何となくモヤッとするのは、今年こそ普通に学園祭を楽しめると思っていたからだ。


 美味しくはないけれど雰囲気はある屋台物の料理を食べ歩き、演劇部や吹奏楽部の舞台を眺め、時々高尚な展示を冷やかしたり、『このクラス絶対手抜きだよなぁ〜』なんて感想を言い合ったりしながら、ただの学生としてお祭りを満喫できると思っていたからだ。


「なーのに何で俺達、疑似実地パフォームになんか出なきゃなんねぇんだろう」

「いや、それ言うならエントリーなんかしなきゃ良かったんじゃね?」


 思わずグチがこぼれた瞬間、ススムから真顔でツッコミを喰らってしまった。そんな雷斗ライトと享はそれぞれ折り紙で作ったチェーンの端を持って黙々とチェーンを伸ばすという地味な作業をこなしている。


 雷斗の心境にかかわらず、五華祭いつはなさい準備期間は粛々と進んでいた。どのクラスも夏休みに入る前に出し物だけは先に決めて学園側の承認は得ているから、準備期間に突入すれば迷うことなく下準備が始まる。


 雷斗達1年B組のもよおし物は『コスプレ喫茶』と決まっていた。男子も女子も様々な衣装を纏い、給仕をするというあれだ。


『風紀的にアウトな衣装を着ない』という条件の下に認可が降りたため、バニーガールやミニスカメイドは登場しない。しかしなぜかバニーボーイとミニスカ女装メイドは許可されている。


『随分前から男に対してもセクハラは成立してるんだぞ! 不公平だ!!』と男子側は訴えたのだが、その主張が通ることはなぜかなかった。当日はクジでバニーボーイ役とミニスカ女装メイド役が決定されるらしい。理不尽極まりない。


「…………………まぁ、そうなんだけどな」

「何だよ、今のやけに長い沈黙」


 衣装作成も料理作成もできない人間は、こうして教室の装飾やちょっとした小道具をチマチマ作成することくらいしかやれる仕事がない。前日になれば男子は大道具の準備に駆り出されるのだが、残念ながら今はまだその段階でもなかった。


「いやさ。色々事情が、な」


 雷斗の独り言に律儀に付き合ってくれる享に答えながら、雷斗はチラリと教壇の方へ視線を投げた。その先では女子数人が集まってキャッキャッと楽しそうな声を上げている。


「アンナ、意外にクラシカルメイド似合うじゃーん!」

「えぇ〜? さっきのシスターコスの方が絶対アンナには似合ってたって!」


 衣装班の真ん中で着せ替え人形にされていたのは、意外なことに杏奈アンナだった。


 実は昨日から続いていることで、衣装班女子曰く『普段モサくて地味な人間こそメタモルフォーゼさせるのが楽しい』という意味での選出らしい。


 雷斗としては杏奈がすっ転んで衣装がダメになるんじゃないか、杏奈の髪やメガネを勝手にいじられて杏奈自身が体調に異変をきたすのではないかと気が気じゃない。だが当の杏奈は雷斗の心配をそっちのけで楽しんでいるらしく、いつも以上にぽやぱやした空気には花が飛んでいた。


 ──今年こそアンナに、普通の学生らしく、学園祭を楽しんでもらえると思ったのにな。


 今の杏奈は、フリではなく心の底からこの状況を楽しんでいる。友人達の中にごく普通の人間として混じり、ごくごく普通の女子高生として、ごくごく普通の学校行事に参加できることを、この上なく喜んでいるのが雷斗には分かる。


 だからこそ、五華祭当日の疑似実地パフォームを思うと心が沈んだ。


 恐らく当日の杏奈がクラスの出し物に参加することはない。五華祭が始まれば、杏奈にとってそこは仕事の現場だ。生徒会の殲滅および錬力相の安全確保を第一に考える杏奈は、目の前で学園祭が行われていてもそれを楽しむことはないだろう。


