第16話 王太子殿下の歓喜(フレデリクside)

 王宮の王太子執務室。そこでは、あいもかわらず部屋の主フレデリクとその側近、ゼクス公爵家のフランツが日課の作業を行っていた。運ばれてくる資料に目を通し、必要に応じてサインや指示を書き込むというものだ。


「殿下。何を期待しているのですか?」

「もうすぐイェニーが王都にやって来るそうだ。父上に謁見する際に私と顔合わせの席についてくれるらしい。これ以上に嬉しいことなどないだろう?」

「リチェット侯爵は縁談を受けるとまでは言っていないのではありませんか?」

「……フランツは鋭いな」

「いえ。あの侯爵のことですから。彼らが子を甘やかしすぎるがゆえ、殿下も困っておいでではありませんか」


 そうなのだ。フランツの言う通り、フレデリクがリチェット侯爵家に再び迎え入れられたイェニー宛に婚約を打診したのだが、その家にいる娘は彼女ひとりではない。

 彼女は三人いる娘の中で最も年下だ。彼女の二人の姉のうち、片方は彼女の双子シェリー。こちらはそれほど問題ない。


 しかし、もう一方の姉は一筋縄ではいかないとフレデリクたちは踏んでいる。その悩みの種となっているのが、三人の中で最も年上の姉、フアナである。


「ハア……あの騎士はじゃじゃ馬婚約者の手綱を握ることもできないのか」

「おい、フレッド。悪口はしっかり聞こえているぞ!」

「チッ」


 お前今舌打ちしただろ。そう言いながら部屋に入ってきたのは、そのフアナの婚約者にして、サテムズ侯爵家の嫡男、ヴィクトーである。

 フランツとは年齢が近いが、二人は叔父とおいの関係にあたる。


 父から受け継いだ空色の瞳と、母から受け継いだくせのある黒髪。フランツといいヴィクトーといい、二人の持つ黒髪はエナトス王国では珍しい色だ。

 フレデリクの護衛騎士でもあるヴィクトーだが、このように口が悪いのが──フランツの標的になってくれて都合がいい。


「ヴィクトー。お前は殿下に対する態度をもう少し改められないのか」

「フランツ、公的な場では俺だってそうしている。でも、ここには他の貴族の目はないだろ? こうやって気楽に接した方がフレッドも楽なはずだ。な?」

「私はお前があの婚約者を何とかするなら何も言わないが?」

「俺だってフアナと仲良くしたいんだぞ? お前がいなかったらよかったんだが」

「それならお前を婚約者共々今すぐ地獄に送ってやろうか? そうすれば私はゆっくりイェニーと愛を育んでいける」

「お前、それ絶対他の奴に言うなよ? そんなことしたらリチェット侯爵家も沈むぞ。あとイェニー嬢からの返事はまだ返って来ていないだろ?」

「イェニーと婚礼の儀を挙げた後なら問題ない」


 フレデリクがそう言えば、フランツが国内の勢力バランスについて講義を始める。それがわかっているから、フレデリクも本気でそのようなことはしない。

 侯爵家を二つ取り潰しすれば、その影響は計り知れない。国中が荒れるだろう。


 それに、彼女が嫁いできた後だとしても、その実家がとがを受けたとなれば、イェニーは後ろ指を指されてしまう。それはフレデリクにとって、最も避けたいことのひとつだ。


 そこに、入室の許可を求めて扉を叩く音がした。それまで室内に流れていた内輪の空気は瞬く間に霧散むさんした。フレデリクが許可を出すと、届いたのは吉報だ。


「殿下。再来週のリチェット侯爵令嬢の陛下への謁見の後、殿下との顔合わせの時間が得られたそうです」

「それは事実なのだな?」

「は、はい……ちょ、殿下」


 少々圧が強すぎたのかもしれない。というのも、フレデリクがそう気づいた時には立ち上がっていたからだ。

 身長こそ一般的な成人男性と変わらないとはいえ──この国で二番目の権力者が立ったのだ。怒らせてしまったのか、と勘違いされても仕方がない。


「怒ってはいないから安心するといい。これからも励め」

「はい! 失礼いたしました」


 再び席につき、手元の資料を見やる。


 イェニーとお茶をする時間。これほどまでにフレデリクにとって至高の時間など、今までにあっただろうか? あったとしても、孤児院のかまどの前で話した時ぐらいであろう。


 しかし、とフランツの様子を見れば、やはりというか、彼はフレデリクを見据えてこう言った。


「殿下。それはよろしゅうございました。それでは……イェニー嬢が貴方様と再会した折に貴方様の素晴らしさを彼女にお伝えするため、優秀なところを我々にも見せてもらいましょうか」

「フランツ、お前わざと言っているだろう」

「そのような事実はありません。殿下の妄想です」

「チッ」

「おや、殿下ともあろうお方が舌打ちとは……誰の影響でしょうね?」


 ヴィクトーの真似で始めた舌打ちだが、案外これが気持ちいい。背徳感から来る後悔よりも、喜びの方が大きいのだ。


 彼いわく下町の民は何のためらいもなくやっているという話だった。肝心の彼はフランツに凝視されて固まっているが。


 フランツの言うことは癪だが、楽しみがあると執務に身が入るというのも間違いではない。

 イェニーがやって来るまでにすべきことはすべて終わらせよう。そう決意したフレデリクであった。

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