第2話 思い出
夕方、院長先生が帰ってきた。
長い時間を共に過ごしてきたからか、さすがというか、私の様子が少しヘンだということに気づいたらしい。いや、少しどころではないのかもしれないけれど。
「イェニー、どうしたんだい?」
「なんでもない」
なんでもないなんてわけ、ないのに。伝えなければいけないのに。
それでも、私は正直になれなかった。院長先生に当たる夕日がまぶしいせいか、表情ははっきりとわかる。
けれど、光を受けるその表情は暗い。きっと私のせいなのだろう。
「話したくないならいいよ。話したくなったら言いにきてくれればいいし、いつまでもそんな気分になれなかったら、話さなくても大丈夫だからね」
院長先生の優しさが心にしみる。その後の夕食の席ではいつも通り振る舞おうと頑張った……が、しかし。そんな私の努力はヤンの一言で水の泡となってしまう。
「先生! 今日お貴族様がやって来て」
「お貴族様!? 大丈夫だったかい?」
「うん……でもイェニーが……イェニーがいなくなってしまうなんて、イヤだ!」
「あら……そういう事だったのね」
院長先生に私の悩みのタネがばれてしまった。本当はこうなることを望んでいたのかもしれない。最年長だというのに不甲斐なさを感じる。
でも、成り行きとはいえ伝える勇気が湧いてきた気がする。私はおずおずと昼間の出来事を話した。
「そうかい。それですぐには言えなかったんだね。大丈夫だよ。あなたがここにいたいのなら、お貴族様からだろうと私はあなたを守るよ。でも、家族のもとに帰りたいならば私にはそれを止めることはしない……だって、イェニーがずっと待っていたことを知っているからね。どっちにしても、私はあなたの思いを尊重するからね」
院長先生の言葉に目元が熱くなる。私はきっとこの言葉が一番ほしかったのだ。
それがもらえなかった時のことを考えたら、怖かった。間違いない。
でも、これから私はどうしたいのだろう? 与えられた時間は一週間。その間に「姉」の手をとるか、ここに残るかを決めなければならない。
月の光を頼りに、私は水に浸した布で身体を拭く。
身体の汚れといっしょに悩みも落としてしまえればなぁ……だなんて願っても、悩みはもちろん消えない。
昼間も思ったけど、お貴族様の命令に拒否権はないと思ってしまえば心は楽だと思う。でも、そんなことで自分は後悔しないのか。
……家族に会いたいという思いに嘘偽りはないけれど。
しかし、ここでの暮らしに心地よさを感じているのもまた事実で。私はどちらを選ぶべきなのだろうか?
今日の出来事が、私の一日分の処理能力をゆうに超えていたせいだろう。寝室に戻った私は矢に撃たれたウサギのように、硬いベッドに倒れ込んだ。
☆☆☆☆☆
その日の夜、私は懐かしい夢を見た。
いや、夢と呼んでもよいのだろうか? そう呼ぶにはあまりにも現実的で夢らしくなかった。
それはさておき──あのことがあったおかげで今の私があるけれど、でもとっても悲しい出来事だった。というか、これは今から六年前の夏に実際にあったことだ。
あの日の午後は雨だった。昼過ぎに突然、灰色の雲が空を覆ったのだ。
空は夕暮れよりも暗く、大地も庭一面が泥水で埋め尽くされていた。
窓の外は大雨だったにもかかわらず、何かが近づいてくる音がした。私ははじめ、それが何なのかわからなかったけれど……音はどんどん大きくなって、孤児院の前で止まった。
私が先生を呼びに行こうと、玄関の前を通りすぎようとしたその時だ。
「失礼する」
開かれた扉の外には、仕立てのよい黒の服を着た、貴族と思わしき男の人が立っていた。背も私なんかよりずっと高い。
雨に濡れた黒髪の男の人はちょっとかっこいいけれど、冷たい人みたいな気がした。
「何ですか」
「平民よ、何ですかではない。わかるな?」
「何を言ってるのかよくわからないです」