 それが杏奈にとっての日常で、杏奈にとっては当然の選択だから。そうしなければ杏奈は、国に生存を認めてもらえない。国の意志に沿わなくなった瞬間から、杏奈の『牙』は国にとっての脅威に変貌するのだから。


 そんな状況に杏奈が置かれていて、それを知っているのに自分は何もできないことが、雷斗にはいつも歯がゆい。


 ──あいつだって、ただの女子高生じゃないか。


 杏奈が学校に通い始めたのは、中学からだった。


 世間一般で『小学生』と呼ばれる年齢まで研究所に軟禁されてきた杏奈は『病弱で小学校まではほとんど学校に通えなかった転校生』という設定で中学生になった。


 それでも能力が露見しやすいシチュエーションに研究所と錬対は敏感で、杏奈は大きな学校行事には中々参加させてもらえなかった。体育祭も、文化祭も、発表会のたぐいも、杏奈はほとんど参加していない。授業よりも『仕事』が優先で、杏奈は中学時代にろくな思い出を作らせてもらえなかった。


『イトくん、学校って、楽しいね!』


 それでも杏奈は、心の底から弾けるように笑って言うのだ。


 楽しいね、嬉しいね、と。


 雷斗と同じ年頃の人間にとってはごくありふれた日常に、この上なく幸せそうな顔を見せるのだ。


 ──だからこそ。


 だからこそ今年は、と、雷斗は思っていた。


 五華学園は、錬力使い達が集う学舎まなびや。その中で生活することは『冴仲さえなか杏奈』にとっては有益なことで、多少本性が垣間見えても周囲が錬力使いばかりであればそこまで目立つこともない。杏奈の『制御』が発達したこともあり、今年の五華祭には杏奈も一般生徒として参加を認められていた。


 ──だからこそ、思いっきり楽しんでもらいたかったのに……


「イッ!?」


 そんなことを悶々と考えていた瞬間、指先に走った痛みに雷斗は我に返った。雷斗の小さな悲鳴に杏奈がハッと顔を上げる。


「ッテェ……」


 何事かと手元に注意を向ければ、輪飾りを作るために短冊状に仕立てられた折り紙がザックリと親指の股に刺さっていた。どうやら紙で切れた上に、雷斗の反射神経が良すぎたせいでそれが途中で止められてしまったらしい。


「……うっひょう」


 その一部始終を目撃してしまったのか、享は腕に鳥肌を立てながら軽く体を引いた。


「紙で切るだけでも痛ェのに、そこで止まっちまったとか、何の拷問?」

「……言うなよなぁ……」


 雷斗は意を決して指に刺さったままの折り紙を引き抜いた。実際の所、ミリも埋まっていないはずなのにやたら紙が引き抜かれる感触と痛みが伝わってくる。恐る恐る紙が刺さっていた場所に視線を落とすと、案の定ジワリと朱色の線がにじんでいた。


「うっわぁ……。紙で手切るとか何年ぶりだよ……」

「地味に痛いよなぁ」


『待ってたら止まんねぇかなぁ』と雷斗は若干引きつった顔で己の手を見つめる。


 そんな雷斗の耳に、不意にゴチンッという何だか痛そうな音が聞こえてきた。ハッと顔を上げると杏奈を取り囲んだ女子生徒達が何事か慌てている。


「アンナ!? ちょっ、どうしたのっ!?」

「ううぅ〜……」

「アンナって、動いてなくてもすっ転べたのね」


 そんな声が聞こえてきた瞬間、雷斗はガタリと席を立っていた。考えるよりも早く杏奈に歩み寄ると、女子生徒達は自然に雷斗のために場所をあけてくれる。


「アンナ、どうした?」

「う〜……」

「何か、ちょっと足を動かした時に、後ろ裾を踏んでそのまま後ろに倒れちゃったみたいで」


 人垣の中心で、杏奈は後頭部を抱えるようにしてしゃがみ込んでいた。そんな杏奈が纏っているクラシカルなメイド服は杏奈の体より大きくて、裾がドレスのように床にすっている。


「黒板に頭ぶつけちゃったみたい」

「どうしよう? たんこぶできてない?」

「冷やした方がよさそうよね。稲妻いなずまくん、アンナのこと、保健室に連れてってやってよ」


 女子生徒達から説明を受けている間に視線を感じてチラリと杏奈に視線を落とすと、杏奈はメガネの隙間から雷斗を見上げていた。その視線は先程雷斗が折り紙で負傷した右手に向けられている。


 ──まさかアンナ、俺を保健室に連行するためにあえてすっ転んだのかっ!?


