第8話 夢中の再会

 目を覚ますと、目の前に顔があった。


「うおっ……!」

「――――ッ!」


 お互いに跳ね飛ばされるようにして距離を取った。リヴィンは寝台から落ちかけ、相手は腰掛けていた椅子から転げ落ちる寸前で踏み留まる。気紛れな猫を思わせる黄色の瞳、月光を漉いたような銀色の髪。欠けた天輪を戴いてばつの悪そうな表情をしているのは支配の魔女、ラヴルニエストゥスだった。


「ラヴルニエストゥス……!」


 街に到着して、適当な民家を見繕って宿を取ったところまでは記憶がある。終日、馬での移動を続けていたため疲労が蓄積していたのだろう。食事もせずに寝入ってしまったらしい。周囲に人の気配はなく、寂として声もない。前回と同じく、フラクタとは分断されたと考えていいだろう。


 だが、予想に反していきなり殺し合いにはならなかった。魔女はこちらの出方を窺うようにじっと視線を注いでいる。リヴィンとしては口も利けない状態になる前にどうにかして会話の糸口をと考えていたので、準備してきた命乞いや交渉の言葉は行き場を失ってしまった。


「あー、なんだ、その、こんばんは……?」


 口にできたのは、我ながら間抜けな挨拶だった。


 支配の魔女もさぞ困惑したことだろう。目を丸くし、顔を伏せ、言葉を選ぶかのように口を開きかけ、さらさらとした銀髪を細指でくるくると巻き、ためらいがちに言葉を返してくる。


「……うむ、挨拶は大事だな。こんばんは、と言っておこう」


 挨拶はコミュニケーションの基本だ。問答無用で戦闘にならなかったことをまずは喜ぼう。


「ここは夢の中、なんだろ。よかった、君と二人きりで話がしたかったんだ」

「う、うむ……そうなのか……?」

「……どうかしたのか? 昨日とはずいぶん様子が違って……」


 しおらしい、という言葉が頭に浮かんだが、口にしていいか迷うところだった。それ以前に、昨晩と違って目覚めていきなり対面したせいで事前の段取りが全て吹っ飛んでしまった。支配の魔女は落ち着かない様子で視線を床にさまよわせた後、意を決したように顔を上げ、口を開く。


「一日経って、余も少々頭が冷えたというか、その、少々やり過ぎたきらいがあったかもとか……事情を詳しく聞いてからでも遅くなかったかもとか……なんというかだな……ああもう!」


 唐突に椅子を蹴って仁王立ちする支配の魔女。

 気のせいか、頬が紅潮しているようにも見える。

 彼女は憤然とした様子でリヴィンの鼻先に指を突きつけ、言い放った。


「中身がどうあれ、その顔を相手に口調なんて作ってたら調子が狂うったら! もう素で話すから、それでいいわよね! というか貴方、ラヴルニエストゥス、なんて呼ぶのはくすぐったいから止めなさい!」

「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」

「ルニエ」

「……あー、ルニエさん?」

「……呼び捨てでいいわ。貴方は……リヴィンはそう呼んでいたから」

「ルニエ、だな。分かった」


 急に砕けた口調になり、雰囲気も和らいだ支配の魔女が椅子に座り直す。


「貴方のことはなんて呼べば?」

「俺は……リヴィンだよ。別に中身が誰かと入れ替わったりしたわけじゃない……と、思う。記憶がないんだ。だから君とどういう関係だったのか、今の俺には分からない」

「……そう。やっぱりね」


 ルニエが唇を噛む。窓から差しこむ月明かりに加えて、彼女の欠けた天輪とリヴィンの灰色の天輪が光を放っているので、近くにいればお互いの表情も見て取れる程度には明るい。


「ところで、その口調って……」

「なによ」


 気まずい沈黙に耐えきれなくなって口にすると、じろりと睨めつけられた。


「余はヴァレリアの皇帝である。主従の関係を示すためにも、それなりの言葉遣いがあるのは当然であろう。だがな、考えてもみよ。幼子の頃からこのように尊大な話し方をする者などいない。人は、どこかの時点で場に応じた話し方を身に付け、相手に応じて使い分けるのよ。そんなにおかしなことかしら?」


 徐々に口調とトーンを変えながらルニエが言う。

 それはつまり、彼女にとってリヴィンは気安い口調で話せる相手だったということだ。


「皇帝らしいキャラを作ってたってことか。なんというか……ルニエも大変なんだな」


 我ながら間の抜けた返答だった。ルニエも呆れたようにため息をつく。


「……こうして話していれば分かるわ。貴方がリヴィンだってこと。昨晩のことはごめんなさい。あの女になにもかもめちゃくちゃにされて腹が立っていたし、生きてまた会えたっていうのに貴方ったらつれない態度だから……つい、かっとしちゃったの。あの女の色香にたぶらかされて私を裏切ったのか、なんて考えちゃったのよ。記憶をなくしたとはいえ、私の貴方がそんな気を起こすはずがないのにね?」


