1. 私のストレス体験―心理学(ゲーム分析)との出会いー
私は日本や海外の化学会社で長年に渡り、化学プラントの設計や建設を行うエンジニアとして働いてきました。化学プラントというのは、石油精製や高分子製品の生産に用いられる工場のことをいいます。
エンジニアという職業柄、私は仕事をする中で多くの人と出会い、またマネージャーとして多くの人を統率し一緒に仕事をしてきました。実はこうした中で、私は周りにストレスをまき散らす、さまざまな迷惑人間たちと出会うことになったのです。ここでは、そういう迷惑人間たちの一人と出会った、私のストレス体験をご紹介したいと思います。
化学プラントの設計と建設という仕事柄、私は工場と本社を行ったり来たりする生活を送っていました。すなわち、しょっちゅう転勤があったのです。
ここでご紹介するお話は、私がある部署に転勤したばかりの時に体験したものです。
私がその部署に転勤して1ヵ月ほど経ったときのことです。ある大手企業を中途退職したA氏が私のいた会社に転職し、最初の職場として私が転勤した部署に配属されてきたのです。A氏が転職した理由は知りません。
その部署では大学と共同研究をしていたのですが、大学の先生が平日はなかなか決まった時間が取れないというので、月に一回、土曜日の午後にその先生を会社に招いて共同研究に関する定例会議を開いていました。
そんな、定例会議が行われる土曜日のことです。
私は調査の仕事があり、午前中から会社に出勤していました。調査の仕事というのは、共同研究で使う装置を製作できるメーカーを探すことでした。インターネットでいろいろ調べてみると、装置メーカーの候補としてある会社がヒットしました。
さっそく電話をしてみたのですが、土曜日ということで電話はつながりませんでした。やむなく、私はその会社で唯一メールアドレスが公開されている「お客様窓口」に用件と私の連絡先を記入し、ご担当者から連絡が欲しいと書き添えて、メールを送信したのです。
これは、お客様窓口を当てにしたわけではなく、「もし、その会社のお客様窓口の担当者の方が、私のメールを見て、対応してくれたらありがたいなあ」といった気持ちで行なったものでした。つまり、お客様窓口はあくまで便宜的なとりあえずの措置であり、私は、月曜日にもう一度その会社にきちんと電話をしてみるつもりであったことは言うまでもありません。
そうこうしているうちに午後になり、大学の先生を交えての定例会議が始まりました。A氏も初めてその会議に参加していました。私は会議の中で、装置メーカーの候補になりそうな会社が見つかったことと、取り急ぎコンタクトを開始したことを報告したのです。
すると、会議の参加者全員の前で、A氏が私のしていることに文句をつけだしたのです。以下、A氏と私との会話をありのままに再現してみたいと思います。
私 「・・・というわけで、共同研究で使う装置を製作できそうなメーカーが見つかりました。今日は土曜日で電話はつながりませんので、取り急ぎ、その会社のお客様窓口にメールを入れておきました。来週の月曜日には電話もしてみるつもりです」
A氏「お客様窓口? そんなところにメールを入れてもダメだ」
私 「電話をしてみたのですが、今日は土曜日で連絡がとれないので、とりあえず唯一メールアドレスが公開されているお客様窓口にメールを入れておいただけですよ」
A氏「お客様窓口なんか仕事には何の役にも立たない」
私 「ですから、とりあえずの対応と言っているわけです。私もお客様窓口にメールを入れたら、それで充分だと思っているわけではありません。月曜日にはちゃんとその会社に電話をしてみるつもりです」
A氏「お客様窓口なんかより、もっと確実な方法をとらないとダメだ」
私 「お客様窓口といっても欧米の会社では真剣に対応してくれるところも多いですよ。そんなに無茶苦茶に言うほどでもないと思いますが・・・」
A氏「ここは日本だよ。ビジネスにお客様窓口を使うなど考えられない」
私 「ですから、お客様窓口を当てにしているわけではないんですよ。そのために、来週早々の月曜にはその会社に電話をしてみるとさっきから何度も言っているわけです」
A氏「電話してもダメだ。いきなり電話しても相手にしてくれるわけがないだろう」
私 「しかし、今まで取引のない、初めてコンタクトする会社ですから、まずは電話をしてみるしか方法がないじゃないですか?」
A氏(上司に向かって)「こんな仕事のやり方じゃあダメですよ。私が今までいた会社なら、その会社と取引がある可能性があります。私が、前にいた会社の人間にあたってみます」
