拾壱

 その合図で進み出てきたのは万慶ばんけいだった。


 万慶に場の主導権を渡した玲月れいげつは淑やかな執生しっせいの仮面を再び纏うと何事もなかったかのように己の輿こしまで下がる。


 一方前に進み出た万慶は手にしていた錫杖しゃくじょうを地面に突き立てるとおごそかな表情で口を開いた。


巌源寺がんげんじは、古くより法力僧による研鑽が盛んな寺」


 そんな万慶の言葉に同意するかのように、錫杖の遊環ゆかんがジャラリと不穏な音を上げる。


 その音に万慶は猫が鼠をいたぶるような加虐的な笑みを浮かべた。


肆華衆しかしゅうの裁定者となるべく、華仙かせん始まりの時より御仏に授けられし修法をここに用いん」


 歌うように紡がれる口上に和するかのように周囲に散った僧兵が読経の声を上げる。


 ワンッと唸った空気が錫杖の神音を受けて歪む様が見えるような大音声の読経に、緋蓮は思わず顔をしかめた。不快な響きに緋蓮の中の迦楼羅カルラが反発するかのように力を揺らす。


 ──落ち着いて。波立つな。荒れてもいいことなんてないんだよ……!


 その揺れに緋蓮は歯をくいしばって耐えた。読経の向こうから響く亀覚きかくの絶叫が歪む空気にかき消されていく。


 ──死にたくないなんて、今更言わない。言える立場なんかじゃないって分かってる。


 だが己が死ぬべき時は今ではない。こんな場所で、こんな形では死にたくない。


 だってこんな風に死んでも、誰も報われない。


 緋蓮が報われないのは仕方がない。だが今まで迦楼羅を支え、月天げってんと華仙の繁栄に尽くしてきた亀覚を始めとした一乗院の皆が報われないのあまりに理不尽だ。この世界は理不尽の塊だけれども、それにしたってこんなのはあんまりだ。


 ──だからお願い、私の言うことを聞いて。大人しくしてて……っ!!


 必死にそう言い聞かせたが無駄だった。


 本来ならば華仙と仏の守護獣を讃え、心を落ち着かせる効果があるはずである読経の声が、迦楼羅の精神をことごとく逆立てる。その不快さに耐え切れなくなった迦楼羅が緋蓮の中で暴れ、制御できない炎が髪先から、指先から、衣の先から零れて薪の山の上へ降り注いでいく。


「っ、何が『お帰り頂く法会』よっ! ただ単に迦楼羅を怒らせて力を暴走させているだけじゃないっ!」


 思わず悪態をついた瞬間、燃え移った薪が大きく火を噴いた。恐らく念入りに油が刷り込まれていたのだろう。


 それに怒った迦楼羅がより一層緋蓮の体から炎をまき散らす。だがどれだけ周囲を炎が躍ろうとも、緋蓮を戒める荒縄と柱だけは燃えようとはしない。


 ──肆華衆を宿体から引き離すんじゃなくて、宿体を無理やり壊して帰る場所を失くしてしまうつもりなんだ。


 迦楼羅の炎だけでは緋蓮は死なない。だがその火が燃え移った薪の中に長時間放置されたらただでは済まないだろう。熱には耐えられても空気が薄くなって呼吸ができなくなれば、どのみち緋蓮は死ぬしかない。


