第34話 榊原の愚痴

 店内の五つのテーブル席が一杯になった。ユミちゃんは新しいお客さんの処に行ってまたママが、随分と話が弾んでいたわねとやって来た。

 最初はドアを開けた途端に落ち込んだ榊原さんを見た時はどうしたもんやろうと思ったらしい。

「それでも新しいお友達を連れて来られて話が弾んでいたわね」

 ここへ来ればいつも家の話をする。それは紗和子の事だろうとママに訊けば、どうやら此の店では波多野の話も一緒だとママの口から聞かされた。

「波多野さんがその榊原さんの奥さんとの縁を取り持ったそうなんですか」

 と言われ波多野も、愛想良くママに返事をした。

「でも家ではその奥さんが時々は波多野さんの話をされて余り気が乗らないと聞いてたわよ」

 なんや榊原が此の店に連れて来た訳がやっと判って来た。要するに自分の口から言い出しにくい話を聞かせるために呼んだのだ。だがそこまで愚痴を聞いてくれたママも大したもんだ。普通はその場限りで受け流すか、適当にはぐらかすのに、此処のママはそこまでしんみりと相談に乗ってくれる。そして他人事ひとごとやないと想わせる人柄も秘めているようだ。

「それで紗和子はどうしてんねん」

 としょうがないからここまで努力した榊原の為に聞いてやった。

 榊原は淡々と紗和子への愚痴を語り始めた。それはママが切っ掛けを掴んでくれたお陰で、波多野にも愚痴を言えるようになった。隣に居るママまでがしんみりと聞いている処を見ると偽りはないようだ。しかしその愚痴は波多野にも責任が有った。

 榊原とは学区外で中学生までの彼を知らなかった。それでも広い田舎では住人が少ないから、高校に入ると結構離れて居ても同じ学校になる。紗和子はその逆でほんの目と鼻の先の近所にいるから毎日顔を合わせて、知り尽くした幼馴染みだ。

 波多野が高校で榊原を知ってから紗和子も彼と顔馴染みになった。去年までにそう謂う関係から二人は一緒になった。当然に榊原が言う紗和子の愚痴は、波多野の場合はこうだったと言う比較論が多いようだ。だがそれは違うだろうと榊原は反論したいが、それを紗和子自身に向けられないから、この場を借りて波多野に喋っている。

 榊原の愚痴は波多野の心の奥に訴えている。此の辺りから聞いている波多野の水割りはピッチが上がって、結局は帰るまでには榊原と同じだけ呑んでしまった。ただ最初にピッチを上げた榊原とは違い、波多野は後半帰りがけにピッチが上がった。だから同じだけの水割りを呑んでも、榊原のしっかりした足取りとは正反対に、波多野の足取りは乱れていた。 

「人には見えない良さも惚れた相手にはよく見えるものよ」

 と店の外まで見送ってくれたママの、この一言は愚痴の溢し合いで終止した二人の頭にかなり強烈に残った。二人は花見小路から最終の地下鉄に乗ろうとして五月の夜空を仰ぎながら歩いた。

「なあ榊原、紗和子を愛しているのなら何を聞かれてもいいんじゃないのか」

「ああ、だけど聞くだけではストレスは溜まる」

「堪えろ堪えろ陽はまた昇る」

「波多野、まだ酔いが醒めてないようだなあだがそこまで呑ませた俺にも責任は感じているよ」

「責任かそれなら俺の方が大きいかも知れんななんせ紗和子をお前に押しつけたようなもんやからな」

「それは間違ってる俺から望んで波多野に頼んだ。頼んだのはけしてお前の気まぐれやない俺は紗和子が好きやったそして哀れにも思えたそれが愛しさに変わっただけやそやさかい気が無いのにいつまでもズルズル紗和子の気持ちを引き摺らせているからや」

 そう言われると辛い物があった。

「榊原、お前いつから紗和子が好きになったんや」

「三人でいつか電車に乗って由良川の上流へ魚釣りに行ったやろうあの時は餌のミミズが気色悪くてよう触れんかったそれを紗和子は馬鹿にするでもなく甲斐甲斐しく餌を付けてくれた。俺は虫を触るのが嫌いでいつも同じ歳頃の女の子に馬鹿にされていたが紗和子は違ったその逆でしゃあない人やなあと笑ってやってくれたあれで一遍に気持ちが変わってしもたんや」

 普段から周りの女の子に余り良い扱いを受けてなかった榊原には、その日から紗和子は特別な人に映ったらしい。

「そうかあの時は本当に可笑しかったがいつか自転車に乗って三人で美山へサイクリングと山登りをしただろう」

 波多野は何かひ弱な奴やなあと思って彼奴あいつを丹波の山奥へ連れて行った。勿論それは紗和子が一緒だから付いて来た。しかし思ったより榊原は体力がある奴だったのには驚いた。こうなれば我慢比べやと、尾根筋から山頂を目指したときに沢の下に熊を見付けた。この時は俺も紗和子も腰を抜かしたのに、榊原の冷静な対処には、波多野はともかく紗和子はしっかりと見ていた。

「あの時はお前は冷静に熊は目が悪いし此処から熊に向かって風は吹いてへんから大丈夫やうてじっと見てたなあ」

「あの時は熊よりも紗和子が俺の腰にしっかり食らい付いてそっちの方が熊より気掛かりやったなあ」

 波多野は逆に紗和子に食らい付いていた。どう見てもあれば後から思うとええ笑い話になった。

「あれからや、それで俺が大学に行ったら丹波には殆ど帰って来なかったやろうまあ盆と暮れには帰って紗和子に会うたびにお前を勧めてたんや」

 それでも同じ信用金庫に勤めながらも紗和子は中々踏ん切りを付けなかった。

「それで俺が四回生になると珍しく盆と正月以外に帰って来たやろう。あの時に遠回しに丹波には大学を卒業してももう戻っていひんてうたんやそれで俺の気持ちがどうやら紗和子に伝わったさかいにまあ時々はごねても心配ないわ」

 と変に榊原を納得させた。


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