フックと大穴

 仕事のミスが多い新入りがいた。

 毎日毎日、彼は怒られ、指導を受け、夜遅くまで職場に残っている。


 当たりのきつい先輩からの過剰な指導にすぐに辞めてしまうのではないか、と危惧していたが、なんだかんだと彼は五年も勤め、今では責任者の一端を担っている。


 彼は言う。どうして入社当時、暴力にも見える指導に音を上げずに続けることができたのか、という質問に、あっけらかんと答えたものだった。


「コミュニケーションの一環だったからな」


 コミュニケーション……? 

 一方的ないじめにも思えたが……。


「関係性を一歩前へ踏み込ませるためには、きっかけが必要だろ?

 プライベートな話を毎日続けて仲良くなるよりも、俺自身に隙という『穴』を作ってしまえば、先輩は自然とそこを指摘しようとする。

 というか、仕事の内ならしなくちゃいけないんだ。指摘でもツッコミでもいいけど、最初の柵さえ乗り越えさせてしまえば、コミュニケーションは回り始めるんだ。

 使えない人材と思われるかもしれないが、致命的なミスをしたわけでもないし、小さなミスを毎日続けただけだ……結果、俺は可愛がられただろ?」


 ……確かに、優秀な新人よりも、ミスばかり多い彼の方が、先輩たちに可愛がられていた。同時に怒られもしていたが、いつからか説教は、『またかよ……しょうがねえなあ』と言われるような、ムードメーカーになっていった。

 完璧過ぎると職場が窮屈に感じられるが、誰かが先陣を切って『ミス』をしてくれれば、気が楽になる……。一人目になるかもしれないという不安が、二人目ならまだマシか、という安心になっている。


 ただ、その気の緩みでミスが起きてもまずいが、大事故を起こす前に小さなミスをしてしまう、というのは、職員のメンタルを弛緩させることになった。


 張り詰めていたら、ぷつ、と切れた時に大惨事が起きるだろうから。


「可愛がられた俺は今、責任者の立場にいる……、優秀だけど先輩に可愛がられることもなく、縦も横も人間関係が希薄なお前は、致命的なミスをしていないのに辞めたじゃないか」


「……そうだな」


「ミスという穴を作ることで、指摘という相手のフックが俺にかけられるわけだ。人間関係は言葉を交わさなくちゃ、始まってくれないからな……。どう声をかけさせるか――声をかけなければいけない状況にしてしまえばいい。これが俺の処世術ってわけだ」


 処世術、か……否定するわけではないがな。


「……人間関係が希薄だと、事故や事件に巻き込まれないメリットもある……お前がいま困っているような、女性とのいざこざもなければ、金の貸し借りによるトラブルもない。

 おれは優秀だからな、あの職場を辞めたところで、手堅く『優秀』でいられる。トラブルがなければ楽しい思い出もないが、それが嫌なわけでもない……人それぞれだろ」


「それがお前の処世術なら文句はねえよ……ところでさ、」

「嫌だ」


「早いだろ!? まだなにも相談して――」


「どうせ『金を貸してくれ』、だろ? もしくは揉めている相手との間に入ってくれ、か?」


「違う! いや、もちろんそれでもいいんだが――」


 旧友はおれの顔を、いや……頭を指差し、


「お前の優秀な頭脳が必要なんだ!!」


「だとしたら無理だな……嫌ではなく、無理だ。おれの頭脳は人間関係のトラブルを解決できるようにはできていないんだ。人間関係が希薄だったおれに頼む案件ではないな」


 残念ながらカテゴリーエラーだ。


 そういう分野こそ、お前が最も得意とする部分だろう?

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