第9話 「今夜は君と飲みたい気分なんだ」
和木坂課長と約束した水曜日がやって来た。
今日は更衣室のロッカールームに大きなカバンが詰め込まれている。
カバンの中身は、幸田ミチルになるための洋服やバッグや靴。
いくら私が職場でモブだからといって、気を緩めてはならない。
和木坂課長には私、臼井ちさが幸田ミチルだと、決して気づかれてはならないのだ。
だってそんなことがバレたら、私は速攻フラれる。
和木坂課長を騙して、なおかつその正体が職場でもっとも暗いウスイサチだなんて知られたら、絶対フラれるに決まっている。
いや、フラれるだけでなく、嫌われ、軽蔑され、口さえ利いてもらえなくなるだろう。
そんなの、耐えられない!
だから幸田ミチルとしての私は今日をもってこの恋の舞台から退場し、一から臼井ちさを好きになってもらえるように頑張るんだ。
そう決心したんだ。
ネイビーのストライプスーツで決めている和木坂課長を遠くの席から眺め、トキメキと切なさが混ざり合った感情で胸が苦しくて押しつぶされそうになる。
「今日の課長、なんかお洒落っすね!もしかしてデートっすか?」
空気の読めない新人君が、周りのヒンシュクの目を物ともせずに大声で和木坂課長を茶化す。
「ま、そんなとこ。」
しかし和木坂課長は嫌な顔ひとつせず、むしろ上機嫌な様子で、そう受け流した。
和木坂課長の机の上は、いつも置かれているファイルが今日は見当たらず、スッキリとしている。
もしかして、幸田ミチルと会うために、仕事量をセーブしている?
そんな和木坂課長のプライベートを知っているのは、この広いオフィスの中でも私だけ。
そう思うと、ほんの少しの優越感に、心が満たされた。
ああ、このままの姿で和木坂課長の彼女になれたなら、どんなに嬉しいことだろう・・・。
カタカタカタ・・・。
終業時間まであと5分。
終業時間が来たら、すぐに職場を出て、漫画喫茶で着替えと化粧を済ませ、和木坂課長との待ち合わせ場所へ向かう。
「臼井さん。」
そう名前を呼ばれ、イヤな予感がした。
そしてそういう時の予感は大体当たる。
振り向くと、今日は林田係長が紙の束を私に手渡して、悪びれもなく言った。
「悪いけど、このデータ、打ち込んどいてくれる?なるはやで。」
「なるはや・・・って、どれくらいまでですか?」
「うん。明日の午前中まで。」
そんな!
だったら今日残業しないと間に合わない。
「スミマセン!私、今日は大事な用事があって・・・」
「そんなこと言われても、今日は僕も子供の誕生日だから、早く帰らないと奥さんに怒られちゃうんだよ。どうせ臼井さんの用事なんて、友達と飲みに行くとかそんな事でしょ?だったら今日は断ってよ。」
林田係長は家族には優しく部下には厳しいと評判で、所内でもトップクラスの嫌われ者だ。
そしてその負担は、直属の部下である私に全て降りかかる。
きっともう、何を言っても林田係長には通じない。
「・・・・・・わかりました。」
「最初から気持ちよく引き受けてよ。君はもう新入社員じゃないんだからさ~。」
「・・・・・・はい。」
私は俯きながら、消え入りそうな声でそう返事をした。
悔しくて涙がこぼれそうになる。
そしてこんな大事な日にも、はっきりと断れない弱い自分が情けない。
今日の和木坂課長とのデートはドタキャンだ。
私はこっそり和木坂課長へラインメッセージを送る。
(すみません。今日は残業になってしまい、行けそうもありません。本当にごめんなさい。)
私がメッセージを送ると、和木坂課長は内ポケットからスマホを取り出し、その内容を確認したあと、両手で頬杖をつき、大きくため息をつき、そして項垂れた。
わかりやすく落ち込んでる!
ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい!!
