伍
あるいはその何かは、
ザワリと
例えるならばそれは、器のギリギリまで水を張ったまま大きく器をゆすった時のような。
そんな大きな揺らぎが、枯れていた緋蓮の心を襲う。
「……吏善、そんなことを言ってくるって、あなた……」
何かを確信しているような瞳に、赤い色が舞う。血のような、炎のようなその色は、緋蓮を染め上げる
「あなた、一体何を……」
知っているの、と続けたかった声は、音にはならなかった。
「──っ!?」
ザワリと背筋を悪寒が撫でる。
体中が粟立った後に残ったのは、氷を押し付けられたかのような冷気だった。思わず顔を跳ね上げて周囲を見回すと、吏善も緋蓮の視線の先を追うかのように顔を跳ね上げる。
「っ……行くわよ、吏善っ!」
緋蓮はその気配の方向を割り出すと吏善を押しのけて走り始めた。緋蓮が感じ取ったものを吏善も感じたのか、吏善もすぐさま緋蓮の後を追ってくる。
──どうして
この気配の正体を、緋蓮は知っている。
最後にこの気配に触れたのは数年前。華仙上層部に請われて討伐任務に協力した時だった。
──法力僧達は何をしているのっ!? 結界はっ!? 周囲の人間達は大丈夫なわけっ!?
目抜き通りを町の奥に向かって駆ける。
月天の町は山上の僅かな平地に築かれていて、四方周囲はすべて急峻な山肌だ。町の奥地の山裾は華仙の仏が最後に説法を行った場所とされていて、選ばれた高僧のみが立ち入ることを許される浄域とされている。
緋蓮が感じ取った妖気は、よりにもよってその方向から漂っていた。
「……っ、何でなのよ……っ!」
浄域の境界の手前には奥の院と呼ばれる堂が建てられていて、
緋蓮はチラリと背後に視線を飛ばすと吏善を見た。緋蓮と同じ気配を感じ取っているのか、青ざめた吏善は必死に緋蓮の後を追ってくる。
そんな状況にありながらも緋蓮の視線を敏感に感じ取ったのか、吏善は緋蓮に視線を合わせると指で何事かを示した。それが華仙の法要の時に使われる手信号の一部だと気付いた緋蓮は、吏善と並走できる場所まで足を緩めると必死に吏善の手元に目を凝らす。
「御仏……前に……集う…たくさん……? 妖が複数いるってこと? 場所は……、前、が示してるのよね? でも一体どこの前って言うのよ!?」
吏善はもどかしそうに手を動かし続けたが、伝わらないと分かるとグンと足を速めた。伝わらないならば自分が先導すればいいと考えたのだろう。
──え、でも、待って。どうして吏善に先導ができるの?
月天の中の地理が分かっていなくても、気配を詳細に捉えていれば案内ができるのはまだ分かる。問題はその『詳細に捉えることができる』という方だ。
──吏善に法力はないはず。
いくつもの疑問が緋蓮の中を駆け抜ける。
だがそれをぶつけている暇は今の緋蓮にはない。
そして疑問そのものも、奥の院の前庭に駆け込んだ時には消し飛んでいた。
「っ……!」
奥の院と外地の境界になっている橋を渡った瞬間、目に見えて空気の質が変わった。雲がかかったわけでもないのに日差しが陰り、ねっとりした空気が緋蓮達を包む。
──奥の院の浄域を区分けする小川が、良くも悪くもこの妖気を押し留めてるんだ……っ!