 この法を編み出したといういにしえの巌源寺の僧侶は随分いい趣味をしてくれたものだと、煙にむせながら緋蓮は心の中だけで舌打ちを放つ。


 ──処刑されるのと、順当に迦楼羅に喰われて終わるのと、一体どっちがマシだったんだろう。


 暴れる炎と煙で、視界はほとんど役に立たない。薄い空気を求めて息を吸い込んでも、耐えがたい熱が肺腑を焼くばかりだ。


 辛くて、苦しくて、どうして自分はあの時逃げておかなかったんだと、過去の自分を責める声が今更心の奥底から湧き上がってくる。


『足掻け、緋蓮』


「────……っ!!」


 その瞬間、また耳の奥で、あの声がよみがえった。


 緋蓮の心が折れそうになると必ず蘇るその声に、緋蓮はもう一度顔を上げる。


 ──馬鹿。こっちはこんなにつらいのよ、吏善りぜん


 それでも吏善ならば『そんなのは当たり前だ』とスパンッと言い切って、さらに重ねて言うだろう。


『つらいと思えるのは、今を生きているからだ。つらいと思えなくなった時点で、もう足掻ける好機はついえてんだよ』


 だから、つらかろうが、なんだろうが、足掻き続けろ、と。


 緋蓮の従者ならば、容赦なく言ってくるだろうから。


 ──だから……!


 熱に負けてうなれていた顔を上げて、役に立たない瞳をそれでも瞬かせて周囲を見やる。


 もうもうと煙を発しながら燃える炎は美しくなかった。煙さえをも焼き尽くす迦楼羅の炎と違って、そこには人の思惑が絡んだどす黒い感情が見え隠れてしている。


 ──だからまだ、終われない……!


 いつだって緋蓮のことを思ってくれていた人達に恥じないように。優しくしてくれた人達の思いを無駄にしないために。犯してもいない罪を認めるなんて、絶対にしないと決めた。


 その煙を睨み付けて、緋蓮はギリッと奥歯を噛み締めた。そんな緋蓮に呼応するかのように緋蓮の身を包む炎が勢いを増す。迦楼羅の炎にあぶられているはずなのに、やはり緋蓮を戒める荒縄も柱も燃えてはくれない。だが迦楼羅の炎に押されて煙が晴れて、少しだけ呼吸が楽になった。


 ──いっそ、この炎を全部迦楼羅の炎で焼き返したら、私、脱出できないかしら。


 どうせ焼き殺されるなら、他人に殺されるよりもずっとともにあった迦楼羅の炎に焼かれた方がマシではないだろうか。


 そう思うのに緋蓮の耳に届かない読経がまだ続いているのか、緋蓮の呼び声は迦楼羅まで届かない。


 ──やっぱりこのまま死ぬしかないっていうの……っ!?


 煙を押し返していた迦楼羅の炎がふっと弱まる。緋蓮を殺そうとする炎が、一気に緋蓮の身まで迫る。


「よう、死にたがり」


 その瞬間、水を思わせる清涼な声が、緋蓮の頭上へ落ちてきた。


「ちゃんと抗ったようだな」


 リンッと鈴の音を伴って緋蓮を戒める柱の上に降り立った吏善は、間髪入れずに柏手を打ち鳴らして清涼な声音を響かせる。


「祓い給い 清め給う 炎転じて水気と成し 水の恵みを請い給う」


 次いで手の中にある神鈴を連続して振れば、広がった神音が不可視の結界を編み上げる。言霊によって招かれた水気が業火のただ中に凝り、緋蓮と吏善を中心としたわずかな空間が鎮火された。


 急にあふれた水気の多い空気に驚いた緋蓮の喉が狂ったように咳を吐き出す。そんな緋蓮を横目に見ながらヒラリと緋蓮の目の前に降りてきた吏善は、懐から取り出した短刀で緋蓮を戒める荒縄を手早く切り落とした。


「吏善! 良かった、無事だったのね!」

「遅くなって悪かった。一乗院にかくまってもらっていたんだが、仕掛けに手間取った」

「亀覚達はっ!? 無事っ!?」

「正直に言うと分からん。俺は、俺の成すべきことに集中しろと言われてたから」


 苦しさに膝をつきながらも問いかければ、吏善は変わらず明朗な答えを返してくれた。


 小袖袴に大袿を頭から被いた姿は大塔で初めてまみえた時と変わらないが、被いた衣だけが緋蓮が譲った墨染の大袿に変わっている。あの時緋蓮がとっさに力を込めた大袿はいまだに迦楼羅の力を帯びているのか、大袿が翻るたびに火花のような紅の燐光が散った。


