよ。むしろ落ちたの私だし」
「は?」
「汚名を着せられて身代わりにされたアマーリエこそ、いい迷惑」
最初、しらけたように私の言葉を嗤ったジークハルトは、今度はその整った顔に怒気を浮かべた。
「なにを他人事のように……ふざけるのも大概にしろ! そんなことを言って俺の気を引けるとでも思ったか!」
「実際、他人事なんだよね。それに気なんて引きたくないし。ああ、可哀想なアマーリエ。ろくでもない家族に虐待されて、こんな人と結婚させられて」
「な……っ!」
「義母と義妹もだけど、父親も大概だわ。いや、むしろあのくそ親父が元凶でしょ。それにしても、
ヒルデガルドは、アマーリエと同じ歳の異母妹である。
要するに、オルロープ伯爵は結婚前からずっと不貞をしていたということだ。
むっすーと腕を組んで不満を隠さず言うと、信じられないものを見るような顔をされた。
――うん。私もちょっと未整理のまま先走った気はする。唐突に流れ込んできた情報はあまりに過多だった。
この体の元の持ち主は、オルロープ伯爵令嬢アマーリエ。
5歳で実母を亡くし、今日に至るまでの12年間を後妻と義妹に虐げられてきたシンデレラポジションの令嬢だ。
さっさと家を出られればよかったが、幼少期から徹底的に下僕扱いをされてきたアマーリエには難しかっただろう。
次の誕生日、成人の儀の際に修道院に逃げ込むことだけを心の支えに、つらい日々を過ごしていた。
義妹のヒルデガルドは外見だけが良くて性格と身持ちが悪い、甘ったれ娘の典型だ。
このジークハルトとの結婚だって、彼の顔に一目惚れしたヒルデガルドが無理を言って強引に結んだというのに、婚姻直前の昨日、別の男との間に子ができたと発覚したのである。
この世界にDNA判定はないが、それよりも精度の高い判別ができる「魔法」がある。
不義は秘匿できない、しかし婚姻関係で得られる益は死守したい。
欲深いオルロープ伯爵は、あろうことかアマーリエを身代わりに差し出した。
事前の婚姻届け出書には両家名しか書かれていない。結婚するのは姉妹どちらだろうと問題ないなどとうそぶいて、式が行なわれるこのミュラー家にアマーリエひとりを置き去りにして無礼にも去ったのだ。
「どうしても自分がジークハルトと結婚する、と我儘を言ってヒルデガルドに怪我を負わせた」などという事実無根な言い訳までつけて。
控えめに言って、最低である。お前が結婚しろ。
「まあでも、あなたも被害者か。オルロープ伯爵は狡猾だからね、ご愁傷様」
口を開け閉めするだけになってしまったジークハルトに構わず、本物のアマーリエならば決して言わないようなラフな言動を続ける。
「この国では離婚ってすぐにはできないんだっけ。ねえ、なんで祭壇で誓っちゃったの? アマーリエは術を掛けられていたから、あなたが『嫌だ』と言うしかなかったのに」
「……待て。術だと?」
「そ。言葉と行動を縛られていた。ほら、証拠」
ぐいっとレースの袖をまくり上げると、腕の内側に禍々しい紋様が薄く残っていた。
ジークハルトだけでなく、執事なおじ様とメイドの彼女にも見せるように腕を伸ばすと、全員がおぞましいものを見たというように顔を顰める。
「それは……罪人に掛ける呪術だ」
「オルロープ伯爵家では、アマーリエは奴隷と同じなのよ」
ありえない、とジークハルトが呟く。ほんとだよ、ありえない。
痛かったんだから。今も具合悪いし。
さっきまでとは違う厳しい眼差しを浮かべて、ジークハルトは執事に顔を向ける。
「ハインツ」
「ええ、旦那様。ディルク様をお呼びしましょう。薄れてはいますが、一刻も早く完全に解呪していただかなくては」
ハインツと呼ばれた執事はベールを持ったまま立ち尽くしているメイドに指示を出す。
「エラ。ダイスラー閣下は分かりますね。一階の広間から、閣下をここにお連れしなさい」
「ま、魔法省のディルク・ダイスラー卿ですか?」
「そうです。くれぐれも周りに気取られないよう注意の上ですよ」
「かっ、かしこまりましたぁ!」
エラと呼ばれたメイドは、ハインツさんの指示に青い顔をさらに青くしてベールを置くとわたわたと部屋を出て行った。
魔法省に関してのアマーリエの記憶は、王宮にある魔法関連を扱う部署という知識程度だ。それと――
視線を感じて、メイドのエラが出ていった扉から振り向く。
アクアマリンのように青い瞳をすっと細めて、不審者を見極めるように「私」を見つめるジークハルトと目が合った。
「ねえ。解呪ついでに【鑑定】してもらえるかな。それが一番手っ取り早いと思う」
「!」
「『異界の
その言葉に、ジークハルトとハインツさんはまた息を呑む。
そう。アマーリエの記憶によると、剣と魔法のこの世界では、たまに、ごくたまーにあるんだよね。
中身が異世界人と入れ替わる、ってことが。
いい加減、立っているのもしんどくなって、どさりとソファに掛けた。
許しも得ずに座った私を咎めもせず呆然と眺めていたジークハルトが、静かに口を開く。
「……いつ、入れ替わった?」
「ついさっき。あなたがほら『君を愛さない』って言ったでしょ、その時からここにいる」
そう言うと、ジークハルトは気まずそうに目を逸らした。
だよねえ、初対面の赤の他人に言うセリフじゃない。いや、新婦にかける言葉としてもどうかと思うけど。
ま、言いたかった気持ちはわかるし、私も反論したからおあいこだね。
「アマーリエは大丈夫かなあ。向こうの私、たぶんけっこう怪我してる」
「そういえば先ほど、階段から落ちたと。それは、向こうでの話か?」
「あ、ちゃんと聞いてくれてたんだ。そうなんだよね、足すべらせて。首が折れてなければいいけど」
死んではいない気がする。けれど、痛い思いをしているのは間違いない。
しかも「魔法は創作世界の産物」である向こうでは、中身が入れ替わったなんて理解してもらえないだろう。
急に別人のようになった娘を、あの母親がどうするか。心配すぎて胸が痛い。
「私たちの入れ替わりって戻ると思う? このままじゃアマーリエに申し訳なさすぎる」
「……現時点では、なんとも言えない」
「そうだよねえ」
入れ替わりが戻った例も、戻らなかった例もある。なんにせよ、総数が少ないから条件なども分かっていない。
はあ、と長い息を吐く私に、ジークハルトが問いかけた。
「その……アマーリエの中にいる、君は」
「ああ、自己紹介もまだだったね。私は、
「タ、チバ?」
「マリでいいよ」
ジークハルトが言いにくそうに私の名前を呟く。そのとき、窓の向こうから聖堂の鐘の音が聞こえてきた。
――アマーリエとして、ここで生きて――
暮れた空に響く鐘は、そう言っているみたいだった。
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