 視線の意味が理解できてしまった雷斗は、思わず内心だけで頭を抱えた。


 ──お前、自分が国家レベルの天才だっていう自覚あるのか? 自分の頭をもっと大切にしろっ!!


「……アンナ、とりあえずそのメイド服脱ごうな。下にちゃんと制服着てんだろ?」


『これは後で膝詰め説教の刑だな』と心に決めながら、雷斗は杏奈に声をかける。


 その言葉を受けて杏奈ではなく周囲の女子が慌ててメイド服を脱がせてくれた。衣装自体は量販店で買ってきた物なのだが、複数人が楽に着回すことができるように衣装班が改造を施しているらしく、クラシカルなメイド服はあっけないほど簡単に脱げ、杏奈はいつも通りのモサい制服姿に戻る。


「危ねぇから動くなよ」


 そんな杏奈を雷斗は左腕だけでヒョイッと抱き上げた。構図的に父親が幼い娘を片腕で抱っこしているそれである。


 別に身体強化をしていなくても、肉弾戦を主とする雷斗はそこそこ体を鍛えているし、杏奈は標準よりもはるかに体重が軽い。重心を安定させればさして労力もかからず片腕だっこくらいはできる。


「い、イトくん!?」


 だが『できると知っている』というのと『実際にやられる』というのは、やはり勝手が違うものであるらしい。


 雷斗がこれくらいのことは簡単にできると杏奈は知っているはずなのに、雷斗に抱き上げられた杏奈はワタワタと慌てた。


「じ、自分で歩ける……!」

「お前、頭打ったんだろうが。安静にしてなきゃダメだろ」

「い、イトくんだって手にケガ……!」

「だから片手しか使ってねぇだろ。制服は汚さねぇから安心しろ」

「そこを心配してるわけじゃ……!」

 

『おぉー!』というクラスメイトからの歓声を背に受けながら、雷斗は教室を後にした。


 杏奈はしばらくワタワタと慌て続けていたが、途中で観念したらしい。上半身を安定させるためなのか雷斗の左肩に両手を置いた杏奈は、恐る恐るといった体で口を開く。


「イトくん」

「なんだ?」

「怒って、る?」

「当たり前だろ。どこに俺を保健室に連れてきたいからって後頭部を自主的に黒板にぶつけるバカがいるんだよ。何かあったらどうするんだ」

「だって……。そうでもしなきゃイトくん、その傷放置するでしょ?」

「文字通りかすり傷なんだが?」

「イトくんこそ、己の肉体こそが武器であることを自覚した方がいいよ」


 珍しく批難する響きを帯びた声に顔を上げると、杏奈は分かりやすくむぷーっと頬を膨らませていた。どうやら拗ねているらしい。


「……アンナ」


 そんな杏奈の姿に、ポロリと声が漏れていた。


「楽しいか?」


 唐突な問いだったと思う。その証拠に杏奈はキョトンとした顔で雷斗を見下ろす。


 そんな杏奈は、メガネごしにどんな世界を見たのだろうか。


 フワリと、杏奈の口元が笑みに緩んだ。


「楽しいよ? ものすごく」


 短い言葉には、その短さにそぐわないたくさんの感情が載せられていた。その響きだけで雷斗は、杏奈がどれだけの幸せをこの日常に感じているのか分かってしまう。


 分かってしまうからこそ、息がつまった。そんな雷斗に向けて、杏奈は言葉を続ける。


「ありがとね、イトくん」

「……感謝されるようなことは、俺は何も……」

「ううん。私の日常は、イトくんがいてくれるからこそだもん」


 杏奈は雷斗に抱き上げられたままユラユラと足を揺らした。己の両足で立っても雷斗の肩までしか背丈がない杏奈がそうしていると、本当に幼児が抱き上げられているかのようだった。


