ドリーが残したアリバイ屋の染色体課題

おふとあさひ

第一章 芽衣のアリバイ作り

第1話 キツネ目のフラグ

 タブロイド系ウエブサイトの記者である野崎芽衣は、棚に置かれた円柱状の水槽に目を奪われた。

 液中に、薄ピンク色をしたクラゲのような物体が浮いている。動いてはいないけど、今にも活動を始めそうなほど、血色がいい。

 その物体は、体を休めるため、長い睡眠を取っているかのように、安らかに浮かんでいた。


「それは、ドリーの脳下垂体のうかすいたいだよ」


 芽衣が声の方に振り返ると、奥の部屋から、井出フラグ(漢字では冨羅狐と書く)が出てきた。すらりと背が高くて、キツネ目のフラグは、女性ものの衣装を抱えている。


「ドリー?」

「知らないのかい? 哺乳類として、世界で初めて誕生したクローンの羊さ」

「クローンの羊……。そういえば、昔、聞いたことがあるわ……」


 フラグは、ローテーブルの上に、持っている婦人服を置き、ソファに腰を下ろした。そして、芽衣を見上げて、向かいのソファに座るように勧めてきた。


 暗い窓から、夕方から降り続いている雨音が聴こえてくる。

 趣味の悪い水槽を見たせいなのか、芽衣には、歯を見せて笑うフラグが、狐のあやかしのようにも見えた。

 ここで雷でも鳴って、フラグの不気味な笑顔の半分を閃光で照らしたなら、芽衣は、逃げ出したかもしれない。

 幸いにも、雷が鳴ることは無く、フラグの視線もローテーブルの服に落ちたので、芽衣は、気持ちを落ち着かせることができた。


「親父から貰ったんだよ。ボクが、十五歳になる誕生日だったかな? どこかで、手に入れて、プレゼントしてくれたんだよ」

 芽衣がソファに腰かけても、フラグは持ってきた服の説明もせずに、水槽の話を続けた。


 芽衣は、先週、この事務所に来て、フラグに仕事を依頼した。

 今日は、その経過を聞きにきている。


「ボクは、生き物に興味がある。だから、この仕事も続けていけるんだ」


 フラグは、”アリバイ屋”をしていた。


 世の中には、アリバイを作りたい人間が数多あまたいるらしく、仕事は繁盛しているらしい。芽衣は、先週、初めてこの事務所に来た時、フラグからそう教えてもらった。

 街中に防犯カメラが溢れ、ドライブレコーダーが普及した昨今は、特に、依頼が増えたという。嘘や出まかせが通用しない世の中になったせいなのだと、フラグは笑いながら言っていた。


「アリバイ工作が、生き物と関係ありますか? 全然、関係性が思いつかないんですけど」


「アリバイをしたい人間は、影をもっている。じゃないと、アリバイを作りたいなんて思わない。隠したいことがあるんだ。やましいことを隠したいというのは、動物の本能だ。滑稽で、理論的でないのに、本能で隠そうとする……。実に面白いじゃないか」


 芽衣は、アリバイ作りを依頼した自分がバカにされたようで、イラっとした。


 フラグは、ローテーブルの上の服を一枚ずつ広げて芽衣に見せ、それを重ねていく。服は、帽子から靴まで、一式コーディネートされているようである。

 何か説明を受けたけど、芽衣はさっぱり頭に入って来ない。さっきのフラグの発言が、頭から離れないでいた。


「さっき言われたこと、どういう意味ですか? 動物みたいだって? バカにしてるんですか?」


「いやいや、バカになんかしてないよ。ボクにだって、誰にだって本能は備わっている。それを出すことだって、恥ずかしいことでは無い。ただ、その本能が、何に関係があるのか、ボクは、そこに興味があるんだ」

 芽衣は、アリバイ作りに悩んでいた頃、フラグを紹介してもらった時のことを思い出した。


――芽衣は、取材中、気が急いて、勢い余って、ある施設に侵入してしまった。

 ”不法侵入”ということで、警察が調査を始め、芽衣の元にも私服警官が来て、事情を訊かれた。


 芽衣は動揺した。

 確かに、不法侵入したことに間違いは無いが、何かを盗んだわけでも、盗み見たわけでもない。

 これまでにも他の施設でなら、何度かやったことがあったし、今回は、警察が過敏に反応しているようにしか思えなかった。


 当日のアリバイを訊かれても答えられなかったので、また来るから思い出しておくようにと、私服警官から告げられていた。


 相談したのは、隣に席を並べて働く、同僚の柴田日南ひなみだった。

 日南は、すぐにカバンから名刺を出し、相談してみるといいよと、フラグを紹介してくれた。

 ちょっと、変わった人だけど、信頼は出来る人だからと――


(ちょっと、変わった人……)

 芽衣は、目の前の変人を眺めながら、(そういうことか……)と納得した。

 フラグは、人間を含めた生き物や動物に、異常に興味を持ち、執着心のようなものまで持っているように見えた。

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