上司はA氏の申出にあいまいに回答し、結局、その会議は誰が何をするのか明確にならないまま終わってしまいました。
しかし、私は、たかがお客様窓口にとりあえずメールを入れたといった程度のことで、A氏に散々文句を言われたため、かなりのストレスをため込んでしまいました。
しかし、A氏の私への攻撃はそれで終わらなかったのです。
それからというもの、A氏は、ことあるごとに私のすることに逐一文句をつけだしたのです。私が何かを提案したら「そんなことをやってもダメだ」と否定し、また何かの報告書を出せば「役に立たない」と言って否定するのです。A氏は私以外の人にはそういうことを言わずに、私にだけ文句をつけてくるのでした。上司がA氏の対応に注意を与えてくれればよかったのですが、残念なことに、その時の上司はそういったことに関心を持ってくれる人ではありませんでした。
A氏は先ほどのお客様窓口の一件のように、どうでもよい些細なことにまで口を出して、私のやることなすことをことごとく否定してきます。私もこれには本当に参りました。A氏が否定するたびに、私のストレスはどんどん増していき、蓄積していきました。「このままではいけない。このままでは身体を壊してしまう。何とかしなければいけない」とは思うのですが、ではA氏にどう対処したらいいのか、私にはさっぱり分かりませんでした。
A氏に「些細なことで否定するのはやめてもらいたい」と話しても、A氏はまったく耳を貸しませんでした。それどころか、私への攻撃がますますひどくなる始末です。上司にも相談しましたが、前述の通り、上司はA氏の件に関心を示さず、まったく相談にのってくれませんでした。私のストレスはどんどん増していき、とうとう私は精神的に限界のところまで追い詰められてしまいました。
「もう限界だ。転勤希望願いを出して、A氏とかかわらない職場に移動させてもらおう」と思い、転勤希望のうまい理由がないかと書店で参考になりそうな本を探していた時のことです。
一冊の本が私の目に留まりました。それは心理学の本で、「ゲーム分析」というものが紹介されていました。パラパラと立ち読みしていた私は、その本の中に「何を言っても否定する『イエス・バット』のゲーム」というものが紹介されているのを見つけました。
「何を言っても否定するだって! まさにA氏のことではないか」と思った私は、その本を買って帰り、むさぼり読んだのです。
私は「ゲーム」というと何かの遊びと思っていたのですが、その本の中では、「ゲーム」とは「私たちの日常の対人関係の歪みや困難の中に、繰り返し現れてくるもの」と定義されていました。つまり、「人間関係において、相手にストレスを与える目的で繰り返される否定的な行動」と私は理解しました。そして、「ゲーム分析」とは、「どのようなゲームが行われているのかを解析し、人間同士のストレス関係を明らかにすること」でした。
その本には、「ゲーム」には多くの種類があること、その一つとして「イエス・バット」のゲームがあることが紹介されていました。「イエス・バット」のゲームというのは、相手の話を一旦は「そうですね」(イエス)と言って聞いておいて、すぐに「しかし」(バット)と言って反論するもので、どんなことにでも逐一反論するために、反論された側は非常に大きなストレスを感じることになるというものでした。
目からうろこが落ちるとは、このことです。A氏は、まさにこの「イエス・バット」のゲームを私に仕掛けていたのです。私が大変大きなストレスを抱え込んでしまったのも当然のことだったのです。「イエス・バット」のゲームを仕掛けられると、仕掛けられた相手(私)は大きなストレスを受けるのですから・・・
では、「イエス・バット」のゲームを私に仕掛けることによって、A氏にどんな利益があるのでしょうか? 私は買った本を参考にして考察を進めてみました。
A氏は私のいる会社に転職してきたばかりです。おそらく、新しく入った会社で「いいところを見せたい」と思い、張り切っていたのでしょう。幸いにも、配属された職場には、1ヵ月前に転勤したばかりで、職場にも仕事にも慣れていない私がいました。
新しい会社で、何とかして自分の存在感を高めたいと願っていたA氏は、さっそく私に目をつけたものと思われます。そして、取るに足らない些細なことをネタにして私を徹底的に否定することで、周りが私をダメ人間と思うように仕向けたというわけです。その上で周りに、ダメ人間の私とA氏を対比させて、A氏の価値を相対的に上げようとしたのです。
このように、ゲーム分析を使って考えると、A氏の行動や狙いが手に取るようによく理解できたのです。
それでは、A氏がゲームを仕掛けてくるのをどうしたら阻止できるのでしょうか?
