第2話 不幸中の幸い?
自分の名前すら分からないこと気づいた時は途方に暮れてしまったけどここが病院であることが幸いだった。
ナースコールボタンを押すのはなんとなく心苦しかったけどそんなことも言ってられない。
尋ねてきた看護婦さんは何やらぎこちない動作で話を聞いてくれたが聞き終わる頃には真剣な表情で担当医を呼んでくる、と言って急いで病室を後にしていった。
やってきた担当医の女医さんの指示に従って幾つかの検査を終えた頃にはすっかり日も暮れており今日はこのまま入院することに。
現状すら掴み切れていないのにはたして眠れるのだろうか?と気にしたのも束の間、ぐっすり熟睡だった。...もしかして僕はかなり図太い人間なのだろうか?
翌日、看護師さんに案内されて診察室へと入ると昨日の女医さんが待っていた。促されるままに椅子に座ると、早速とばかりに女医さんは話し出す。
「...結論から言うと記憶喪失でしょう。あなた個人に関する情報の9割以上、それに加えて幾つかの一般常識にも欠陥が見られます。問題は回復についてなのですが...現状ではどうにも情報が少ないですからはっきりと断言はできませんが、過去の症例から推測する限り...回復の見込みはかなり薄いと思われます」
「はぁ、そうですか」
そう言われても大事な記憶があったのかも分からない訳で。女医さんには申し訳ないが実感がないから生返事を返すので精一杯だった。
「ご自身がどういう状況で私共の病院に搬送されてきたか看護師から聞いていますか?」
「いえ、なにも」
そういえばその辺りも全く聞いてなかったっけ?たしかに目覚めていきなり病院っていうのも急な話だよなぁ。
「私共の病院近くの河川敷であなたが倒れているのを近隣の住民が発見し、通報を受けて駆け付けた警察が保護しました。発見時に衰弱が激しかったためウチの病院に搬送されてきました。それでですね――」
そこまで説明すると女医さんは一度言葉を区切る。そうしてなにやら躊躇いながらも言葉を続けた。
「現在、警察がご家族との連絡を取ろうと鋭意捜索中ですがどうにも上手くいっていません。本来、男性が行方不明になれば家族がすぐに捜索届を出すはずなのですが...先日に引き続き同じ質問をしてしまいますが、なにかご家族に関して覚えていらっしゃることはありませんか?」
「家族、ですか」
質問に答えるために今一度自分の中に微かに残る記憶を呼び起こす。もちろん、劇的に何かを思い出すようなことは無かったが...一つ、家族に関して思うことがあった。
「何か心当たりがおありですか?」
(家族...家族かぁ...)
「いなかったと思います」
「...は?」
「家族、いなかったような気がします。...いや、違うな。家族なんていたことありません、うん、こっちの方がしっくりくるかな」
なんとなく、自分の残された少ない記憶の中に家族の温もりさえも残っていなかったのは失ったのではなく初めから知らないからではないかと思った。
そこにちゃんとした理屈なんてなかったけど、それが真実であるという確かな直感があった。...まぁ、他人に言ったところで分かってもらえる気はしないけど。
女医さん、改め霧島先生とはその後も幾つか話をした。
一先ず、警察の捜査はひと月程である程度の区切りをつけるということでそれまではあの病室で暮らすことになるらしい。
そういうのって本人に言ってもいいんだろうか?と思わなくもなかったけれど、いない人物を探すなんて時間の無駄だし一か月で終わるんだったらその方がいいか。もしかしたら僕が勘違いしてるだけで本当は家族がいるのかもしれないけど。
それでもし家族が見つからなかった場合は養子縁組登録をしている家庭に養子として迎え入れられるとのこと。
なにやらこの養子縁組に関して少し問題があるらしいのだが、それはまた追々話してくれるとのことなので今日のところはこれで終わりだ。
診察が終わり今は最初に目を覚ました病室に戻されて備え付けのベッドに横になっているけれど、なんというか実感が湧かないな。
自分が誰かと家族になるという経験に得体のしれない不気味さを感じる...ような気がする。
1ヶ月の入院生活についても少しだけ話があった。
どうやら僕は世間の常識についてかなり疎い部分があるようなので病院にいる間は霧島先生と毎日1,2時間ほど面談という形で勉強をしなければならないようだ。勉強と聞いて、忌避感を抱いたのが顔に出ていたのか霧島先生は宥めるように言った。
「勉強といっても難しいことをするわけじゃありませんよ。雑談に近い感じです。世間話でもするような感じで聞いてくれれば結構ですから」
世間話と聞いて自分がホントに無知なんだなぁ、となんとも他人事のように思ってしまった。
我が事ながら、記憶喪失だというのに随分と緊張感がないというか。いや、無駄に緊張したいわけではないし悲嘆に暮れたいわけでもないけど。
妙に楽観的なのは生まれつきだったりするのだろうか、なんてしょうもないことを考えていると喉に渇きを覚えたので自販機を探しに行くことにした。
先生もこの病棟から出ないのであれば自由に歩き回っていいと言っていたし、暇つぶしに少し病院内を探索してみようか。
1ヶ月滞在することになる病室がある階は他にも同じぐらいの大きさの空き病室が幾つかあるだけでその他には移動用のエレベーターと非常階段しかなかった。
とはいえ一つ一つの病室の設備は意外と充実しているので生活に不自由することは無さそうだけれど。
あと、ぐるっと一周すると自分の病室に着くことからこの病棟が円柱状の形をしていることも分かった。
壁はその面積の7割を窓ガラスで構成しており外の景色を見た感じ此処は2階だろうか。外の景色はまさに病院の中庭といった感じでよく手入れされているがこれといって特別なものはなさそうだった。
上の階には屋上しかなく立ち入り禁止の札があったので1階へ降りてみることに。あぁ、そういえば一つ気になることがある。
「んー他の患者さんを全く見ない。僕以外誰も入院してないとかそんなことあるか?」
疑問はあれど現時点で解決するわけもないので取り敢えず気にせず散歩を続行する。1階もほとんど2階と内装は変わらないみたいだ。
途中で一か所使われている病室を見つけたが、残念なことにその病室の患者さんは留守にしているようで、他人の私物を物色するようなマナー違反なんてできるはずもなく...
この後の予定に頭を悩ませながら、ふと窓の外を眺めてみると庭に植えられた大きな木の下で車椅子に座る人影を見つけた。
第一村人発見!とばかりに話かけに行こうと思ったが先生に言われたことを思い出し歩みが止まる。
(この病棟から出るなって先生に言われたんだった。んーでもなぁ、せっかく人に会えたわけだしなぁ...うん、まぁ怒られたら怒られたで素直に謝ればいいか。病棟からそんなに離れてもいないし少し話を聞いてみるだけだし...)
そう思いなおすと、大きな木の木陰で空を見上げている車椅子の人物の元へと歩を進めていく。少し早足になってしまったのは、なんとなくこの出会いが良いものになりそうな予感がしたからだ。
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