 少し照れたような笑顔を向けられて、胸が痛む。

 フラクタの色香には現在進行形でたぶらかされている自覚があった。

 彼女の目的に賛同した理由に、その魅力に惹かれた部分がなかったとは言えない。


「リンタロー、という言葉に思い当たることはあるかしら?」


 心が動いたところに不意打ちをもらって、動揺が顔に出てしまった。

 それを捉えて、ルニエがそっとため息を吐く。

 

「……そう。その顔と天輪でおおよそは察せた。貴方はリンタロー。彼方から来たニワ・リンタローの人格。本来この世界にあるべきだったリヴィンの魂は、もうそこにはいないのね?」


 事実を確認する言葉の裏に滲む諦観と哀切に、胸が締め付けられる。

 リヴィンには、彼女の抱いた感情が本当の意味では理解できない。

 ただ、そこにあったのだろう感情と時間の積み重ねが想像できるだけだ。


「正直なところ、よく分からないんだ。二輪麟太郎。確かにそれは俺の名前だ。けど、同時にリヴィンであるという自覚もある。変だよな、リヴィンとして生きた記憶は綺麗にすっぽ抜けているのに」

「記憶の欠落……どこからどこまで覚えているのか、分かる範囲で正確に教えてもらえるかしら」

「二輪麟太郎としての記憶を除けば、帝都ヴァレリアの城で血塗れになって倒れていたところからしか記憶がないんだ。ルニエがあの女と呼ぶフラクタは、俺と天輪の契約を結んだ後で君が俺を洗脳してたと説明した。実際のところ、こうなる前の俺はどういう状態だったんだ?」

「洗脳……あの女、私のリヴィンに都合のいいことばっかり吹きこんでくれちゃって……しかも天輪の契約まで結んだなんて……どうしてやろうかしら」


 リヴィンとルニエはどういう関係だったのか。


 これはフラクタには絶対に聞けない質問だ。状況から考えて、リヴィンもまたフラクタと殺し合っている。戦闘がどういう経緯をたどったのかは不明だが、結果としてフラクタは記憶を失ったリヴィンと天輪の契約を結んだ。彼女の目的から考えれば、リヴィンは何も知らない方が都合がいい。だからルニエとの関係について真実が聞けるとすれば本人からだ。フラクタが掲げる理想には共感できるが、過去の自分がなぜルニエと共にいたのかには興味があった。昨晩は伴侶という単語も耳にした覚えがある。


 当のルニエは洗脳という単語に怒気を立ち上らせ、天輪の契約と聞いて厳しい顔を見せと表情を様々に変えていたが、ある程度は予想してもいたのだろう。彼女の知るリヴィンという人物、そして二輪麟太郎との関わりについて静かに話しだした。


「リンタローは、こことは違う彼方の世界からやってきた人格なんだってリヴィンは言っていた。頭の中にもう一人の自分がいる、という感じらしいわ。表に出ている人格はリヴィンで、私自身は彼を通してしかリンタローと話をしたことはなかったの。その記憶も失ってしまったのよね?」

「ああ。昨晩、君の姿を見てもルニエだとは分からなかった。目覚める前の最後の記憶は、ここじゃない世界での……死ぬ時の記憶だ。この二日間で知ったことが、この世界に関する俺の知識の全てだよ」

「……貴方は彼方の世界の知識をもたらした。天輪が存在しない世界……初めは騙りかと思ったけど、それにしては真に迫っているし、貴方の二重天輪はひとつの身体にふたつの意志という説明を裏付けるように思えた。だから私はリヴィンと組むことにしたのよ」

「二重天輪?」

「そう。白と黒、相克する天輪を貴方は戴いていたの。少なくとも私はそんな保持者を他に知らない。でも、今の貴方は灰色の天輪がひとつっきり。天輪は保持者の在りようを映し出す鏡のようなものだから、きっとあの女に何かされたんだと思って……」


 麟太郎とリヴィンは独立した人格を持ち、協力関係にあったのだとルニエは言う。その記憶もないのは、二重天輪ではなくなったことや、色の変化と関係があるのだろうか。


「……ねえ、天輪に触れてもいいかしら」


 フラクタに触れられた時の、臓腑を直になで上げられるような不快感を思い出して顔をしかめる。それを警戒と捉えたのか、ルニエはなだめるように言葉を継ぐ。


「契約の内容を読み取れないか試すだけだから心配ないわ。新たな契約は双方の同意がなければ結べないし、結ばれた契約に第三者が手を加えることもできない。わたしが支配の能力を使わないかどうかは……信用してもらうしかないのだけれど」