「仕掛けってっ!? ここから玲月を救いに行く手立てがまだあるのっ!?」


 苦しさを押して膝を上げると、吏善は静かな瞳を緋蓮に向けた。炎にまかれた今、吏善の瞳は鮮やかな紅に染まっている。


「ここまでのことをされたのに、まだ『助けたい』と思うのか?」


 自分の瞳もこんな色をしているのだろうかと、不意に緋蓮は思った。


「妖と通じた人間が、勝手な理屈を振りかざして、あんたも、あんたの大切な人も傷付けた。殺そうとした。それなのにまだ、心底あいつを『助けたい』なんて思うのか?」


 深く澄んで凪いだ瞳に、炎を映した紅が躍る。緋蓮の真意を見透かそうとするかのように真っ直ぐ据えられた瞳は、色だけではなく緋蓮の心まで吸い込んでいきそうなほど、深く深く凪いでいる。


 金堂で初めてまみえた時からそうだった。


 凶兆と言われ、同じ瞳を持つ玲月がひた隠しにしてきた瞳を、吏善は最初から隠そうとはしなかった。その視線はいつも真っ直ぐで、瞳は深く凪ぎ、真実を偽りなく見つめてきた。


 そんな吏善に出会ったから、緋蓮は最期の最後まで顔を上げていようと思えるようになった。


「……綺麗な瞳ね」


 ポロリと、そんな内心の一端が、唇の端から零れていた。


 場違いな言葉を受け取った吏善は、今までになく大きく目を見開く。


「確かに、私がこんな目に遭ったのは玲月のせいよ。……でもね、私、それでも玲月を救いたい」


 目をみはったまま緋蓮を見つめる吏善を真っ直ぐに見上げて、緋蓮は心の底にあった思いを言霊に乗せた。


「だって玲月は、私を救ってくれたから。たとえ玲月が本心では私をいとっていたのだとしても、私は……」


 ギュッと、熱にあぶられた装束の胸元を握りしめる。


 その上で、さらにその奥にある痛みを、正面から見つめ直す。


「私が飛ばなかった理由の中に、玲月がいるんだもの」


 その痛みは、痛みでありながら幸せなものだった。


 亀覚が自分に向けてくれる熱とも、吏善が自分に向けてくれる熱とも似た熱が、その痛みの中にあるから。


「助けたい理由なんて、それで十分だと思わない?」


 その熱ごと痛みを握りしめて、真正面から吏善を射抜く。


 しばらく緋蓮と対峙していた吏善は、何かを覚ったように瞳を閉じると、呆れたように笑った。


「まったく……。お節介な迦楼羅様だな。だが」


 次に瞳が開いた時、吏善は瞳の奥まで笑っていた。何か吹っ切れたような清々しさとでも言うべきものが、吏善の口元に自信にあふれた笑みを刷かせる。


「それがきっと、『抗う』ってことなんだろうよ」


 リンッと、吏善の手元で鈴の音が弾けた。それに呼応するかのように結界壁が青白い燐光を散らす。ハッと目を瞠る緋蓮の前で、もう一度吏善の指が手の中の鈴を弾いた。


「一度迦楼羅の炎を爆発させて、炎圧でこの火を消し飛ばす。話はそれからだ」

「で、でも……っ! 読経の声が気に入らないのか、迦楼羅が暴れてて力が安定しないのよっ!」


 幾重にも広がる音色が炎にぶつかり、少しずつ炎の勢いが弱くなっていく。


 だがすべてを鎮火させるには程遠い。吏善の言葉の意味は分かるが、緋蓮には今の自分にそれを成し得るだけの力があるとは思えなかった。


「迦楼羅が暴れてんのは、あんたから無理やり引き剥がされそうになったからだ。迦楼羅は迦楼羅なりにあんたのことが気に入ってんだよ」

「そんなこと言われてたって……っ!」

「落ち着いて迦楼羅の声を聴け。俺も手を貸す」


『どうすればいいの』という泣き言を、吏善は緋蓮に許さない。


 その代わりに、涼やかな声は助言をくれた。


「迦楼羅が言うことを聴かないのは、あんたを傷付けようと展開される読経の声を跳ねのけようと暴れているせいだ。あんたが求めれば迦楼羅は必ずあんたに手を貸す。あんたの無実を一番知ってんのは迦楼羅なんだから」