妖気の本流は緋蓮が予想していたよりもはるかに強い。それを覚った緋蓮は被いていた衣をはぎ取ると無理やり吏善の頭に被せた。
「吏善! 私の持ち物は長く迦楼羅の傍にあるせいで多少の霊力を帯びてるの。多少この妖気を避けれるはずだから被っていて!」
迦楼羅を身に宿している緋蓮はある意味人ではない。この瘴気の中に放り出されてもそう簡単に倒れることはないが、吏善は法力も持たない徒人だ。
声を発することもできない吏善は、視界の悪い中で身に異変が出てもとっさに緋蓮にそれを伝えることができない。法具を持ち歩かない緋蓮が吏善にしてやれることはこれくらいしかないが、それでも何もしないよりはマシなはずだ。
衣を被せた吏善を庇うように前に出ながら、緋蓮は試しに迦楼羅の炎を纏わせた腕を振り抜いてみた。
バッと一瞬燃え上がった炎は周囲の瘴気を焼き払うが、長続きすることなく瘴気に喰われて散ってしまう。
「っ、何なの、この瘴気の濃さは……っ!」
試し撃ちとはいえ、迦楼羅の浄化の炎は強力だ。並の
「──っ!」
これは闇雲に入り込むよりも、退路が確保されている間に一度ここを出て、
とっさにそう考えた緋蓮は越えてきたばかりの橋を振り返る。だがそんな緋蓮の傍らをすり抜けて吏善が何かに駆け寄る方が早かった。
「吏善っ!?」
慌てて吏善を振り返ると、地面に片膝をついた吏善が何かを抱き起していた。暗い地面に同化して分からなかったが、どうやら人が倒れていたらしい。
「っ!? ちょっと! しっかりしなさいっ!」
吏善が助け起こしたのは、吏善よりも少し年かさに見える僧侶だった。実用的に丈を詰めた法衣から察するに、この男は法力僧だろう。ぐったりと力がなく顔色も悪いが、口元に手をかざすと微かな呼気を感じる。瘴気にあてられて気を失っているが、まだ命に別状はないはずだ。
「一体何があったって言うのよ……っ! こんな場所で討伐任務もないでしょうにっ!」
男の傍らに膝をついた緋蓮は手のひらの上に炎を灯すとそれを無理やり男の口の中に押し込んだ。一度迦楼羅の炎を飲み込んだ男は、しばらくするとむせ返るように炎を吐き出す。男の中に入り込んでいた瘴気を吸ってどす黒くなって出てきた炎を踏みにじって消すと、緋蓮は間髪入れずに手に灯した炎を男の体に滑らせた。
「吏善、一度撤退しましょ。いくら法力僧でも意識のない状態でこんな中に放り出されたら長くはもたないわ」
男の体に染み着いた瘴気を浄化しながら、ついでに吏善に渡した衣にも力を込める。ポゥッと淡く発光する衣を見た吏善が一瞬大きく目を見開いた。
「一度引いて、一乗院に……ううん、この際ここから一番近い寺でいいわ。助勢を頼んで、引き返してきましょ。いくら私がいても、こんな状況じゃ……」
一瞬、大きく視界が揺れた。
次いで襲ったのは突き抜けるような痛みと、体中を振り回す浮遊感。数瞬遅れて最後に衝撃が体を揺さぶっていく。
「緋蓮……っ!!」
どこか遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、その気配も渦巻く漆黒の向こうにかき消されてしまう。
「っ、ぅ……!」
体を丸めて痛みをやり過ごし、そろりと顔を上げる。
周囲に見えたのは、石畳だった。奥の院の堂へ続く参道の石畳だということは分かったが、それ以外は濃く凝った瘴気に遮られて何も見ることができない。吏善の姿も、助けた僧侶の姿も、どこにも見ることはできなかった。
「……っ、早く、二人を見つけなきゃ……っ!」
瘴気を隠れ蓑に使った妖に引き離されたのだと気付いた緋蓮は、一度深呼吸をして心の奥底に意識を集中させた。
いつも意識の底で
「……悪いけど、緊急事態なの」
迦楼羅の炎は、浄化云々を抜きにして単純に火種として見ても強力な代物だ。いっそ凶悪とさえ言ってもいい。
緋蓮がここで闇雲に力を振るえば奥の院に少なからず被害が出るだろうし、迦楼羅の力の余波は町の徒人にも間違いなく伝わってしまう。人々は動揺するだろうし、亀覚の元には説明を求める声が寄せられるかもしれない。
だが今は、そのどれもが些事だ。
「形振り構わず行かせてもらうわっ!!」
宣言と同時に両腕を振り抜く。鳥が羽ばたくかのようにうねった炎は周囲の瘴気を焼きながらその面積を増やしていく。
──本当は本体を狩れればいいんだろうけど、私一人が闇雲に力を振るったところで太刀打ちできるとは思えない。