「わかった」

「な、なんだったら私の天輪も触ってもらって構わないというか、こんな欠けた天輪に触れるなんて嫌じゃなければなんだけど、やだ、私ったら何を言って……え、いいの?」

「あ、ああ……いいけど」


 なにかをされる危惧よりも、ルニエの言葉から滲む、天輪に触れる行為にまつわるニュアンスの方が気になった。フラクタの天輪に触れてみたい、などと口走っていなくてよかったかも知れない。


「じゃ、触れるね。ああ……やっぱり。厄介なものを……」

「契約って、触れれば分かるものなのか? 俺は自分で触れても分からなかったんだけど」

「……あの女から聞いてるでしょう? 私は他人の天輪に〝手を加える〟のが得意なの。必然、どんな風に手を加えられているかにも詳しくなる。契約の読み取りはちょっとした余技のようなものね」

「ふうん……じゃあ、上手く解除できたりは……」

「やめてよね。私の手で貴方を廃人になんてしたくないわよ?」

「お、おう……悪かったよ」


 即答だった。やはり契約を破棄するのは難しいらしい。


「さっきも言ったけど、天輪は保持者の在りようを映し出す鏡なの。人によって捉え方は違うけど、私はそう考えてる。刻まれた契約は命よりも重い。双方の合意がなければ変更や破棄はできないし、契約の内容によってはそれも不可能。当事者の死亡もまた然り。死後も有効な契約、ないしは死後に発動する契約というのもある……私たちが倒した〝永遠なる〟ヴァレリアン帝がそうだったように」


 フラクタからも聞いた名前だ。支配の魔女ラヴルニエストゥスは〝永遠なる〟ヴァレリアン帝から皇帝位を簒奪したのだという。気になるが、言及したら話がどんどん脇にそれていきそうなので我慢する。


 ふと、あるはずのものがなかったことに気付いた。


(触られても、嫌な感じはしなかったな)


 触れ方なのか、心構えなのか、違いがどこにあるのかは分からないが、ルニエの手で触れられるのには忌避感がなかった。天輪に〝手を加える〟者と〝打ち砕く〟者の差だろうか。


「あの女と結んだのは対価と引き換えに頼みごとを聞く、取引もしくは代償の契約ね。口外を禁じられていないなら、どんな契約を結ばされたのか聞いてもいいかしら」

「死にかけてた俺の命を救う代わりに、ひとつだけ命令を聞く。細かい言い回しまでは覚えてないけど、そういう意味の言葉だったと思う」


 ルニエは昨晩とは打って変わって友好的な態度だが、状況を考えれば味方とも言えない。正直に話すかどうかは迷うところだったが、ここまで教えてもらって嘘を吐くのも違うだろうと信じた。決してリヴィンが女の言葉に弱いわけではない、と思いたい。


 心中で言い訳するリヴィンを余所に、ルニエは難しい顔をしていた。


「助命と引き換えに命令をひとつだけ、か……」

「問題があるのか?」

「あるに決まってるでしょう。いい? 本来、助命を対価とした契約は相手を無条件で従うしもべにすることすら可能な、とても強力な契約なの。それこそ、どちらかが死ぬまで解除されないくらいに。けど、救われる側である貴方の自由意志を残して、ごくごくシンプルな〝ひとつだけ命令に従う〟という限定まで付与したなら、たとえ一方が死んだって契約は残り続ける可能性があるわ」

「つまり……?」

「契約から逃れたいなら、命令を思い浮かべる暇もない刹那にあの女を殺して、永遠に契約を留保する以外の方法はない。もし上手くいったとしても、あの女が契約を第三者に引き継がせるような付帯条件をつけていたらアウト。自由になりたいのなら、あの女の目が届かない場所での自死をお勧めするわ」

「それは……遠慮したいところだな」


 フラクタはああ見えて隙がない。しかもおそらく眠りを必要としないトーキィを肌身離さず身に付けている。単純に実力を比較しても今のリヴィンでは相手にならないだろう。そんな相手を瞬殺する以外に自由になる方法がないとは、ずいぶん厳しい話だった。


 薄々分かってはいたが、改めて現実を突きつけられて頭を抱えるリヴィンの頬に、そっと温かいものが触れる。それ自体が芸術品のように細く滑らかなルニエの指だった。彼女はリヴィンに顔を上げさせ、正面から覗きこむように視線を合わせて力強く宣言するのだった。


「――でも、そうはならない。貴方には、私がいるから」


 リヴィンの手にルニエの手が重ねられる。玲瓏な外見からは予想もつかない温かな感触に戸惑う。警戒をすり抜けるかのように身体を寄せてきた彼女が、耳元でそそのかすように囁く。


「私の〝支配〟なら天輪の契約に抗える。記憶を失ったとしても、一緒にあの女に殺されかけた間柄ですもの。貴方は自由になるために、私は復讐するために、私たちは協力できるはず。それだけじゃない。私なら、あの女がさせないことだって色々としてあげられる。後悔なんてさせない、絶対に」


 魔女の誘いは、酷く蠱惑的で、抗いがたい魅力があった。


「どうか私の〝支配〟を受け入れて?」


(この場で決めていいのか? 本当に?)


