第13話 ケッセン平原の戦い

 ランドラブとの遭遇戦から一夜が明けた。帝都ヴァレリアの北に広がるケッセン平原。かつて〝不滅の永遠〟ヴァレリアン帝と〝支配の魔女〟ラヴルニエストゥスが雌雄を決した地において、再び戦が始まろうとしていた。地平を埋め尽くす兵たちはリヴィンの目に現実感を欠いて映る。


 敵は〝飢え渇く獣〟ランドラブ率いる大軍勢。魔女の死に乗じて国境の砦を突破、帝都を目指して南下する道中では街や村の住人ことごとくを虐殺している。兵数は非保持者を中心に十万を超え、ランドラブの強力な支配により精強かつ獰猛な戦いぶりを見せる。


 対するは復活したラヴルニエストゥス率いるヴァレリア帝国軍。中央にサーデン将軍、左右の両翼を万騎将のレフィトとライゼトという双子の天輪持ちで固めて敵勢を迎え撃つ構えだ。地の利こそあるが兵数は約三万と敵に劣る。加えて本来なら各将の下で千騎長として兵を率いるべき天輪持ちの一部は魔女の死に続く内乱とランドラブ侵攻の報を受けて離散あるいは死傷してしまっている。


「リヴィン殿。よろしいか」

「ああ……サーデン将軍か。なんだ?」


 近衛と共にルニエを守るリヴィンの下にサーデンが馬を寄せてきた。彼に限らず、ルニエ配下の天輪持ちからは警戒と隔意の視線を向けられているのを感じる。フラクタについてルニエを裏切り、彼女を殺害した疑いをかけられているのだから仕方ないところだ。この疑惑についてルニエは『リヴィンもフラクタも必要な戦力だ』として詳しい説明をしていない。もとより説明したところで魔女への忠誠心が強い将には受け入れがたい事情であり、目前にランドラブという差し迫った脅威があるためでもある。


「……此度は、陛下を頼みます」

「もちろんだ」


 多くを飲みこんだ表情でそれだけを言い残し、サーデンは戻っていく。広大なヴァレリア帝国において、ルニエが再掌握できたのは帝都ヴァレリアと眼下の三万だけ。事実上、帝国としては崩壊したに等しい現状をもたらしたリヴィンに対して言いたいことがないはずもない。だが、フラクタとルニエがリヴィンを介した天輪の契約を結んだあの場に駆けつけたサーデンはなにも言わず、命令に服していた。


 ルニエが乗る輿を振り返る。薄い紗幕を通して、魔女帽が揺れるのが見えた。

 総大将である彼女の護衛がリヴィンの任務だ。


 この世界に同じ天輪はふたつとない。双子の将、レフィトとライゼトですら色や形状には違いがある。個人の識別や力量を誇示する意味もあって、多くの天輪持ちは最大の弱点でもあるそれを隠さないという。ルニエの場合はお忍びで各地へ巡行することもあって魔女帽で天輪を隠すこともあったそうだが、皇帝としての権威が求められる場面――いまこの瞬間のような――では天輪を隠さなかった。


 欠けた天輪は決して戻らない。完全無欠の〝支配の魔女〟はもういない。

 それでも戦わねばならない。戦って、勝たねばならないのだ。


(ランドラブは支配の魔女に執着していた。ルニエを狙ってまっすぐ突っこんでくるはずだ)


 たった一人の天輪持ちが支配する軍勢に、突撃を命じる角笛は不要だった。


 大気を震わす喚声が響き、ランドラブを中心にした突撃が始まる。工夫もなにもない平押しだが、この戦場において最強の個であるランドラブを止める術がこちらにはない。サーデンの〝鼓舞〟が全軍に付与されるのを感じたが、突撃の勢いを受け止めるので精一杯だった。そのまま乱戦となり、引き際を誤った千騎長の一人があっさり屠られる。統率者が倒れたことで麾下の非保持者の動きが鈍くなり、敵軍に飲みこまれていった。サーデンも必死に立て直しを図るが、両翼の部隊が数で押さえこまれて思うように機動できていない。やはり三倍以上にもなる兵力の差は容易に埋められない。


 だが、帝国軍も簡単には崩れない。最初の突撃を受け止めた後は、兵を指揮する天輪持ちの多さを活かした細かい機動で敵を誘いこみ、突出した部隊を囲んで削っていく。装備もまちまちで全体的に傭兵めいた粗野さのランドラブ軍と対比すると、帝国軍には正規軍としての規律と練度が見て取れた。


