第30話 二人の反応2

『そうだ始めの一歩が大切なのだ』

 と室屋に言われた言葉を心の中で復唱した。あれは最初の一歩から全てが相手のペースに乗せられて振り回された。そして昼間会った女も幻なんだ。そんな俺のもとからその存在を消すように去った女が、そう簡単に俺の前へ姿を現すはずがない。

「波多野、俺は何を恐れているのだろう」

 この言葉に波多野もそうだが、勿論側に居るみぎわや室屋さえ驚いて牧野を見ている。それ以上に波多野がどう答えるのかそれを待っているよ。

 波多野は牧野の貌を真っ直ぐ見据えた。学生時代には一度も見せなかった真剣な顔がそこには有った。これが実家の寺で修業を積んだ住職の後ろ姿から学び取った貌なんだろうとおもった。

「牧野、そうだったのか?」

「何だ波多野、お前何を悟ったのだ」

「お前が大学生活の大半をフイにしてまで己を偽り続けた真意を今考え続けている」

「彼女達を呼んでまで俺が聞いて欲しかったのは、そんなデタラメな人生論じゃないんだがなあ」

「とにかくその大崎とか言う女だが……」

 これには牧野より室屋が先に反応した

「何なのその大崎って謂う女は」

 室屋は牧野に鋭い視線を浴びせた。これには牧野も渋い顔した。

「まあ聞けッ、俺はこれから室屋さんに説明してやるからなあ」

 勝手にしろと牧野は腕組みをした。

「その大崎と言う女は勿論それは牧野からさっき聞かされたばかりで俺はまだ何にも知らんから推測だが……」

 牧野は今日の得意先回りで訪問した受け付けでその昔の女とバッタリ出くわした。此処で室屋とみぎわが真っ先にうつむく牧野を見たが構わず波多野は続けた。

 驚く牧野を尻目に、最初は人違いかと思わすように、その女は動じず、それで彼も得意先の人と顔合わせをした。しかし同行した会社の先輩からは後で「あの受付嬢は一年前から知っているが今日は様子が違った」と言われたそうだ。

「どう違うの」

 これには牧野も気づけず、同行の先輩しか解らない程の微妙な変化があった。例の抽象的な事しか答えられず、室屋を逆に苛立たせた。全く動じないのは照れ隠しかも知れないけれど、もしそうなら大した女ね。それでも変な話とみぎわに言われてしまった。これには波多野も嘘偽りの無い話だと熱心に説いたが、肝心の牧野は瞑想するように沈黙していた。終いには二人とも波多野さんより、どうして直接牧野さんが説明しないのかと迫られた。それでようやく重い腰を上げて、ぽつりぽつりと語り出した。

「俺はあの先輩がふと漏らした氷の微笑ならぬ氷の美少女の意味を今頃になって薄々解ってきた」

 それはそのままあの女の人生そのものだ。まあ、まだあの女の人生を語れるほど知ってはいない。それどころか半年以上、一年未満の付き合いだ。しかし凝縮されたお陰で、おそらく十年以上付き合っても知り得なかった物を、俺はあの女から学んだ。自分の身の上に降りかかるものは、たとえ親の死に目でも氷の微笑を貫くもんだと。勿論そんな言葉をあの女は言わないが、人をどうこうできるのは真心で接する愛のみだと教えられた。その女が俺の前からまるでそんな戯言たわごとをいつまで信じていたのと謂う顔をされて去って行ったんだ。

「だから俺はもう自分を見失たくない」

 と此処で牧野は初めて室屋の顔を真面に捉えた。射貫かれた室屋がたじろぐほどしっかりとした眼差しを牧野から投げられた。

「もう大丈夫ね牧野さんはもう十分に氷の魂と向かい合ってるから」

 とその眼差しを見たみぎわが、真っ先に太鼓判を押してくるが、そんな一筋縄の女では無いのは牧野が十分に承知していた。

『生きてる限りこれで終わりだという人生は無い』

 これはあの女が良く耳元で囁いてくれた言葉だ。お陰であの受験戦争の重圧の中で俺はその言葉を枕元に置いて乗り切った。一つ乗り切れば確かにあの女が言った通りまた新たな闘いが始まった。それを乗り切るために今度は自分を偽って出鱈目でたらめに生きた。それが出来たのは心の底からそれを見抜いてくれた波多野がいたからだ。だが波多野はその役割を今度は室屋多美に託したんだ。

「なあーにー、氷塊は直ぐに溶けてなくなる」

 と波多野は牧野の心情を汲むように「解けて流れりゃあ後はサッパリと出直しゃあいいんだよ」と雪解けを待てと言っている。

「だがよー、波多野、その前にひと嵐吹きそうなんだがなあ」

「そこだ、それで室屋さんに来てもらったんだ」 

 そうだろうと波多野は室屋に同意を求めた。

「相談に乗るのはやぶさかでも無いけれど、棄てられた昔の女の相談なんて何であたしが聞いてあげなけりゃあならないの」

 と少々気分を害したようだ。これにみぎわも同情してしまえば処置なしだ。と波多野はその瞳を見ながら覗った。

「多美ちゃんは実家でも小さな子供の相談相手だったじゃん」

「まあねでも今度はこんな大きな子供が社会へ第一歩を踏み出したばかりで受けたトラウマは解るが、まさかそれぐらいで会社を辞めないわよね」

「此処に居ても埒が明かないわね、多美ちゃん、あたし達二人でその女の居る会社へ乗り込んでみよう。牧野さん、今度はその会社にはいつ立ち寄るの ?」

「まだ先輩と廻る所があるから、それが一巡しても先方に十分に説明できるように暫くは社内研修と平行だからそれが終わってからだろうなあ」

「だからいつになるの」

 とじれったそうに問い詰めると、習得状況によるけれど十日ぐらいだと思うがそれは担当の先輩が決めるらしい。

 よし、それじゃあ、あたしと多美の二人で乗り込もう。それまで吉報を待てとみぎわに言われた。 




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