『いっそ台風が直撃して、大地震も起きて、今年の五華祭いつはなさいは実行不可能になればいいのに』なんて思っていたのに、五華祭当日の朝は憎たらしいくらい穏やかに晴れ渡っていた。


 薄く青が広がる空に秋の朝特有の透明度が高い光が差し込む様をぼんやりと眺めていた詩都璃シズリは、これから成されることを思って小さく瞳を伏せた。


 ──気が乗らない。


 これが詩都璃の正直な感想だ。


 彼らの思考に共感できる部分がまったくないと言えば嘘になる。だが積極的に加担したいとも思えない。彼らが勝手に事を成すのを見て見ぬフリはできても、協力したいと思うほど感情は動かない。


 それなのに詩都璃が彼らのたくらみに加担しているのは……


「いい天気になりましたね」

「っ!?」


 不意に、声が聞こえた。


 聞き覚えはあるけれど、知らない声。


 そんな矛盾した声に顔を跳ね上げれば、教室の入口に人影が見えた。


 野暮ったささえ感じるくらいキッチリ規定通りに身に付けられた制服。本来は前も後ろも長いボサボサの黒髪は今、手櫛で後ろへ撫で付けられていて、メガネが外された秀麗な顔が露わになっていた。普段の天然な雰囲気からは想像もつかないキレが鋭すぎる美貌を露わにした少女は、真っ直ぐに詩都璃だけを見据えている。


 その口元には抜き身の日本刀のような雰囲気にそぐわない穏やかな笑みが浮いていた。それでも詩都璃の心臓はドッといきなり心拍数を跳ね上げる。


『錬力学殺しの天才』冴仲さえなか杏奈アンナ


 非資質者でありながら、その鋭すぎる五感と頭脳により、目の前の事象を即時解体、分析し、対処法を見出すことで錬力を無効化してしまう天才。その才能からつけられた名前は『雷撃の直観ライトニング・インサイト』。


 その牙の鋭さを、詩都璃はすでに身を以って知っている。


「安心してください。今この場には私と先輩しかいません。二人きりで話がしたくて、イトには席を外してもらいました。錬対もこのことは知りません。この場で話したことは、本当に誰にも伝わりません」


 思わず詩都璃は逃げ場を求めて腰を上げる。


 だが詩都璃が本格的に逃げを打つよりも、杏奈が静かな声で詩都璃を制する方が早かった。


「先日、清白すずしろ先輩の襲撃を受けました」


 どういうこと、と一瞬混乱した瞬間に、次の言葉はスルリと差し込まれていた。


 詩都璃には決して無視することができない言葉に、詩都璃は物事を判断するよりも前に喰い付いてしまう。


姫妃ヒメキ様の?」

「『詩都璃に危害を加えたでしょう』って、えらい剣幕でしたよ。清白先輩は、あなたが夜な夜な出歩いていることにも気付いているようでした。その行動を『害虫駆除に出掛けている』と判断しているようでしたね」

「っ……!」

「仲の良い主従なんですね」


 姫妃の名前に、心臓が先程とは違う緊張を帯びて痛んだ。制服の下に隠すように帯びたロザリオがチリリと揺れる。


 軽く腰を上げた姿勢のまま、詩都璃はダブダブな制服の袖の中に潜ませた手の中にスローイングナイフを滑り込ませた。先程までは逃げ道を探して彷徨さまよっていた視線を、明確な敵意を以って杏奈に据える。


「あなたが彼らに協力しているのは、清白先輩を彼らから守るためですね?」


 そんな詩都璃の行動にさえ気付いているのか、杏奈の視線がチラリと詩都璃の袖元に流れた。


 だというのに杏奈は、特に行動を起こそうとはしない。本当に周囲に護衛を置いていないのか、詩都璃が静かに殺気を纏っても誰も姿を現す気配がなかった。


 まだ誰も登校してきていない、澄んだ朝の空気だけがある早朝の校舎。普段から使われていない雑然と机と椅子が並べられた教室は、特別な日である今日も主役になれないのか、普段と変わることのない停滞した空気を溜め込んでいる。


 そんな中で、二人は相対していた。


「……榊原さかきばらハヤテが『ウェルテクス』に姫妃様を勧誘したのは、最初から事を起こすためでした」


 その空気の中に、詩都璃は抱え続けたモヤモヤを吐き出すことにした。


 吐き出さずして切り抜けることはもはや不可能だろうし、不都合が生まれるならばこの場で彼女を殺してしまえばいい。その結果、詩都璃も道連れになるならばそれはそれで好都合だ。彼らに協力しなくて済む。