確かに迦楼羅の力は法術に比べればはるかに強力だが、ただ力が大きいだけで効率的とは言えない。
いわば緋蓮の退魔は強大な力を振り回してそれで妖を殴りつけているだけに過ぎないのだ。各個が強大な力を宿しているにもかかわらず
──退路を確保して、吏善と合流。一度この場を離れて……
これから成すべきことに順序を立てる。同時に入口はどちらかと首を巡らせた瞬間、どこかで重たい何かが勢いよく動いたのが分かった。
「っ!?」
直感に従って右肩を引いた緋蓮のすぐ傍を鉤爪のような物が通り過ぎていく。その軌道にあった炎がごっそり何かに喰われていった。その何かが撒き散らしていく瘴気が容赦なく緋蓮の身を叩いていく。
「っ!!」
「あーあー、今の一発でやられていてくれたら、あんたも楽に死ねたのに」
鋭い瘴気の刃に触れた素肌が裂けて血がにじむ。
歯を食いしばってその衝撃に耐えた瞬間、闇の向こうから石畳を草履で踏みしめる音が聞こえてきた。ハッと顔を上げた緋蓮に応えるかのように、瘴気の闇の向こうから姿を現したモノはニィッと陰湿な笑みを浮かべる。
その顔に見覚えがあった緋蓮は思わずヒュッと息を吸い込んだ。
「お前は……っ!?」
「さっきは世話になっちまったなぁ、迦楼羅様よぉ?」
吏善に助け起こされ力なく倒れ伏していたはずである法力僧は、コキコキと首を鳴らしながら緋蓮の前に立った。
「まさか部外者に気付かれるなんてなぁ。……しかし、あんたが底抜けのお人好しで助かったぜ。倒れたフリしてやり過ごそうと思ったら、力まで使って助けようとしてくれるなんてなぁ。おかげでいつになく体が軽いのなんのって」
「……お前がこの妖の飼い主か。
動揺を完全に消すことはできなかった。だが迦楼羅として叩き込まれた威厳は何とか体裁を取り繕ってくれる。
男にこれ以上間合いを詰められないように視線で牽制しながら、緋蓮は低い声で問いを発した。そんな緋蓮に何を思ったのか、男は場違いなほど盛大な高笑いを響かせる。
「何がおかしいっ!?」
「ははっ! 俺がこいつらの飼い主? んなバカな!」
緋蓮が鋭く声を発しても男は決して怯まなかった。それどころか男の顔を彩る陰湿な笑みは深くなっていく。
「俺にこんな大したことを成す技量なんてありはしねぇよ。せいぜい見張り番ってところが関の山さ。そんなことも分からねぇなんて、やっぱチャチな迦楼羅だよなぁ、あんたはよぉ」
弱った演技をしていた時は巧妙にどこかに隠されていたのだろう錫杖は、鋭く空を切ると先端を緋蓮の前で鈍く光らせた。本来は清浄な
「だから従者もあんな
「っ……お前、吏善をどうしたっ!?」
そうだ。吏善はこの男と一緒に瘴気の中に取り残されたのだ。
そしてこの男は一人で緋蓮の前に姿を現した。本性を露わにしたこの男が吏善をただ瘴気の中に放置してきただけだとは思えない。
必至に取り繕っていた平静は簡単に剥がれ落ちる。
不安に突き動かされて一歩前に出た緋蓮に、男は先程と変わらない嘲笑を向けた。そんな男に追従するかのように錫杖が動いてもいないくせにジャラリジャラリと音を立てる。
「今頃こいつらの餌になってんだろうよ。あいつらみたいになぁ」
「っ……!!」
「あいつらだって、騒ぎ立てずに静かにしてりゃあ良かったんだよ。俺だってさすがに同じ釜の飯を食った同朋を手にかけるのは心が痛んだんだからよぉ」
……その言葉に、胸に渦巻いていた何もかもがストンとどこかへ消えていった。
世界から、音が消えた。
ここまで心が静まり返ったのは、一体いつぶりなのだろうか。
自分が迦楼羅を継承した時か、はたまた迦楼羅になる者の運命を知った時なのか。
「さて、あんたもここで消えてもらおうか。俺の役割を知られちまった以上は、ここから生かして帰すわけにはいかねぇんでな」
男は相変わらず悪役の常套句のような言葉を口にしていた。
だがその言葉の何もかもが、今は緋蓮の耳をすり抜けていく。
「大丈夫さ。あいつらが喰いやすいように、先に俺があんたの命を刈り取ってやるからよぉ。あんたは他のやつらよりも楽に逝けるぜ?」
心が静まり返ると同時に、緋蓮の体から燃え上がっていた炎は鳴りを潜めていた。それを何と解釈したのか、男は笑みを浮かべたまま緋蓮の喉元へ錫杖の先端を突き入れる。
「……あ?」
十分な勢いを乗せた錫杖は、そのまま緋蓮の喉を突き破るはずだった。
