第14話 「さよなら。ミチルちゃん」
どうしよう。
菊江さんの言葉が頭の中で何回も響き渡る。
『臼井ちさとしてのアンタを要に惚れさせるんだ』
『臼井ちさで来たら認めてやるよ』
菊江さんは今後一切、幸田ミチルとしての私を認めてくれないつもりだ。
幸田ミチルに夢中な要さんの心を、どうしたら臼井ちさへ振り向かせることが出来るだろう。
ひとつだけ言えることは、今度こそ幸田ミチルは要さんの前から消えなければならない、ということ。
幸田ミチルが消えたら、要さんはきっと深く傷つくだろう。
・・・けれどその後、臼井ちさがその傷を癒してあげられないだろうか?
臼井ちさの私だって、要さんのことを少しは知っている。
傷ついた要さんをさりげなく励まして、少しづつその距離を詰めることは出来ないだろうか?
でも、要さんの顔を見て、別れを告げることなんて出来っこない。
だから・・・。
私は震える指で、要さんへ幸田ミチルとしての最後のメッセージを送った。
(要さん、今までありがとうございました。)
(私は遠い所へ旅立たなければいけなくなりました。いえ、決して天国へ旅立つわけではないので心配しないでください。)
(私は要さんに釣りあう女ではありません。こんな私を好きになってくれて本当に感謝しています。)
(どうかお幸せに)
そして要さんのラインアカウントをブロックした。
その後、職場で見掛ける要さんは特に変わった様子は見られず、普段通り業務をこなしているように見えた。
ただ、気のせいかもしれないけれど、ふと気が付くと要さんの視線が私に向けられているのではないか、と思える瞬間がある。
それは昼休憩の為に席を立った時や、仕事の手を休めてコーヒーカップに口を付けた時に訪れる。
目が合うことはないから、確証はないのだけれど。
あのメッセージを送ってから2週間。
要さんと過ごしたかけがえのない日々が、もう遠い過去のように思える。
時間が遅く感じ、その世界はモノクロのように煌めきを消し去った。
それなのに・・・私は要さんに、結局なんのアクションも起こすことが出来ずにいた。
給湯室や廊下ですれ違っても、声を掛けるどころか視線も合わせられずにいる。
要さんは失恋したばかりなのだ。
私はその張本人なのだ。
それなのにその相手に気軽に声を掛けることが出来るほど、私の神経は図太く出来ていない。
どうして私は臼井ちさで要さんに近づけるだなんて自惚れていたのだろう。
今更、そんなことが出来るはずもない。
もう要さんとの甘い時間は二度とは戻って来ない。
要さんと初めて言葉を交わしたいつぞやの児童公園で、私はお弁当を食べていた。
深まる秋の風が少し冷たい。
今日のおかずは玉子焼き、ウインナー、昨夜の残りのひき肉で作ったハンバーグ、茹でたブロッコリー。
食欲なんて一ミリも湧いてこないけれど、万が一私が倒れて周りに迷惑をかけるわけにはいかないので、機械のように食べ物を口へ運ぶ。
ふと足元の地面に影が差した。
見上げると要さんが私の背後に立って、煙草を吸っていた。
思わず不自然に目を逸らしてしまう。
しばらく無言の時間が過ぎ、その息苦しさに耐えられなくなった私は、仕方なく要さんに声を掛けた。
「和木坂課長・・・こんな所でどうしたんですか?」
すると要さんは引きつった笑みを浮かべ、ベンチの背もたれに手をついて唐突に言った。
「ミチルちゃんにフラれたよ。」
「・・・・・・。」
「遠くへ行くんだって。そんな見え透いた嘘つかれてもさ。」
近くで見る要さんの表情は、憔悴しきっていて目の下にはクマができていた。
要さんにこんな顔をさせているのは誰?
幸田ミチル・・・私だ。
また罪悪感で胸がキリキリと痛んだ。
「ねえ、臼井さん。ミチルちゃんはどうして俺をフッたんだと思う?」
縋るような目で、要さんは私に問いかけた。
私はどう答えていいのかわからず、固まった。
でも・・・今が臼井ちさを要さんに印象付けるチャンスなんじゃない?
落ち込んでいる要さんを励まして、願わくば少しだけでも近づけるかもしれない。
私は意を決すると、控えめに笑みを浮かべ、要さんに励ましの言葉を掛けた。
「夜・・・眠れていないんですか?」
「・・・ああ。」
「寝る前に温かいミルクを飲むといいですよ?」
私に要さんの体調を心配する資格なんてないのに、そんな偽善的な言葉がスラスラと飛び出した。
「私にはミチルさんの気持ちはよくわかりません・・・けど、遠くに行くっていうならそれを信じてあげればいいんじゃないですか?もしかして本当に遠くへ旅立ったのかもしれませんよ?海外へ自分探しの旅へ行ったとか。」
「俺に黙って?」
「女心と秋の空って言うじゃありませんか。女性の心は気まぐれなんですよ。」
「・・・・・・。」
「元気出してください。ミチルさんだけが女性じゃありません。和木坂課長ならすぐに素敵な女性を見つけることが出来ると思います。」
「・・・・・・。」
「もしかしてミチルさん、和木坂課長のこと遊びだったのかも。だからもうミチルさんのことなんて忘れてしまいましょう!」
だからお願い、要さん。
幸田ミチルなんて忘れて、私を、臼井ちさを見て・・・
私はそう願いながら、要さんの悲しみに沈んだ瞳をみつめた。
「和木坂課長・・・私じゃ・・・」
『私じゃ駄目ですか?』
そう言いかけた私を要さんは無表情でみつめ、そしてその目を少し細め、口元をゆがめた。
「臼井さんがそう言うなら、そういうことなんだろうな。」
聞こえるか聞こえないかギリギリの声で要さんはそうつぶやいた。
「・・・・・・え」
そして要さんは私の耳元に口を近づけ、今度こそ、その言葉をはっきりと私の鼓膜に焼き付けた。
「さよなら。ミチルちゃん」
そして要さんは、私の元から立ち去った。
ひとり児童公園のベンチに取り残された私は、頭を抱えてうずくまった。
要さんの最後の言葉は、私のわずかな願いを粉々に打ち砕き、再起不能なまでに打ちのめした。
『さよなら。ミチルちゃん。』
要さんは知っていたんだ。
幸田ミチルが私・・・臼井ちさだってことを。
知ってもなお、幸田ミチルを好きでいてくれていたんだ。
そして私から、その事実が打ち明けられるのを、待っていてくれてたんだ。
それなのに・・・私は、要さんになにを言ったのだろう。
ミチルの恋は遊びだったって・・・ミチルのことは忘れてって・・・そう言ったんだ。
私は馬鹿だ。
どうして要さんの優しさを信じることが出来なかったのだろう。
何をそんなに怖がっていたのだろう。
要さんならどんな事実も、正直に話せばきっと受け入れてくれたはずなのに。
仕事を終えて家に帰ると、私は着替えもせずにその場で泣き崩れた。
「うっうっ・・・ううっ・・・」
自分のしてしまった大きな過ち、そしてその報いを悔いながら、声を殺して泣き続けた。
この胸の痛みは要さんの心の痛みだ・・・。
何時間も泣いて泣いて、涙も枯れ果てて、ふと鏡に映る自分の顔をみつめる。
もう一度だけ、ちゃんと要さんに自分の想いを伝えたい。
嫌われたままでもいい。
許して貰えなくてもいい。
でもこのまま、自分の気持ちを誤解されたまま生きていくのは嫌だ。
私はそう決心した。
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