「イトくんがいなければ、私は春の暖かさも、夏の暑さも、秋の涼しさも、冬の寒さも知らないまま、あの箱の中で死んでいったんだと思うよ」

「そんなことは……」

「私はね、。見ようと思えばきっと、世界の終わりを見透かすことができる人間だ」


 キュッと、雷斗の肩に載せられた杏奈の手に力がこもった。小さくて力も弱い手は、雷斗にすがるようにそっと雷斗の制服を掴む。


「だけど私は、イトがいなければ、ただのヒトが知っていることを、一生体感することはなかったんだよ」

「アンナ……」

「感謝している。同時に……」


 ふと、杏奈の声が中途半端な位置で途切れた。


 その沈黙の中に躊躇うような気配を感じた雷斗は、反射的に杏奈へ視線を向ける。


「アンナ?」

「白浜のおいちゃんってさ、黒浜のおいちゃんが錬対に引き抜かれたから、自分も対錬に行ったらしいんだよね」

「ん?」


 キュッと杏奈が雷斗の首に抱きつくように体を寄せたから、視線を向けてみても雷斗には杏奈の表情をうかがうことができなかった。


 だから雷斗には、杏奈が急に話題を変えた意図が分からない。


「ねぇ、イトくん。イトくんって、学校を卒業したら、どうするの?」

「へ? とりあえず今のままなら、エスカレーターに乗って大学部まで行けると思う」

「その後。就職とかの話」

「おー……? アンナは今のまま何事もなければ、そのまま錬対だよな?」

「うん」

「じゃあ俺も錬対だろ」


 分からなかったからこそ、雷斗はその問いにあえて軽く答える。


 だが口調が軽かろうとも、その言葉に嘘はない。込めた覚悟も本物だ。杏奈はそのことを重々承知している。


「それでいいの?」


 だというのに杏奈は、雷斗の言葉に問いを投げかけた。


「イトくんは、私がいたから五華学園に入学。私がいなければ、もっと他に選択肢があったんじゃないの?」


 その言葉に雷斗は思わず目をしばたたかせる。予想もしていなかった言葉に、廊下を進んでいた足が止まった。


 しばらくそうやって考え込んだ後、雷斗の唇からこぼれ落ちた声はいつになく険をはらんでいた。


「……アンナは、白浜のおっちゃんが不幸だって言いたいのか?」


 杏奈はその言葉に答えない。


 だが答えがないからこそ、杏奈が迷いながらもおおむね雷斗の言葉を肯定しているのだと分かってしまう。


 ──もしかして、おっちゃんとクロさんの関係を俺達に重ね合わせてんのか?


 錬力学がおこって1世紀が過ぎても、錬力はしょせん『特殊能力』止まりだ。使える者は生まれ持った資質によって限られており、その中でも特殊錬力が使える人間はほんのひと握りしかいない。


 そういった人間は、才能を見つけられてしまえば問答無用で国家機関に引き抜かれて、勝手に歩む道を決められる。そしてそんな人間の傍には必ず、彼らが道を決められてしまったことにより己の歩む道も自ずと決まってしまった同伴者が添えられるものだ。


 監視員、護衛、相方。その『同伴者』に与えられる呼び名は違っていても、こなす役割はほぼ同じ。道連れという点でも相違はない。


 黒浜は恐らくそうやって道を決められてしまった人間で、白浜はそれに巻き込まれた人間なのだろう。雷斗よりも長く、それこそ白浜達が錬対に入室した頃から白浜達と付き合いがある杏奈には、雷斗が知っていること以上に見えるものがあるのかもしれない。


 ──でも何で今、このタイミングでこの話題が出るんだ?