だがその先端はパシリと華奢な手に受け止められる。それでも勢いに押されて小さな体は吹き飛ぶはずだったが、錫杖の勢いは止まらないのに緋蓮の体は寸も下がろうとはしない。
「…………ん、たは…」
まるで緋蓮の手に錫杖が吸い込まれているかのような光景に男が目を
「あんたは……」
ヒヤリとした殺気を、恐らく男も感じたのだろう。
見開かれた男の瞳の中に緋蓮が映り込んでいた。その中にいる緋蓮は、燃え上がるような髪の隙間から溶岩が煮え立つような緋色の瞳で男を睨み付けている。
男はヒュッと最後の息を呑んだまま、震えることさえできずに固まった。
「あんたは、絶対に許さない」
男の呼吸を奪ったのは、殺気だったのか、はたまた至近距離で起こった爆発による炎風だったのか。
「あんたの存在ごと、全部焼き払ってやる……っ!!」
緋蓮が手を払うと同時に溶け落ちた錫杖の先が周囲へ散らばる。衝撃に男の体が下がるのと炎を爆発させた緋蓮が男の懐に飛び込むのはほぼ同時。緋蓮が男の頭に向かって手を伸ばした時には、既に緋蓮の体を包む炎が男に燃え移っている。
「ギャァァァァァアアアアアアアアッ!!」
生身のまま焼かれる痛みと恐怖に男が汚い声で悲鳴を上げる。緋蓮の手が男の頭に届いた時には男の体の大部分が燃え落ちて灰になっていた。怒りに
その様を見て、怒りにすべてを支配されていた緋蓮の中に微かに理性が戻った。
──止めなきゃ。止まらなきゃ。このままじゃいけない。奥の院が燃えてしまう。
絶叫も存在も、全てを無に帰した炎は次なる獲物を求めて四方八方へ伸びていく。その勢いを恐れたのか瘴気の主達がどこかへ引いていくのが分かった。
ひとまず、危難は去った。もう自分が迦楼羅の業火を振るう必要性はない。
そのことは頭のどこかで理解しているはずなのに、迦楼羅の炎を押さえることができない。このままでは奥の院そのものが燃えてしまうと分かっているのに、久しぶりに解放された迦楼羅は自由を謳歌するかのように緋蓮から漏れ出して帰ってくる素振りを見せてくれない。
──どうしよう、どうすればいいのっ!? 迦楼羅が言うこと聞いてくれない……! 怖い、怖い……っ!
制御できない力に、緋蓮の心に取り残されたただの少女が悲鳴を上げる。その声を嘲るかのように、緋蓮の周囲を躍る炎はより一層火力を上げた。
薄くなっていく空気に緋蓮は思わず膝を落とす。自分の体をかき抱いた腕は、頭を守るかのようにゆっくり上へ滑っていく。
その途中で指先が口元に触れた瞬間、緋蓮はビクリと動きを止めた。
──笑って、る?
口の端をかすった指先を、改めて唇の上に乗せる。震える指を端まで滑らせれば、自分の口角がキュッとつり上がっているのが分かった。
制御できない炎にまかれて、恐怖で心を引き千切られそうになっている中、緋蓮は確かに
──何で私、笑ってるの。何でこんな時に。何で、なんでなんでなんで……っ!
ガクガクと体が震える。
振り切れた心はもはや何も考えられない。そんな緋蓮を飲み込むかのように纏わり付く炎が
「緋蓮っ!!」
それなのに、その声は、緋蓮の心に届いた。
山門の結界が崩れ去ったあの時と、同じように。
「落ち着け、緋蓮。大丈夫……大丈夫だから……」
恐怖に、炎に焼き尽くされそうだった心が戻ってくる。次に感じたのは、全身を包む温もりだった。誰かが縮こまった緋蓮の体をすっぽり抱き包んでくれている。
「祓い給ひ 清め給へ 黄泉の澱みを吹き返し 橘の生気を満たせ賜う」
炎に焼き尽くされて涙さえ枯れた瞳に映ったのは、微かに光を纏う墨染の衣だった。炎に煽られて大きく翻る衣と遊ぶように、清涼な響きを持つ言霊が、独特の揺らぎとともに広がっていく。
「澱みは
──響術師の言霊って、まるで水みたいだ。
その揺らぎが、迦楼羅の炎も広がる瘴気もまとめて祓っていくのを感じながら、緋蓮はゆったりと目を閉じた。
荒れ狂っていた炎は心地良い言霊にあやされて緋蓮の心に温もりとなって帰ってきていた。あれだけ荒れ狂っていた迦楼羅が、捧げられる
──凪いだ水鏡に一滴雫を落とした時のように。静かに波紋が広がっていくのに、似てる。
「修祓」
パンッと最後に響いた柏手が、全てを押し流して清涼な風を連れてくる。
それを感じ取りながら、緋蓮は意識を手放していた。
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