男の人は髪とそろいの色の目を細めた。笑顔なのに何か怖い。
貴族は平民に高圧的にふるまうらしいから、彼もその一人なのかもしれない。
「全く……。小娘、この村に宿はないか」
「ないです」
「では、一夜の宿を貸してはもらえないだろうか」
一見、お願いにも聞こえなくもない。
でも……その場にいた私にはわかる。今思えばあれは命令だ。こちらに拒否権なんてなかった。
というわけで、頭の中が真っ白だった私。そんな私の後ろから扉が開く音がした。
「イェニー、どうしたんだい?」
「院長先生! えっと、お貴族様が……」
「うんうん、わかった。ここは先生にまかせなさい」
こうして私たちは、普段まったく関わることなんてないお貴族様たちを一晩泊めることになった。
そんなわけで、私たちはいつもより多めに夕食を準備することにした。
「なあ、何してるんだ?」
「パンを焼いているの」
「へえ、すごいな。私にはできないことだ」
「ありがとう」
今夜のお客様は三人。名前はわからないけれど、馬車の運転をしているというおじさん。黒髪の男の人──同じく、名前はわからない──、そして今厨房にやってきたプラチナブロンドの髪の男の子だ。
この子も名前がわからない。でもその子含め、例の黒髪の人以外の二人はとっつきやすくて助かった。
でも、身分的には、この少年が最も高いのだろう。高圧的な黒髪の人も、彼には丁寧な物腰で接していたのだから。
「お前の名前は?」
「イェニーよ。あなたは?」
「私は名乗ってはダメだと言われているんだ」
「誰に?」
「父上に。約束を破ったら怖い」
「院長先生にそっくり! 森で悪魔に名前を聞かれても答えちゃダメって」
「ぷはっ」
抗議の目を向けると、彼は申し訳なさそうに軽く謝罪をよこした。
私にはわからないけれど、その後の話を聞く限り、お貴族様の世界も大変らしい。
焼き加減を見るために、竈の中をのぞく。いい感じだ。私は焼き上がったパンを取り出した。作業が一段落したところを見計らったのか、男の子は再び私に声をかけてきた。
「イェニーの髪と目の色、珍しいな」
「そうかも。みんなと違うし」
「まあ、社交界では何人か知っているが……あ、社交界って言ってもわからないか。簡単に言うと私の嫌いな場所だ」
「は、はあ……」
その後は彼の独り舞台、愚痴のオンパレードだった。やれ勉強が嫌だの、やれ同じ年頃の少女の目が怖いだの……
私が大丈夫なのは今までを鑑みれば奇跡に近いらしい。大丈夫ってどういうこと? と問いただせば、
「わたし、薬師さんじゃないよ」
「わかっている。フランツには悪いが、この雨に感謝しないとな」
「フランツ? あの黒髪の人?」
「そうだ。父上と同じくらい怖い」
「なにそれ」
彼があまりに真剣な顔で訴えるものだから、私はつい吹き出してしまった。今度は少年の顔が抗議の色に染まる。
しかし、それはほんの一瞬のことで、まばたきの後には竃で燃える火の音だけが残った。
彼の方を見直しても、ニコニコするばかりだ。そんな静かな世界を破ったのは厨房にやって来たヤンだ。
「イェニー、パンできた? イェニー、だれ?」
「ヤン、夕ご飯の時間はまだ。この人は今日だけうちに泊まっていくって。名前は……言えないみたい」
「ぼくもなまえいえる! このひと、いえない?」
「名前を言うと怒られるんだって。ヤンも院長先生に怒られたくないでしょ?」
はきはきしていたヤンが一転、落ち込んだ。その後ろからやって来たのは、他の子供たち、そして先生とフランツさんだった。
彼の黒い瞳は、目の前のプラチナブロンドの男の子を軽く睨み、続けて私の方を向く。先生が小さな声で彼に何かを伝えると、彼は呆れたように、しかし警戒したまま、ため息をついた。
「小娘、平民がこのお方のように、高貴なるお方と会える機会など普通はない。今回は例外なのだ。くれぐれも思い上がることのないように」