「……杏奈は、このまま大学行って、錬対に入るんだよな?」


 そんな疑問を心の中だけでもてあそびながら、雷斗は問いを口にした。


 その問いに答える杏奈の声は、いつになく淡々としている。


「もしかしたら大学院まで進まされるかもしれないけれど。よっぽど落ちこぼれても、大学までの道は敷かれてる」

「よっぽど落ちこぼれたら?」

「将来的に錬対で役に立てないって分かった時点で、今よりももっと狭い檻に戻されて、もう一度実験動物にされるだけ」


 その返答を予想していながらも、雷斗はとっさに何と返したらいいのか分からなかった。何回かこの問答はしているはずなのに、毎回何と言えばいいのか雷斗は分からなくなる。


『錬力学殺しの天才』『ライトニング・インサイト』


 錬力の『れ』の字も使えないくせに、物心つくよりも早く国に錬力学殺しの才能を見出されてしまった少女。そんな彼女の人生は、随分前から電車のレール以上にガッチリと固定されてきた。


 親や先生といった身近な存在からではなく、国という大きすぎる存在によって。


 その身の不自由も、細すぎる肩に乗っている重責も、杏奈の『同伴者』である雷斗は知っている。


 だけど杏奈自身がそのことに対して何を思っているのかは、杏奈自身に語ってもらわなければ分からない。


「……アンナ。もしもクロさんがおっちゃんに今アンナがしたのと同じような話をしたら、多分おっちゃんは俺と同じことを言うと思うんだけども」


 だからこそ、と雷斗は思う。


「思い上がってんじゃねぇぞ」


 雷斗は言い終わるのと同時に、腕の感覚を頼りに杏奈の額の前にセットした指で杏奈にデコピンをかました。


 雷斗としては至極軽く弾いたつもりだったのに、思っていた以上に痛そうな音を立てながら杏奈の体は宙に浮く。


「いっっっっっ!?」


 雷斗は杏奈の膝裏に回していた腕をヒョイッと上げると、反対側の腕で杏奈の腹を掬うようにして己の腕から転がり落ちかけた杏奈を回収する。


 一瞬で勝手に軽業師のような動きをさせられた杏奈は、弾かれた額を両手で押さえたまま目を白黒させた。恐らく杏奈の動体視力では自分の身に何が起きたのか処理しきれていないのだろう。


 それでも杏奈は『デコピンされた→デコ痛い』だけは理解できたらしい。飼い主に抱き上げられた猫よろしく雷斗の腕にぶら下げられた杏奈は、額を両手で押さえたままガバッと雷斗を見上げる。


「ちょっ……!! 何すん……!!」

「俺達には俺達の意志がある。力もある。俺だって、白浜のおっちゃんだって、国に強制されたからって唯々いい諾々だくだくと従うだけの人間に見えんのか?」


 そんな杏奈の文句を、雷斗は最後まで聞いてやらなかった。ようやくこちらにきちんと視線を寄越した杏奈を真っ直ぐに見下ろし、恫喝どうかつするかのように低い声でささやく。


「そう見えてんなら、心外だなぁ?」

「え? 怒って」

「怒ってる」


 さらに食い気味で答えると杏奈は額を押さえたまま『???』と分かりやすく混乱を顔に出した。どうやら杏奈は額を突き抜けた痛みよりも、いきなり突きつけられた怒りの方に混乱しているらしい。