 天輪持ちと非保持者では大人と子供ほど力に隔たりがある。にもかかわらず天輪持ちが非保持者の軍勢を率いる理由はどこにあるのかと思っていたが、実際に軍同士のぶつかり合いを見れば一目瞭然だ。天輪持ちに統率された非保持者は恐れ知らずで命令にも忠実、天輪持ちを仕留めることはできなくとも動きを阻害するには十分で、単騎で彼らの相手をしながら天輪持ちの敵将をも討ち取るのは相当に骨が折れる作業であろうことは想像がつく。


 戦場での価値はもちろん、国家を統治するに当たっても天輪持ちだけでは手が足らないのは自明であり、より多くの非保持者を支配下に置ける天輪のキャパシティを持つことは王者として必須の条件と言える。その極北がヴァレリア帝国の全国民を支配してなお余りあるキャパシティを誇った〝支配の魔女〟ラヴルニエストゥスであり、彼女を倒すほどの実力を持ちながら十数人のキャパシティしか持たないというフラクタは対極に位置する存在と言えるだろう。


「フラクタは……まだ動かないのか」


 サーデン率いる帝国軍がランドラブ軍の攻勢を受け止める盾だとすれば、遊軍であるフラクタは敵を仕留める矛だ。能力の特性もあって最前線で戦うランドラブへ一般兵に交じって忍び寄り、奇襲をかける算段だ。目立つ天輪はフードで覆ってもらったが、金象嵌された白鎧と巨大なウォーハンマーは頑として譲ってくれなかった。トーキィもだんまりで彼女を諫めてはくれず、説得できる人間がいなかったのだ。


 おそらくチャンスは一度きり。そこでランドラブの天輪を砕けなければ、警戒を強めたランドラブに不意打ちは通じなくなる。援軍の見こみもない以上、兵力差ですり潰される未来しか見えない。


 ルニエとは昨晩、夢の中で話したきりだ。ランドラブとの遭遇戦から撤退、フラクタとルニエの仲立ちをした後は駆けつけたサーデンも交えた作戦会議と軍勢の手配で休む暇もなく、またフラクタの目もあってルニエと二人きりで話す時間をそこでしか取れなかったのだ。


「……絶対に教えないわ」

「どうしてだよ! 能力が分からなきゃ、作戦に使えるかどうかもわかんないだろ!」


 リヴィンの天輪が持つ能力について、欠けた天輪を戴く小柄な魔女は説明を拒んだ。


 天輪から力を引き出すコツは身体が覚えていたが、能力については未だに思い出せないまま。現状のリヴィンは格下の天輪持ちより強いがフラクタやランドラブのような強者には敵わない、半端な存在でしかない。敵がルニエを狙ってくるなら、彼女を守るための手段はひとつでも増やしておきたかった。説明を拒否されるのは予想外で、自分でも驚くほど不満げな声が出てしまった。


 ルニエの表情が曇る。彼女を困らせたいわけではないのだ。分かってもらいたくて言葉を継ぐ。


「ルニエが助けてくれなかったら、俺は死んでた。今度は俺がルニエを助けたいんだ」

「べっ、別に、貴方はそんなの気にしなくてもいいの。あんなの、私が勝手にやっただけなんだし」

「いや、助けられてばっかりじゃ俺の気が済まない。ランドラブを倒すまではいかなくても、せめて俺とルニエの身を守れる程度にはならないと、ここに居る意味がない。そうだろ?」

「……本当なら貴方がランドラブごときに引けを取るはずが……ううん、過ぎたことを言っても始まらないわね。奥の手はあるに越した方がいいのも確か、だけど……」


 思案するような表情に変わったルニエが、迷いの滲む口調で言う。


「ねえ、リヴィン。今はもう変わってしまった、愛しい貴方。教える前にいくつか約束して欲しいの。誰のためでもなく、貴方のためによ。まず、能力の詳細を誰にも教えないこと。特にフラクタ。貴方の〝使い方〟を知ったあの女は、きっと躊躇しない。使い潰されて、貴方は死ぬ」

「……そんな危険な能力なのか?」

「黙って聞いて。次に、能力を使用していいのは貴方の身に命の危険が迫った時だけ。私を守ってくれるという言葉は嬉しかったけど、貴方は……もう、昔の貴方じゃない。能力がそのまま使えるのかどうか分からないし、試すのもリスクが高い。基本的に能力はないものと考えて、身体強化だけで戦って」

