第35話 榊原の愚痴2
「それはそうと今日はあのユミちゃんって云う子は面白かった。昼間も働いているって言うが何をやってる子なんや」
波多野がさも榊原の愚痴に付いては、これでほぼ解決したと急に話題を変えられた。そう謂われればもう問題がないようにやり過ごされると、今日の努力が水疱に帰す。それでも榊原はサッサと話に乗らざるを得ない。なぜなら妻のご機嫌の良し悪しを今でも大半を此の男が握っているのだ。
「まああう謂う店で働く子は余り自分に関しては積極的には喋らないしな。それは生活臭さを出してしもたら寄りつかんようになるさかいや」
「俺なら構わんがそう謂うもんなんか」
「お前だけや皆が最初からそんな重荷を背負いたくないやろう。あの調理場に居る学生のバイトでもそれぐらいはわきまえてるさかい黙ってる」
まだ気楽な学生気分が残っている波多野は世間を甘く見ている。
「なんでか分かるか。ひとときの人間関係から逃れてみんな夢を見るために祇園まで来るんや。そんな客の夢を台無しにしたらもう客は他の店へ行くか別の女の子に替えられる。するとその子は干上がってしまう。そやさかい言うたらあかんからああ謂う店に入っている子は詳しい身の上話はせえへんのや。けれどぼくが融資先を探していると言ったらその話を信用して世話してくれた。その時にユミちゃんは少しだけ言ってくれた。それで何でも室町辺りの会社の受け付けをやってるそうや」
室町で受付嬢をやってるか。まさかと思うが、それはこの前に牧野が出会った氷結した女じゃないだろなあ。それでも牧野から聞いた相手とユミちゃんでは相当イメージが違った。
「まさかその子は大崎って言うやないやろなあ、下の名前は本当にユミちゃん何か ?」
「だからさっき言ったようにどの店の子もちゃんとした名前かどうか誰も知らん、それに皆が苗字は真面には言わへんからなあ」
「そうか室町のどの辺にある会社や」
波多野がここまで女に対して移り気なのかと呆れた。
「室町にはその手の会社がごまんとあるだろう。俺はまだあの店に行きだしてひと月余りなのに、それであの子がそこまで言う訳ないやろう。知りたければもっと通い詰めて店の外で頻繁に逢えれば別やけどなあ」
矢っ張り
「波多野はバイトもしたことがないんやろう」
まあなあ、と言うように波多野には、それは大した問題じゃないという顔をされてしまった。
榊原にすれば、その顔で世間のしがらみに晒されれば、管理社会がどう謂うものなのか云ってやりたいが
「まあ、あの店は珍しいほどきちっとした店だけに、雇う女の子もそこそこおもてなしを心得た子をあのママは使っているから良いけれど、他の知らん店で直ぐに女の子に身許を聞く素行調査なんてものをすれば逆に女に
と榊原は流石に四年も前から世間のしがらみをもろに受けているだけあってそう言われると波多野も気が引けた。
「いや、俺はそう謂うつもりはないんだがちょっと気になっただけだ」
「だから用心しろって言ってやってんだ」
と榊原は懲りない奴だ、昔はそうでもなかったと眉を寄せた。
榊原はサッサと歩き出すと三条で京阪電車と交差する地下鉄乗り場へ入った。波多野は二駅先の烏丸御池で乗り換えて北大路まで行くが、榊原はそのまま西大路駅まで乗る。まあ介助が必要なほど
この町の地下鉄は平日は最終便でも座れるほど空いている。波多野は地下鉄が乗換駅の烏丸御池に近づくと、車内で座っていた榊原に声を掛けた。
「なあ榊原、紗和子はどうしてるんだ」
「さっきの店で話しただろう」
「ああお前の愚痴は聞いた」
「ならその通りだ」
更に掘り下げて訊く前に電車は駅のホームに入った。空いていても乗換駅だけ有って乗降客がゾロゾロと移動した。波多野もそれに合わすように動いたが入り口の手前で一度立ち止まった。そこで訊いた真意が気になるが、降りてドアが閉まると榊原を乗せた電車は静かに動き出した。波多野は暫く地下の暗闇に消えてゆくテールランプを見送って烏丸線の乗り場に急いで、北大路行き終電に乗った。闇の中を走る電車のシートに身を沈めて波多野は瞑想した。
紗和子には大学の近くに住んで居ると言った。その紗和子に、せっかく京都の町へ引っ越してもうひと月も経つのに療治さんの家にまだ挨拶に行かないのかと責っ付かれた。紗和子は俺のアパートを早く知りたがっている。それを適当にはぐらかすから紗和子は榊原に当たって来る。それを榊原は俺に対する愚痴だとして言うから聞き流している。まあ今日はそう受け取った。
平日の終電は空いている。波多野は北大路で降りるが、残っているのは殆どが五十前後の管理職だ。彼らにはまだ定年までの住宅ローンが残っている。それもまだ此処より土地が安い岩倉方面迄乗る客だろう。おそらく終点の国際会館駅で家の者が迎えに来て更に奥に行くのだろう。俺もあと十年すれば矢張り遠い郊外に家を買って、終電に乗り合わせた男達の後を追うか。ホームで降りた波多野は、三十年後の自分をそこに重ね合わせると、春だと言うのに背筋には冷たい物が走った。
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