 早口で言い募った吏善は鈴を持たない手を緋蓮の目に被せた。急に視界を奪われた緋蓮は抗議の声を上げかけるが、それを遮るかのように鈴の音が響く。緋蓮にいつも水鏡の上を走る波紋を思わせる澄んだ音がまた、緋蓮の心に静かな波紋を走らせていく。


 ──迦楼羅。


 その音に導かれるように、ストンッと緋蓮の意識は内に落ちた。鈴の音から想起した水鏡の上に自らが降り立つかのように、どことも知れない場所に緋蓮の意識は落ちていく。


 ──ねえ迦楼羅。こんな風に声をかけるのは、思えば初めてかもしれないね。


 自分の足元から広がっていく波紋が、別の場所から広がってきた波紋とぶつかって消える。


 そっと心の目を開いた緋蓮の視界に映ったのは、水面で羽を休める、炎を纏った典雅な大鳥だった。


 ──ねえ迦楼羅。あなたはどうして、私を器に選んだの?


 静かで、優雅な光景だった。


 鳥は確かに炎を纏っているのに、そこに苛烈さは微塵もない。ゆったりと瞳を閉じてまどろむ不死鳥は、どこまでも気品にあふれている。


 その大鳥が、緋蓮の言葉を受けて、ゆっくりと瞼を押し開ける。


 炎のように燃え立つ瞼の下から現れた瞳は、深く澄んだくれない色をしていた。


 ──ねえ迦楼羅。


 その色を緋蓮は、命の色だと思う。


 ──私は、まだこの世界に、存在していても、いいかな?


 命の血潮を固めた瞳が、静かに緋蓮を見据える。


「アアアアアアアアアアアアアッ!!」

「────っ!!」


 そう感じた瞬間、緋蓮は現実世界に引き戻されていた。


 ハッと目を開けばすでに目元から吏善の手は外されている。あれだけ緋蓮をさいなんでいた炎も煙も周囲にはなく、緋蓮と吏善は燃え落ちた薪の残骸の上に立っていた。


「アアァアァァァッ!! ガァァァァァッ!!」

「執生様っ!?」

「どうなされたのですかっ!? 執生様っ!!」


 その向こうで、緋蓮を取り囲むために配備されていた僧兵が戸惑いの声を上げている。


 その中心でもがき苦しんでいるのは玲月だった。胸をかきむしり、頭を振り乱す玲月の口からは、玲月のものとは思えない野太い絶叫が上がっている。カッと見開かれた目からは真っ黒な血が流れ落ちていた。


「……発動したか」


 緋蓮を支えるように後ろに立っていた吏善が小さく呟く。問うように視線を向ければ、吏善は厳しい視線を玲月に据えていた。


「あれだけの妖力、あれだけの数のあやかしと一人の体を核に契約を結ぶなんて、そもそも無茶な話なんだ。それを玲月様は、執生の強大な力と、執生の類稀たぐいまれに大きな器を以ってなし得ていた。だが体に相当な負荷がかかっていたことに違いはない。……いつもと違う負荷が体にかかれば、器は簡単に壊れる」


 吏善が緋蓮に向かって語る間も玲月の絶叫は続いている。最初は玲月の声だけだった絶叫は、やがて薄く瘴気を纏うようになっていった。周囲の野次馬が異変に気付いた時には、法力僧達がどよめくほどどす黒い瘴気が玲月を取り巻いている。


「亀覚様に教えていただいて、月天の境界に据えられた法具を探し出した。結界の展開を補助している法具だ。それにほんの少し、結界展開に影響がない程度の細工をして、肆華衆にかかる負荷をわずかに変えた」