「それじゃ教わる意味が……いや、ルニエがそう言うってことは、なにか根拠があるんだよな?」

「誰よりも多く天輪に触れてきた者としての助言と思ってくれていいわ」


 以前のリヴィンは白と黒、二重の天輪を頭上に戴いていたという。今のリヴィンには灰色の天輪がひとつあるだけだ。天輪が保持者に力を与えるのなら、変質した天輪が能力にも影響を与えていることは十分ありえる。そうなった経緯から考えても、能力にいい影響があったとは思えない。


「それともうひとつ。教えるに当たって、天輪の契約を結んでもらうわ」

「……またか」

「心外ね、貴方を守るためのものよ。具体的には、これから教える能力の詳細を使用するその瞬間まで忘れてもらうわ。あの女に情報が漏れるのを防ぐためよ。リヴィン、貴方、問い詰められたり鎌をかけられたりしたら、すぐにボロを出しそうなんだもの……」

「そんなことは……ないだろ」

「あるわよ。伊達に長く付き合って……いえ、失言だったわ。忘れてちょうだい」


 その先の記憶はなく、目覚めたらもう朝だった。


 おそらく天輪の契約による忘却が働いているのだろう。使用するその瞬間まで詳細は思い出せないということだ。黙秘に気を遣わなくていいのはありがたいが、使いどころが悩ましい。


「いや、使えないって可能性もあるのか? それどころか、思い出した説明と使える能力が違うって可能性もあるんだよな……くそ、迂闊に使ったらヤバいことになりそうだな」


 ルニエは、リヴィン自身の命が危うくなったときだけ使えと言った。


 戦闘、もしくは逃走に使える能力であることは間違いないが、試すのにもリスクがあるという発言は制限や代償があることを匂わせたものとも取れる。かつてのリヴィンが魔女の側近として汚れ仕事に携わっていたというのも、デメリットや弱点が明確な能力であればうなずける話だ。


「今だ押し包め! 後続を断ち切れッ!」


 喚声と悲鳴、鋼と鋼が打ち合わされる音が耳を聾さんばかりの戦場で、雷鳴のごとき胴間声が響き渡る。瞬間、サーデンの麾下が発する気が爆発的に高まり、ランドラブ兵を蹴散らしていく。突撃を受け止めるときに使っていた〝鼓舞〟は本気ではなかったのか。


 袋口を絞りこむように包囲を完成させ、ランドラブの周囲に残った兵を撃ち減らしていく。武勇に優れた千騎長が〝鼓舞〟の助けも借りてランドラブに打ちかかり、動きを止めた。ここしかない。戦場に立った経験を失ってしまったリヴィンにも理解できる、絶好の機会を捉えてフラクタが動いた。


 ランドラブではなく、サーデンの背後に。

 そして、彼の天輪をめがけて戦鎚が振り下ろされた。


「……は?」


 間抜けな声が口から漏れた。


 瞬間、強い輝きが戦場を照らす。砕け散った天輪がぱっと舞い散り、燐光を放ちながら消えていった。馬上からずるりと滑り落ちるサーデン。配下の兵に働いていた〝鼓舞〟の力が消え失せ、支配から解き放たれた兵たちの戸惑いがこちらまで伝わってきた。味方の動きが止まる。


 時間にして数秒。だが致命的な停滞だった。サーデン麾下の能力を底上げしていた〝鼓舞〟が失われたことで生まれたわずかな虚脱を、歴戦の将たるランドラブは見逃さなかった。彼を押し留めていた千騎長が鉤爪にかかって屠られる。無秩序に放たれた〝見えない刃〟が敵味方お構いなしに兵の肉体を切り裂き、血煙が舞う。指揮者を失った兵が総崩れになる。


 フラクタ。彼女が裏切った。

 どうして。なぜ今なのか。


(ルニエを倒すため……いや、ランドラブに〝支配〟を奪われるのが最悪のパターンだって点では一致を見たはず。性格的にフラクタとランドラブが手を結ぶことも考えにくいし、その時間もなかったはず)


 思考を巡らせる間にも状況は動いている。敵は目前まで迫り、ルニエの乗る輿のすぐ側でも戦闘が始まっていた。両翼ではレフィトとライゼトの両将が優勢だが、サーデンが討ち取られた中央は押しこまれている。サーデンに代わって指揮を執ろうとした千騎長が少し目を離した隙に消えた。ランドラブではない。やつは他に目もくれずルニエの輿を目指して突進を繰り返している。やったのはおそらくフラクタだ。