・・・でも、ほんの少しだけホッとしている自分もいる。
和木坂課長に別れを告げるという辛い仕事が、先延ばしになったことに。
「ふぅ~。」
もう少しで頼まれたデータ入力が終わる。
ふと机を見ると、他課へ回さなければならない決済が置かれていた。
「!!」
それは徴収課の和木坂課長へ渡さなければならない書類だった。
自席から離れた和木坂課長は、いつものように残業をしている。
きっと幸田ミチルが約束をドタキャンしたから、仕事をすることにしたのだろう。
そんな多忙な中、せっかく時間を作ってくれたのにドタキャンするとは、なんて申し訳ないことをしてしまったのだろう。
和木坂課長からは、さっき返信メッセージが届いた。
(残念だけど、また今度会えるのを楽しみにしてる。残業頑張って!)
そして茶色いクマが片手を挙げてガッツポーズをしているスタンプも添えられていた。
優しいな・・・和木坂課長。
本当はデートしたかったよ・・・。
こんなタイミングで和木坂課長と話すのは気まずいけど、仕事だから仕方がない。
私は書類の判を捺してもらわなければならない箇所に付箋を貼り、和木坂課長の席に向かった。
「和木坂課長。この書類、目を通したら判をお願いします。」
私がそう言うと、和木坂課長はパソコン画面から私へ視線を移し、軽く頷いた。
「ああ。ありがとう。」
そう言うと、すぐにまたパソコンへと視線を戻す。
その眼差しは、幸田ミチルへ向ける甘い視線とは全く違い、ただの同僚に向ける、それ以上でもそれ以下でもないものだった。
わかってはいたけれど、その事実に胸が痛む。
やっぱり和木坂課長は、私が幸田ミチルだってことに全く気付いていないのだ。
「はあ~。やっと終わった。」
もう時計は9時を回っている。
私は幸田ミチル変身グッズが入った大きなカバンを肩にかけ、事務所を出た。
本当だったら和木坂課長とバーで生牡蠣を食べてたはずだったのに・・・。
仕方がないからスーパーでカキフライでも買って帰ろうかな。
そう思っていると、後ろから足音が聞こえてきた。
「臼井さんっ」
聞いたことのある低音ボイスが私に声を掛けた。
「今、帰り?」
私を小走りで追いかけて来たのは、和木坂課長その人だった。
「わっ和木坂課長!」
「遅くまで大変だな。お疲れ様。」
和木坂課長はそう言うと、いつものように片方の目だけを細めてみせた。
「和木坂課長こそ、毎日お疲れ様です。」
そう言って頭を下げる私の横を、和木坂課長はさりげなく歩きはじめた。
和木坂課長が、私の肩に掛けられている大きなカバンを指さした。
「随分大きな荷物だね。これから彼氏の家に泊まりに行くとか?」
これはアナタに会うための変装グッズです・・・なんて言えるわけない!
「かっ彼氏なんていません。これは・・・あの・・・最近ジムに通い出しまして、その着替えです。今日は急に残業になってしまって行けなかったんですけど。」
「へえ。臼井さん、ジムに通ってるんだ。意外だな。俺もたまに行くよ。筋トレで汗を流すと気持ちいいからな。臼井さんはジムで主になにをやっているの?」
ジムなんて生まれてこのかた行ったことない!
「あ、あの、ヨガ・・・とか・・・?」
「ふーん。ヨガのクラスは女性に人気あるよな。」
「そう!いつも混みあってて、大変なんですよ。」
セーフ!
「しかしこう連日残業だと疲れるよ。こんな日は美味い酒でも飲みたい気分だ。」
和木坂課長が腕を高く上げて、大きく伸びをした。
「ふふっ。そうですね。」
「臼井さんも酒、飲むの?飲み会ではいつも、あまり飲んでないだろ?」
「はい。酔うと眠くなってしまう体質なので・・・。あ、でも家ではよく飲みますよ?発泡酒とか。」
「俺ももっぱらビール党。」
すごい・・・私、臼井ちさでも和木坂課長と普通に話せている。
これは幸田ミチルのお陰かもしれない。
すると和木坂課長は思いがけない言葉を私に放った。
「ねえ、臼井さん。ちょっと一杯付き合ってくれないか?」
「・・・・・・え?」
「俺、今夜は君と飲みたい気分なんだ。」
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