 肆華衆である緋蓮さえ知らない話に、緋蓮は思わず吏善を振り返った。


「そんな芸当ができたのっ!?」

春紅しゅんこう様の御霊みたまを解放したくて、月天の結界のことは色々と調べ回ったからな」


 大変なことをさも簡単であるかのように語った吏善は、鈴を持った手を体の前で構えた。


 今や玲月が纏う瘴気は人から吐き出されたモノとは思えない濃度になっている。玲月を取り押さえようとしていた万慶が逆に瘴気にあてられて膝をつく様がこの距離からでも見えた。


 ボコリ、ボコリと玲月の体から零れ落ちた瘴気が変形を始める。


 ドロリとこごった闇から生れ落ちようとしているのは、人よりもはるかに大きな異形の妖だった。


「身に納めた妖を放出する現場を衆目にさらしてしまえば、もう言い訳はできない。あっちが妖に通じていることさえ証明できれば、濡れ衣を晴らすことはできる。そう思ったんだ」

「……そう、ね」


 緋蓮の冤罪を晴らすということは、裏を返せば玲月の罪を暴くということ。


 どのみちこの事件が終わった後、緋蓮と玲月が同じ肆華衆として並び立つことは二度とない。


 ──それでも。


 その痛みに歯を噛み締めながらも、緋蓮は背筋を正すと両腕を左右へ振り抜いた。袂の長い袖を彩るかのように広がった炎を従えた緋蓮は、神鈴を構える吏善とともに玲月に凝る闇を見据える。


 ──それでも私は、この道を行くと決めた。


 その瞬間、玲月という器から漏れ出た妖が吏善と緋蓮に視線を据えた。


 緋蓮は覚悟とともに腹の底から声を張る。


「祓うわよ、吏善っ!」

「承知っ!」


 バッと振り抜いた腕の軌跡を追うように迦楼羅の炎が走る。妖はそれを腕で撥ね退けると空に向かって咆哮を上げた。音の刃と化した咆哮をリンッと打ち鳴らされた鈴が相殺する。


「玲月を離しなさいっ! この犬っころがっ!」


 大きく腕を振り抜いて炎弾を連続して放ちながら緋蓮は薪の上から飛び降りた。


 妖に恐れをなしたのか、隊列を組んでいたはずである巌源寺派の僧兵達は方々に逃げ出している。唯一その場に残った万慶だけが必死に術を組んで妖に対抗してようとしていた。


「どけっ、万慶! ここは我らに任せ、徒人ただびとを救うために術を使え!」


 その傍らをすり抜けた緋蓮は纏う炎の火力を上げながら瘴気の渦の中に飛び込んだ。後を追う吏善が鈴と柏手と言霊を駆使して瘴気を散らしているのが分かる。


「だぁぁぁぁらぁぁぁぁぁああああっ!!」


 その音色に負けじと緋蓮は炎を振るった。意識しなくても炎は縦横無尽に瘴気を追っていく。その様は迦楼羅が吏善の響術と戯れているかのようだ。


「っ!? 緋蓮っ!」


 ギャンッと犬の鳴き声のような声が響いたのは、まさしく緋蓮がそのことを思った瞬間だった。


 浄化の炎が瘴気を喰い付くし、吏善の響術がついに妖本体を捕らえる。


 瘴気というみのを剥がされた妖は、狼と鳥を継ぎ合わせたような姿をしていた。上半身だけが狼のものもいれば、全体が鳥で足先だけが獣のように変じたものもいる。どれもいびつに生物を接いだような形で同じ姿がなく、どれもみな一様に醜悪だった。