「ふざけるな、なんのつもりだ、フラクタッ!」


 叫びは数万の兵が上げる喚声にかき消された。こうなると指揮を執るどころではない。味方の兵は支配から解き放たれたことで戦える状態になく、押しまくられている。流れを変えようと天輪持ちの千騎長がランドラブにかかっていくが、サーデンの〝鼓舞〟を受けてようやく互角だった彼らの力不足は明白だった。孤立した者、混乱の中で指揮を執ろうと試みる者は兵の間に潜伏したフラクタによって次々と狙い撃たれ、ランドラブの突撃に対応するどころか混乱は拡大する一方だった。


「能力、使えるようになったのでしょう?」


 うなじに吐息すら感じる距離で囁かれて、心臓が跳ねた。


 フラクタ。装飾が多い派手な白鎧と巨大なウォーハンマーでどうやって潜伏しているのかと思えば、振り向きざまにちらりと見えた彼女は軽快な革鎧と片手持ちのモーニングスターという地味な出で立ちだった。フードの下から猫のような緑色の瞳がこちらに笑いかける。


 ただのハッタリ、鎌をかけているだけだと自分に言い聞かせる。


「……フラクタ」

「どうです? 能力を使うなら今ですよ、さあ」

「……ランドラブを……あいつを放っておいていいのか? やつが〝支配〟を手に入れてしまったら、ルニエの助力を抜きにして今より有利な条件をフラクタだけで作れるのか?」


 にこっと笑って、フラクタは軍勢に紛れて姿を消した。

 その笑顔を見て確信する。フラクタは全て分かった上でやっている。


 彼女の立場と性格の悪さを見誤っていたかも知れない。信頼する仲間も支配する民も持たない彼女にとって、裏切りは大した損にはならない。ただルニエと共にランドラブを討つよりも、ルニエの手持ち戦力を削れるだけ削って、あわよくばリヴィンの能力も明らかにするつもりなのだ。


 このままではルニエが危うい。


 千騎長が三人がかりでランドラブの前進を阻んでいるが、複数の能力を使いこなす敵に対応できず、また自身の能力を奪われるのを警戒してか動きが硬く、連携が取れていない。


 ルニエとの約束を破ることになるが、この状況では他に方法がない。


「くそ、使い方も忘れてるのにどうしたら……ええい、能力〝解放〟ッ!」


 強く念じ、言葉にした。その瞬間、天輪が爆発的な輝きを放ち、燃え上がるような熱を持った。同時に、ハルバードの一振りで全てを壊してしまえそうなほど圧倒的な力が湧き上がってくる。指先ひとつに至るまで意識が行き届き、全力の刺突を針の穴に通すことすら容易いだろうと確信できた。


 衝動のままに地を蹴る。兵の頭上を飛び越え、ルニエの下へ。思考はこの上なく冴え渡り、視界は限りなくクリア。手傷を負った千騎長の顔が苦悶に歪むさまが、泥化で足場を崩してたたらを踏んだ相手の顔面をわしづかみにするランドラブの動作ひとつひとつが精細に知覚できた。


 頭より先に身体が理解した。

 天輪を燃料にした身体能力の向上。

 それこそがリヴィンの能力〝解放〟なのだと。

 分かってみれば、なぜ今まで分からなかったのかが不思議なくらいだ。


「は、はは、これ……は……!」


 すごい。

 素晴らしい。

 もう敵などいない。


「受けろ、ランドラブッ!」


 着地と同時にハルバードの一振りでランドラブの右手首だけを正確に切り落とした。顔面をつかまれていた千騎長は虫の息だが、生きているのだから構わないだろう。能力の予兆を察知し、発動の起点となる左手を腕の付け根から切り飛ばした。暴発。手近な敵兵の身体を盾にして全方位に放たれた〝見えない刃〟を回避。ずたずたに刻まれた兵の身体を投げ捨てた。逃走するランドラブを追い、妨害のためか狂乱して突撃してくる敵兵の群れを薙ぎ払う。俺を見ているか、ルニエ。俺は強い。どこにいる、フラクタ。今の俺ならお前にだって負けはしないぞ。


「――は、あはは、あははははぁーッ!」


 なぜだか楽しくてたまらなかった。

 昂ぶりを笑い声に変えて、ハルバードを振るい続けた。

 誰かが自分の名を呼ぶ声がした気もするが、きっと気のせいだろう。

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