「聞いたよ。お貴族様は色々大変だって。シャなんちゃらが嫌って」
「なるほど……帰ったら社交の大切さをみっちりとお教えする必要がありそうですね」
「イェニー、裏切ったな……!」
私がお貴族様の事情を知るわけがない。お貴族様が平民の事情を知らないのだから、当然だろう。
今日のパンだって、たった一晩のために三日分も焼いたのだ。少ないと怒られると院長先生が言ったから。それで私たちの食事の量が減ろうが彼らには関係ないのだろう。
「え、ごめん。フランツさんに言ったら怒られるの?」
「そっか……イェニーには分かるわけがないか」
「小娘も、このお方にそのような口のききかたをするのは慎め」
「私が許した。フランツ」
「……まあ良いでしょう。小娘、決して
食後、私はプラチナブロンドの男の子と時間の許す限り話した。互いの生活を話す中で、私はあることに気づいてしまった。
話している彼の横顔は、何かをこらえているようだった。というわけで、楽しい話を選ぶことにしたのだけれど。
「平民も大変だな。明日の糧が得られるかもわからないとは」
「そっか。こんなこと知らない方がよかった?」
「いや、大丈夫だ。むしろお前たちの方が大変だろう」
「わたしの生活なんて聞いてもしょうがないよね。じゃあ、わたしのペ……」
「しょうがなくなんてない。こうして民の生活を間近で見ることなど、めったにかなわないんだ。それが大事だというのにな」
「またつらそうな顔してる。もっと楽しい話にしない?」
「何だ?」
「わたしの、だいじなものの話とか」
「だいじなもの?」
わたしは無理やり話題を変えた。ペンダントの話なら、日々の大変な生活について触れる必要がない。これなら彼も笑顔になってくれるだろうか。
「そう。このペンダントだけどね……」
「……!」
「どうかした?」
「いや、なんでもない。続けてくれ」
わかる。これは「なんでもない」なんて顔ではない。そう思ったけれど、私にそんなことを言う勇気はなかった。相手はお貴族様なのだ。
「これはね、わたしと一緒に森の中で見つかったんだって。院長先生が言ってたの」
「どうしてペンダントが一緒に?」
「わかんない。院長先生は、このペンダントが大事なものだって言ってた。だから、このペンダントと引き換えに誰かにわたしを育ててほしかったんじゃないかって。ほら、ここにイェニーって書いてあるでしょ?」
「本当だな。もしかしてイェニーって……いや、なんでもない」
その続きは聞けなかった。互いにおやすみと言い合って。いつもの硬いベッドに戻り、次に目を開けた時には東の空が白みはじめていた。
ちなみに夜明けの空の色は麦畑の金色の次に好きな色だったりする。それはともかく。
外は少々ぬかるんでいるものの、馬車を走らせるにはさほど問題はなさそうだ。
もうすぐ彼も行ってしまうのだろうと思うと、ちょっと寂しい。彼に帰るべき場所──それが彼の嫌いな所であろうとも──があるのだから当然のことだけれども、寂しいものは寂しい。
「ではな、イェニー。また会おう」
「それじゃあ……って名前は聞いてなかったんだ。またね!」
朝食を食べ終えるとフランツさんたちはすぐに出立してしまった。
また会いたい。それは私だって同じだ。できれば、ずっとそばにいたい、と。
☆☆☆☆☆
そしてそれは六年たった今も変わらない。どれだけそう思っても、朝日の方に向かっていく馬車は、私たちから遠く離れた、決して手の届かない場所のように思われて仕方がなかった。
村のみんなによると、初恋は叶わないものらしい。そんな言い伝えがあるのだという。
私の初恋の君は、名前も知らないお貴族様の少年だ。決して叶うことなんて、あるはずがなかったのだ。そう、そんなはずはなかったのである。
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