 ──でも。


 その結果、姫妃の傍にいられなくなるのは、嫌だなと思った。


 結局は、いつもそう。


 自分はそんな自らのエゴのために、ここまでズルズルと彼らの企みに加担してきてしまった。


「強力な水属性の錬力使いが多く排出される旧家、清白家。政財界へのパイプがある清白本家の人間を抱き込むことは、彼らの悲願達成に必要なことだった。……そんな彼らの企みを見抜くことができず、姫妃様への接触を許してしまった。明らかに護衛官である私のミスです」

「清白先輩を事件に加担させないために、雨宮あまみや先輩は彼らに協力していたんですか?」

「姫妃様は誰よりも真っ直ぐなお方。力ある者こそが力なき者を助けるべきであるという高い志をお持ちの方です。姫妃様が五華学園にご入学されたのも、己の才を将来、広く世間の役に立てるため。そんな姫妃様の性格を、彼らは初手で読みきれなかった。……だから取り返しがつかなくなる瞬間まで、彼らは姫妃様に事の真相を伏せることにした」


 榊原颯が『革命』の計画を詩都璃に伝えたのは、今年の春の始めのことだった。その志がどこにあるのかも、その志のために何をするかも、榊原颯は包み隠さず詩都璃に伝えた。


『君のその能力は、最初から計画に必要だったんだ。ヒメキはまぁ……必要になるのは、革命の旗印が掲げられてからなんだが。君を抱き込むためにはまず、主であるヒメキを堕とすべきだ。そうだろう?』


 その時点で榊原颯は、今までずっと隠してきた薄汚い本性を詩都璃に露わにしていた。恐らく最初から詩都璃を逃がすつもりなどなかったのだろう。


『「ウェルテクス」は、そもそもそのために立ち上げたチームだからね。ダイチもナツメも、最初から僕の同士だ』


 ──さて、そんな僕達が事を起こして、君の協力がなくて捕まりでもしたら、世間は同じチームのメンバーであったヒメキにどんな視線を向けるだろうね? ああ、そういえば言い忘れていたけれど、僕達には錬対の中に協力者がいるんだ。僕達が万が一捕まってしまったら、ヒメキも加担していたという証拠が出てこないとも限らないよね?


 案の定、颯はそんなことを口にした。


 恐らく、颯は詩都璃が協力を拒んだら本当にそれらの脅しを決行するつもりだったはずだ。姫妃の護衛官としてずっと戦ってきた詩都璃は、そういう連中を嫌になるほど見てきたから分かる。


 詩都璃がここで否を叩き付ければ、颯は何らかの手段で詩都璃と姫妃を引き離し、姫妃に話を持っていく。そして姫妃が拒絶すれば、姫妃にどんな危害を加えるかも分からない。


 姫妃の身を守るためには、もはや協力する以外に道はなかった。


「むしろ、あなたが条件を出したのでは? 自分が素直に協力している間は、清白先輩を巻き込まないでほしいと」


 そこまで読めていたのかと、詩都璃は諦観に似た思いを噛み締める。


「あなたが現場にあえて制服を着ていったのも、学年章を落としていったのも。……こちら側にそれを気付かせて、事件を止めるためだったのではないですか?」


 同時に、手はスローイングナイフを握り締める力を失っていた。ストン、と腰は元の椅子に戻り、ダラリと下がった手からスルリとナイフが滑り落ちていく。カランッというナイフが立てる音が虚しく詩都璃の耳を叩いた。


「……ただ、姫妃様のお傍に、戻りたくて」


 空いた両手が、無意識のうちに首のロザリオを握りしめていた。


 全てを終わらせてほしかった。全てを壊してほしかった。


 颯達に非難されながらも『この服装が一番力を振るいやすいから』と主張して詩都璃が事件現場にあえて制服を着て出向いていたのは、杏奈が言う通りに捜査側に自分達の素性に気付いてもらいたかったからだ。


 もう詩都璃一人の力では颯達を止めることも、姫妃を守ることもできない。ならばいっそ自分の身元が割れて、そこからメンバー全員が芋づる式に捕まってしまえばいいと思っていた。


 その考えさえ甘かったと気付いたのは、錬対に捕まってからだった。


 己の尋問に現れた捜査官の顔を見た瞬間、詩都璃はなぜ颯が『錬対の内部協力者』の素性を自分に伏せていたのか、理由を知った。


 詩都璃とも、姫妃とも、が知己だったからだ。早々に明かして、罪の意識に耐えきれなくなった詩都璃が清白の家に情報をリークすることを防ぐためだ。恐らく颯もも、詩都璃があんなヘマを踏まなかったら、『革命』が実際に決行されるまでの正体を覚らせるような真似はしなかっただろう。


 まだ学生と言っても通じるような童顔に不釣り合いな漆黒の制服を着込んだ男は、言葉では詩都璃を厳しく尋問しながらも、足で浮島を軽く叩くことで詩都璃に秘密裏にメッセージを送っていた。