「……吏善」


 その光景に、緋蓮は思わず呆然と吏善の名を呼んでいた。


 そんな緋蓮の声に吏善は舌打ちで応える。


「まさか一群飼ってたとはな……っ!」


 吏善は鈴を納めると代わりに短刀を抜いた。それを見た緋蓮もより一層神経を張り詰めて妖の一群を見据える。


「ひ……れ、ん」


 その瞬間、より研ぎ澄まされた聴覚が、微かな声を拾った。


 この声を、緋蓮が聞き間違えるはずがない。


「っ……、玲月っ!!」

「緋蓮……? いる、の……? 何も、見えな……」


 声の方へ首を巡らせれば、先頭に立つ妖の足元に玲月が倒れ伏していた。器として壊れた玲月は同時に妖の主たる権利も失ったのか、群れの先頭に立つ妖は鳥の鉤爪のような足先で玲月の体を踏みつけている。


 妖力を体に満たすことで補っていた視力を失ったのか、妖に命を削られて死期が近付いているのか、あおむけに倒れた玲月はうつろな瞳を空へ向けていた。


「っ!! 吏善っ!! 援護してっ!!」

「緋蓮っ!?」


 その姿を視界に納めた瞬間、緋蓮の体は弾かれたように動いていた。


「玲月を離せぇぇぇぇえええええっ!!」


 緋蓮の纏う炎が火力を上げ、腕を振り抜くと同時に妖へ飛びかかる。


 一瞬で上半身を失った妖がグラリと体を傾ける隙を見逃さず玲月の体を引き起こした緋蓮は、間髪入れずに玲月の体を迦楼羅の炎で覆った。遅れて仲間の惨状に気付いた群れが緋蓮を狩ろうと飛びかかるが、緋蓮の前に滑り込んだ吏善が展開した結界にすべてが跳ね返される。


「あんまり長くはもたねぇぞ! ここでモタモタしてっと標的を他に変えかねねぇ!」

「分かってる!」


 玲月の体に大きな外傷がないことを確かめた緋蓮は、奥の院で法力僧にしたように迦楼羅の炎を玲月に呑ませようとする。だが抱え起こした玲月は炎を呑み込むよりも早くゴポリと漆黒の液体を吐いた。それが体内で凝り続けた瘴気と吐血が絡まりあった物だと気付いた緋蓮は思わず体を硬直させる。