A氏の目的は私を否定してダメ人間として位置付けることですから、否定するネタはどんな些細なことでもいいわけです。
いや、むしろ「些細なこと」といった「どうでもいいこと」を否定した方が私が反論しにくいので、A氏はわざと「些細なこと」を否定してきたと言えるでしょう。これは実に巧妙なやり方です。
つまり、「どうでもいいこと」とは、その行為を行った私自身も「どうでもいいので、この行為はやってもやらなくても、どちらでもいい」と思って取りあえず行っているわけです。だから、そんな程度の軽い気持ちで行ったことを正面切って「そんなことをやってもダメだ」と強く否定されると・・・私自身も「この行為はそれほど有効ではない」と自覚しているわけですから、その否定に強く反論することが非常に難しいのです。
こういった理由から、A氏は意図的に私の行為の些細なことをあえて取り上げて、それらを徹底的に否定してきたというわけです。
従って、私がA氏に「些細なことで否定をするのはやめてもらいたい」と言っても何の効果もなかったのは当然のことだったのです。些細なことを否定することこそが、A氏の狙いそのものだったわけですから。
そこで、私はA氏のもう一つの目的である「周りに私とA氏を対比させて、A氏の価値を上げること、すなわち、周りから、できる人間として褒められること」という点に着目しました。もし、A氏にとって「褒められること」が不快になったら、私への攻撃は止まるのではないでしょうか?
そう考えた私は一計を案じました。彼が「褒められたい」ならば、こちらは彼のやることなすことを徹底的に誉めてやろうという対抗策に打って出たのです。すなわち、彼が何か提案をしたら「さすが、Aさんですね。こういう素晴らしいアイデアはAさんでないと出てきません。普段から何事にも問題意識を持っておられるからこそできることですね。(中略)本当にAさんには感服致しました。素晴らしい!」といった具合にA氏を誉めまくるメールを意図して上司を含めた関係者全員に送るようにしたのです。「ほめ殺し」という言葉がありますが、私はその「ほめ殺し」を徹底的に行って、A氏に対抗したというわけです。
そして、私の予想通り、この方法がA氏に効いたのです。しばらくすると、A氏から「あなたに自分を誉めまくるメールを打たれると非常に不快な思いがする」というメールが届いたのです。そこで、私は黙って「ほめ殺し」をやめました。そうすると、面白いことに、自然にA氏も私を否定しなくなりました。私を否定すると「ほめ殺し」の逆襲があると気づいたのです。さすがにA氏も「ほめ殺し」には参ったようでした。
こうして、ようやく私は、あんなに私を苦しめたA氏の攻撃から逃れることができたのです。あんなに苦しんでいたのに、A氏が私に「イエス・バット」のゲームを仕掛けていることが分かったとたん、事態は一気に解決へ向かったというわけです。
この体験は私に多くのことを教えてくれました。特に、心理学の手法であるゲーム分析の効果を経験できたことは非常に大きな財産になりました。ただ一つ残念だったことは、この体験が私のエンジニアとしてのキャリアの後半の出来事であったため、その時には職場におけるストレス体験の多くは過去のものになっており、私はそれらに対して、ゲーム分析を活用することができなかったことです。
しかし、私は、この体験は多くの人のお役に立つのではないかと考えました。そこで、この体験から心理学に興味を持った私は、その後、専門の先生から臨床心理学の講義を受け、また心理カウンセラーの学校にも通って、カウンセラーの民間資格を取得したのです。そして、私の体験を皆様にお伝えできればと思って、ここに記載しはじめたというわけです。
さて、読者の皆様の中には、過去にこのような迷惑人間に悩まされた、あるいは現在も悩まされているという経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃるのではないかと思います。
世の中、特に職場といった閉鎖社会の中には人間関係に起因するストレスがあふれています。しかし、私自身もそうでしたが、ほとんどの人はそのストレスにどのように対処すればよいかわからず、ただ耐えているというケースが多いのではないでしょうか。
しかし、人間関係に起因するストレスの多くは、先ほどのA氏の事例のように、ゲームによって引き起こされていることが多いのです。このため、ゲーム分析で自分に降り掛かっているストレスの本質を知ることによって、ストレスの対処方法を見つけることができるのです。
尚、「ゲーム分析」とよく似た言葉に「ゲーム理論」というものがあります。「ゲーム理論」というのは「社会や自然界といった場でなされる、意思決定や行動といったものを数学的なモデルを用いて解析する数学理論」のことです。「ゲーム理論」を用いることによって例えば、「市場競争といった『ゲーム』での場で、相手や周囲の動きを予測し、それによって自分の利益を多くして損失を少なくする」といった方策を見つけることができます。
一方、ここで取り上げる「ゲーム分析」とは「人間間の不快なコミュニケーションのパターンを分析し、それを改善する心理学理論」のことです。
このため、「ゲーム分析」と「ゲーム理論」は名前はよく似ていますが、中身は全く異なりますので、混同されないようにご注意をお願いします。
それでは、次回からゲーム分析をもう少し詳しくご紹介していきましょう。
尚、著者の都合により、本シリーズは不定期のアップとなります。この点、ご容赦をいただければ幸いです。
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