『ヒメキはきっと、君の帰りを心待ちにしているだろうね』


 ……その言葉を理解できてしまった瞬間、詩都璃の中からは大人しく捕まって真実を明かしてやろうという気概も、消えてしまった。


「私は……っ、私は、どうすれば良かったのですか……っ!?」


 自分にこんなことを叫ぶ資格などないと分かっている。何をどう釈明しようとも、詩都璃が罪を犯したという事実は変わらない。


 それでも、詩都璃の心は叫ばずにはいられない。


「どうすれば私は、正しく姫妃様をお守りすることができたのですか……っ!?」


 涙で歪む視界の端に、火傷の跡が残る己の手が見えた。他にもたくさん古傷が残る、小さくて非力な手だ。


 物質透過の錬力持ちでありながら、詩都璃の全身には護衛官として負った傷が無数にある。その跡をなるべく人目に触れさせたくなくて、詩都璃はずっと本来のサイズよりも大きなブカブカの制服を着込んできた。


『詩都璃。詩都璃の着こなし、可愛いわね。ちまたではそれを「萌え袖」と言うそうよ?』


 そんな詩都璃の内心を、口にせずとも姫妃は察していたのだろう。家の者が『みっともない』『清白のご令嬢のお傍に詰める者ならば、きっちりとした身だしなみを』『そもそも負った傷を隠したいなんていう思考からしてお前は弱い』と顔をしかめる中、姫妃だけが詩都璃をいつも肯定してくれた。


『みんな分かっておりませんわ。これは詩都璃の武装ですのに。武装を可愛く着こなす詩都璃は最高ですわ』


 そう言ってくれる姫妃のことが、詩都璃は大好きで。大切で。


『詩都離。お守りのロザリオですわ。わたくしとお揃い』


 ただただ姫妃に幸せでいてもらいたいと。ただそれだけを切に願って日々を送っていただけなのに。


「どうしていれば……っ!!」

「……その気持ち、分かります」


 パタパタと、机の上に水滴が散っていく。


 そんな雫と一緒に、静かに肯定の言葉は落ちてきた。


「分かるんです、私にも」


 ゆっくりと顔を上げる。


 冴仲杏奈は、現れた時からずっと立ち位置を変えていなかった。ただその顔に浮かぶ感情の色は、ここに顔を出した時から少しだけ変化している。


「たった一人の幸せを、切に願っているんです、私も。どうすれば、彼は幸せになってくれるんだろうって。……でも突き詰めて考えていくと、多分……私と出会わなかったらっていう仮説が、一番彼の幸せに繋がるんじゃないかって。毎回、そんな結論に落ち着くんです」


 何かを諦めたような。それでいてまだ、足掻く手段を模索しているかのような。


 切なさと、苦味。そこに嬉しさと絶望を一匙ずつ。


 確かに杏奈が言う通り、自分達が抱く感情は、どこか似通っているような気がした。


「だから、分かるんです。あなたの気持ち」


 不意に、なぜ彼女が独りきりでここにやってきたのか、理由が分かったような気がした。


 彼女にはきっと、全てが見えているのだろう。


 彼らの企みも、その企みに至った心境も。詩都璃の気持ちも、経てきた道も。蚊帳の外に置かれた姫妃の心の内さえもが、もしかしたら彼女には見えているのかもしれない。


 それぞれの人間の心の内が分かって、少しずつ共感ができるからこそ。……だからこそ彼女はここに、絶対的な信頼を置いている幼馴染さえ連れてこなかった。


「その上で私は、あなたに提案したいことがあります」


 涙をこぼしながら、詩都璃は無防備に目を丸くした。そんな詩都璃の視線の先で杏奈はスッと穏やかな笑みをかき消す。


「私から錬対に繫がっているパイプは、『ウェルテクス』の内部協力者よりも上に繋がっています。私自身にも、それなりの権力があります」


『雷撃の直観』という言葉そのままに鋭く詩都璃を見据える杏奈から、詩都璃はもう視線をそらさなかった。一度ギュッとロザリオを強く握りしめてから、手の甲と制服の袖で涙をぬぐって無理やり止め、キッと杏奈を見据え返す。


「『清白姫妃の無実の証明』『事件解決後の身体的・社会的な安全の保証』……この2点を条件として、あなたに取引を申し入れたい」


 深見台ふかみだい美術館で遭遇した時、詩都璃には彼らの操る雷が天罰のように思えた。終焉のラッパとともに打ち下ろされる、天からの裁きの雷撃だと。


 でも今はこの輝きが、暗闇の中に道を開く神の天啓のように思える。


「雨宮詩都璃。私との司法取引に応じないか?」


 その雷撃を繰る女神を見据えて、詩都璃はコクリとツバを飲み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る