「ひ、れ……ひれ、ん、なの……? 何も、何も、聴こえ……な……」

「玲月……」


 体が中からただれるほどの瘴気を受け続けてきた玲月は、もうとうの昔に執生たる資格を失っていたのだろう。


 執生として心の声を聴く力を失った玲月は、震える手を緋蓮の頬に向かって伸ばした。吐き出す瘴気に触れたのか、その指先もドロリとした黒い液体に濡れている。


 その指先を見つめた緋蓮は、玲月の腕が自分に届くよりも先に、スルリと玲月へ向かって体をかがめた。


 かがめて、瘴気に白髪と墨染の衣を汚した玲月を、全身で抱きしめた。


「……玲月、分かる?」


 体中が玲月の吐き出したどす黒い液体にまみれることも厭わず玲月の首筋に顔をうずめると、いつも玲月が纏っていた香の匂いがした。


 いかにも良家の子女が纏っていそうな香りが、緋蓮にはいつだって羨ましくて。


 同時にこの匂いを嗅げばいつだって『ああ、玲月の香りだな』と、安心することもできた。


 そんな香りを、玲月は今も、纏っていた。


「見えなくても、聴こえなくても。……私は、ここにいるよ」


 顔を玲月の首筋に埋めてしまっているから、緋蓮の言葉に玲月がどんな表情を浮かべたのかは分からない。


 ただ、温かい雫が、緋蓮の髪に当たって跳ねたような気がした。


「緋蓮!」


 その向こうで不協和音が響いた。ゆっくりと顔を上げれば、鈴が展開する結界が妖の鉤爪に破られようとしている。


「これ以上は限界だ! 結界を解いて迎え撃つ!」


 その言葉に、緋蓮は玲月に回していた腕を解いた。迦楼羅の守りの炎は纏わせたまま、そっと玲月の頭を撫で、地面に玲月の体を横たえる。


「私、行ってくるね、玲月」


 後ろを振り返ることは、あえてしなかった。


 吏善の隣に並んだ瞬間、鈴の結界は破られる。


「おぉぉりゃぁぁあああっ!!」


 亀覚に聞かれていたら『品がない』と怒られそうな気合とともに、全力の炎を叩きつける。


 ブワリと燃え上がった迦楼羅の炎は、妖の瘴気とぶつかり合うと拮抗した。


「照り映え給えっ!! 終わりの闇を祓い、始まりの光をここに請うっ!!」


 短刀に言霊を込めた吏善が援護に加わるが、それでも拮抗状態を脱することはできない。


 奥歯を噛み締めた緋蓮はかざした手に全力を込めるが、炎が徐々に妖に喰われているのが分かる。


 ──強い……!


「───っ!!」


 力負けした足が、地面をえぐりながらジリッと下がったのが分かった。


 それを理解していながらも、緋蓮には成せるすべがない。


 ──どうすれば……っ!!


 焦りに一瞬、均衡が崩れる。


 だが次の瞬間、ふっと緋蓮にかかる圧が消えた。


「え……」


 ほうけた声とともに頭を上げると、炎ごと妖が切断されていたのが見えた。よほど鋭く切られたのか、斜めに切り上げられた妖はそのままの態勢で切断面からズルズルと滑り落ちていく。


「わたくしの……妹分に……」


 微かな喘鳴とともに、声が聞こえたような気がした。


「妖ごときが、手を、出すな……っ!!」


 背後を振り返ると、上半身を片腕で支えて体を起こした玲月が腕を振り抜いた態勢でこちらを見ていた。そんな玲月を称えるかのように、風の余韻が玲月の白髪をさらっていく。


「……玲月」


 思わず名を呼んだ瞬間、一瞬だけ玲月の顔に笑みが翻ったような気がした。


「風は火を産む伊吹の恵みっ!! 招きに乗って舞えっ!!」


 一瞬破られた均衡を、吏善は見逃さない。


 鋭く紡がれた言霊が妖に追い打ちをかける。その声に我に返った緋蓮も意識を集中させると炎を練る。


 玲月が起こした風刃の残り香を吸い込んだ炎は瞬く間に燃え広がると周囲を取り囲んだ。赤から青へ、そして純粋な光へ姿を変えた迦楼羅の炎は、悪しきモノ全てを呑み込むと穢れを天上の光へ変えていく。


 ──執生の風に、迦楼羅の炎が舞ったんだ。


 断末魔の絶叫さえ呑み込んだ炎は、全てを焼き尽くすと静かに散っていった。小さな燐光になった炎は、青空に吸い込まれるかのように天へ昇っていく。


 その様を緋蓮は、魂を抜かれたように見つめていた。




  ※  ※  ※




「……ねぇ、吏善」


 周囲を注意深く見回していた吏善は、緋蓮の呆けた声を受けて視線を引き戻した。


 ボロボロになった迦楼羅の装束をさらに土埃で汚した少女は、天を見上げたまま独白のような言葉をこぼす。


「きっと昔の人間も、この光景を見たことがあるんでしょうね」


 抜けるように青い空に向かって、全てを呑み込んだ迦楼羅の炎が燐光となって消えていく。


 フワリ、フワリと蛍が舞うようなその様は、空が罪も穢れも纏めて全てを吸い込んでいくかのようにも見えた。


 そんなそらを、緋蓮は一心に見上げていた。


 その姿に威厳も何もあったものじゃない。幽閉されている間、ろくに飲み食いを許されていなかったのだろう。装束のみならず、本人までもがボロボロの状態だった。こんなに酷い扱いをされた迦楼羅も、こんなに酷い姿で人前に立つことになった迦楼羅も、歴代のどこにもいないに違いない。


「だから、人の御霊みたまは、空へ還ると思ったんでしょうね」


 それなのに、なぜだろうか。


 吏善の目には、これ以上迦楼羅らしい迦楼羅はいないと、その姿が酷く鮮明に焼き付いた。


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