 フラクタが契約によってリヴィンをしもべにしない理由はいくつか考えられる。


 一番ありそうなのは、意志を奪えばいちいち命令しなければならなくなるのを嫌っている、というものだ。その点、リヴィンが自主的に動いてくれるなら都合がいい。裏を返せば、リヴィンの意志が邪魔だと思われれば、いつフラクタの操り人形にされないとも限らない。そんな危険と隣り合わせの道を行くのなら、対抗するための切り札を手に入れておくのも有用だと思える。


――だが支配の魔女ラヴルニエストゥスは信用に足る相手なのか?


 結局は相手を信頼できるかという問題に帰結する。ルニエの言葉に不審な点はなく、もしもの時にフラクタに対抗できる武器があるにも越したことはない。一方で、前回は夢の中とは言え問答無用でリヴィンを殺した支配の魔女が、こうまで容易く考え直して打ち解けるという状況に違和感もある。


「……すぐに決断できないなら、無理強いはしないわ」


 ルニエがすっと身体を引く。反射的に違うんだと言いかけて、その資格はないことに思い至った。かつてのリヴィンであれば即答したのだろうと想像できてしまったのだ。あるいは、これも魔女の駆け引きなのだろうか。そんなことを考えてしまう自分に嫌悪感が湧く。


「そうだ。言うまでもないけれど、取引を持ちかけられたこと、あの女にバラしたら、その時は……」


 ルニエの猫のような目が威嚇的に細められる。


「今度こそ、貴方を敵と見做すわ」

「……分かってるよ」


 絶対に殺されると確信する。


 自身の立場の危うさに身震いしそうだった。フラクタとルニエ、完全にどちらかを選んだともう一人に知られれば即座に殺されるか意志を奪われる危険がある上に、いつまでも曖昧な立場を取るのも不興を買いかねない。二人から与えられる情報が微妙に食い違って、どちらも信用しきれないのも頭が痛い。


「ルニエは、これからどうするんだ?」

「そうね、どうしようかしら。復讐を考えていたのだけど、なんだかそんな気も萎えちゃったわ」


 さして感慨のこもった様子もなくルニエが言う。やや意外な言葉だったので、質問を重ねる。


「ちょっと意外だな。皇帝になって成し遂げたい目的とかないのか? そうじゃなくても、殺されかけたり大切なものを奪われたら、復讐したいと考えるのは自然だと思うけど」


 支配の魔女の動向を探り出すという、そもそもの目的も念頭に置いた問いだったが、それを聞いたルニエはあからさまに不機嫌そうな顔を見せ、じとっとした視線をリヴィンに注いでくる。


「な、なんだよその目は……」


 たっぷりと間を取った後、ルニエが大きなため息をつく。


「貴方にこんなこと言わなきゃいけないの、本当に釈然としないのだけど」


 続けられた言葉にこめられた想いはどれほどか。


「――私、貴方とだから命を懸けたのよ」


 机に置いてあった魔女帽を深々と被って顔を隠してしまったルニエに対して、どう声をかければいいのか分からず気まずい沈黙が落ちた。意地でも自分からは口を開かないという気配を感じる。


「あー、その、どうするんだって聞いたのは、もうこれっきりで二度と会えないんじゃないかって思ったからでさ。ほら、気が変わってルニエの支配を受けたくなるかも知れないし……」

「……どうしてそんなこと言うの。あの女とよろしくやってるんでしょう?」


 ちょっと涙ぐんでいる。正直に言って恐い。


「いや、あの、記憶が戻る可能性があるって……あるかも知れないからさ、今すぐには思い出せなくても、ルニエがどんな人で、どんなことを話したのか、一緒に何をしたのか、思い出す日が来るかも知れない。その時、もうルニエと連絡が取れなくなってたら悔やんでも悔やみきれないだろ?」

「……複雑な気分だわ。はっきり言って、不愉快ですらある」

「……どうして?」

「いつか好きになるかも知れないから彼女候補としてキープしておきたい、って面と向かって言われた気分」


 天を仰ぐ。それはさぞかし不快な気分になるだろう。


「でも、いいわ。貴方を嫌いになるのは……まだ、ちょっと難しいもの」

「……ごめん」


 謝罪しか口にできなかった。そんなリヴィンに、鼻をすすり上げたルニエがくすっと笑う。


「謝らないでよ……そういうところは変わらないんだから」

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