「アンナとを交わしたのは、俺の意志だ。アンナの傍に俺がいんのも、俺達が揃って『ライトニング・インサイト』であるのも、俺の意志だ。そこに国は関係ない」


 そんな杏奈に向けて、雷斗は静かに言葉を紡いだ。


 大切な言葉がきちんと杏奈の心に染み込んで消えていかないように、重く、固く、覚悟を込めて。


「俺がどこで生きるか、誰とダチであるか、何をするか。決めたのは国じゃない。俺だ。……これはアンナにだって否定させない」


 真っ直ぐに雷斗を見上げた杏奈に、その言葉はきちんと届いたようだった。


 顔に対して大きすぎる白くレンズが濁ったメガネの下で、杏奈は無防備に目を見開く。


 その顔は次の瞬間、無防備なままクシャリと歪んでいた。複雑な感情で歪んだ顔は、泣き出す直前の幼子に雰囲気が似ている。


 ──もしかして、アンナがこのタイミングでこの話題を切り出してきたのって……


 その表情に気付いた瞬間、雷斗の中にふととある仮説が閃いた。


 ──犯人グループの犯行動機と、何か関係があったりするのか? 


 思えば雨宮あまみや詩都璃シヅリの尋問に立ち会った後から杏奈の様子はおかしかった。今まで雷斗の交友関係に口を出すことなどなかったのに、雷斗を友人との遊びに送り出そうとしたのも、今こんな話題を口にしたのも、その根本には同じ感情が横たわっているように雷斗は感じる。


 ──アンナには、俺には見えないモノが、たくさん見えてる。


 雷斗には、杏奈が見ている景色と同じ物を見ることはできない。隣に並んで立っていても、杏奈のことを完全には理解してやれない。


 それでも、……それでも隣にいることには変わりはないのだから、せめて杏奈を孤独にはしたくないと思っている。


『それが自分の役目だ』なんて偉そうなことは言えないけれども。


「楽しいぜ? お前の隣にいるの。だからさ、きっと俺の人生は、この先もずっと楽しい」


 いつもよりもずっと人間らしい表情を見せた杏奈の頭を、雷斗はワシワシと撫でてやった。


 体の肉づきが薄くて造りも華奢な杏奈は、雷斗の手に対して頭も小さい。本気で力を込めたら握り潰してしまいそうな気がして、雷斗は時々杏奈に触れるのが怖くなる。


 それでも雷斗が躊躇ためらわずに杏奈に手を伸ばせるのは、こんなに細くて小さな体をしていても杏奈が簡単には壊れないという確信があるからだ。自分がそう確信できるように、杏奈にだって自分のことを信じてもらいたいと雷斗は思っている。


「押し込められたんじゃなくて、俺はお前の隣に堂々と居座れる権利をもぎとってやったんだよ。……結構努力したつもりなんだぜ? これでも」


 その言葉に、杏奈は雷斗の手を両手で取ると弾かれたように顔を跳ね上げた。メガネの下に隠された瞳は限界まで丸く見開かれている。


 その瞳を真っ直ぐに見つめて、雷斗はふんわりと笑ってやった。


「お前が思ってるよりもずっとずっと、俺は自由にお前の隣を謳歌してるよ」

「イト……」


 小さく名前を呼んだまま、杏奈はフツリと黙り込んだ。だが小さく震える唇は、沈黙を選んだわけではなく必死に言葉を探しているのだと分かる。


 雷斗は笑みを深くすると、握られた手ごとウリウリと杏奈の頭を撫でくり回してやった。両手を強制的に動かされた杏奈の体がグラグラと足元から揺れる。


「ちょっ……!!」


 振り回され続けていることが気に食わないのか、杏奈が珍しく声を荒げる。


 だが次の瞬間、ピクリと何かに反応した杏奈がピリッと緊張を身に纏った。


「アンナ? どうし……」


 杏奈の反応に雷斗は首を傾げる。


 そして次の瞬間、雷斗は遅まきながらその理由を理解した。


「随分と仲がよろしいこと」


 涼麗な声音に似つかないトゲ。高飛車な口調がよく似合う傲慢な響き。


 廊下の角に身を潜ませていた人物は、パチリと音を立てて手の中の扇子を畳みながら、優雅に雷斗の前へ姿を現した。


「妬ける以前に、見苦しいですわ」

清白すずしろ姫妃ヒメキ……!?」


 突如雷斗の前に姿を表した生徒会の才媛は、雷斗の声に不機嫌そうに瞳をすがめた。

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