翌朝の朝課は中止となった。金堂の天井が破れたままになっていることよりも、事件が起きた直後の穢れが残る金堂で朝課を執り行うことなどできない、ということの方が主な理由であるらしい。


 徹底的に掃除された金堂はもはや天井の損傷以外に事件の痕跡を残していないはずだが、それでも華仙かせんの上層部は今日一日かけて徹底的に修祓を行うのだそうだ。


 ──そんなことに精を出す前に、己の心の穢れを祓った方がよっぽど効果があるんじゃない?


 窓枠に腰掛けて月天げってんの町並みを眺めていた緋蓮ひれんは、己の心の内をぎった皮肉に思わず口元を歪める。


 ──まぁ、朝課がなくなったこと自体は、面倒が減って良かったんだけども……


 そんなことを考えた瞬間、コツコツと微かに扉が叩かれる音が聞こえてきた。何の気なしに顔を上げた緋蓮は、そこにいる人物に気付いて思わず目を丸くする。


『おはようございます』


 そこに立っていたのは吏善りぜんだった。朝の空気に溶け込むようにして控えている吏善は、相変わらず目を離した瞬間、朝日が生み出す淡い影の中に溶けて消えていきそうなくらいに気配がない。


「……本当に飛天楼ひてんろう迦楼羅カルラ付になったんだ」


 そんな吏善の姿に、緋蓮は思わずポロリと素直な驚愕を口にしていた。


 飛天楼は肆華衆しかしゅうの居室がある尖塔をようする建物だ。そのために人の出入りは厳しく監視されており、出入りを許される人間自体もごく限られている。その人選は大変厳しいものだと緋蓮は耳にしていた。特に当代は肆華衆二人が揃って年若い娘であることもあり、男、さらに言えば青年から壮年と呼ばれる年代の男はほぼ立入禁止に近い扱いを受けているとさえ聞いたことがある。


 だというのにどう話を付けてきたのか、吏善の腰には正式に出入りを許された飛天楼迦楼羅付の傍仕えであることを示す紅玉の佩玉が下げられていた。吏善が纏う衣が深藍の小袖と狩袴から変わっていないこともあり、華やかな佩玉はやたらと吏善から浮いて見える。


 その佩玉を揺らしながら、吏善は緋蓮の言葉に一礼した。緋蓮の言葉を肯定したのか、労を取ってくれた亀覚きかくへ感謝の念を示したのかは分からない。


 ──まぁ、どっちでもいっか。


 自分の知らない所で張り巡らされる権謀術数の影に気付かない振りをして、緋蓮は先程まで考えていたことに意識を引き戻した。


「吏善、外へ出たいんだけど、穏便に飛天楼の外へ出られそうな、何かもっともらしい理由ってないかしら?」


 事件の真相を探るためにも、一度改めて現場は見ておきたい。できれば身軽に月天の中を思うがままに調査したいのだが、迦楼羅である緋蓮はそうそう簡単に外出そとでを許してはもらえない。お忍びなどもってのほかだ。


 理由の説明もなく外出を求めた緋蓮に、吏善は訳を問うこともなくひとつ頷いた。小脇に抱えられていた帳面がクルリと緋蓮へ向けられる。


『月天内の穢れの有無を確かめるために、迦楼羅様がお出かけになる。その旨をしたためた亀覚様のふみを持参いたしました』

「ありがとう、流石ね。亀覚の入れ知恵?」


 思わず人が悪い笑みが浮かんでしまった。そんな緋蓮に吏善がまた頷いて答える。


 緋蓮がどう動きたがるかなど、亀覚にはお見通しなのだろう。その上で亀覚と吏善は緋蓮が外へ出るためのお膳立てをしてきてくれたらしい。


「じゃあ吏善はその文を飛天楼支配人の南戒なんかいに渡して、私が外出することを伝えてきてもらえる? 私はその間に出かける支度をするから」


 腰掛けていた窓枠から床へ降りながら緋蓮は吏善に指示を出す。頷いて緋蓮の言葉に答えた吏善は、さらに一礼すると無駄のない動きで身を翻した。


「……あ、吏善! そういえば吏善って南戒に会ったことって……」


 数拍置いてからふと『そういえば吏善って南戒の顔分かるのかな?』と思い立った緋蓮が慌てて振り返った時には、すでに吏善の姿はどこにもなかった。部屋の外まで顔を出して周囲を見回してみても、影も形もないどころか足音や気配まで一切何も感じられない。


 ──え、まだその辺りにいてもおかしくないはずじゃない?


 まさか自分は先程まで幻でも見ていたのだろうか。思わずそんなことを考えて軽く己の頬を摘んでみるが、頬に走る痛みは己が正常であることを教えてくれた。


 ──……まぁ、それくらい確信を持って歩き去ったってことなら、多分大丈夫……だよね?


 何せ亀覚をして『図抜けて優秀』と言わしめさせた才人であり、何か思惑があって一乗院いちじょういんに迎え入れられた人物だ。緋蓮が一々事細かに説明しなくてもこれくらいのことは軽々とこなせるものなのかもしれない。もしかしたらあらかじめ亀覚が入れ知恵をしてくれている可能性だってある。


 疑問に結論をぶつけて思考を切り替えた緋蓮は、部屋の中央に立つと今日もキッチリと着付けられた己の装束に手をかけた。無駄に複雑に結ばれた紐を手早く緩め、豪奢な装束を豪快に脱ぎ捨てていく。


「まったくもう……! 着なきゃいけない衣の枚数が多すぎるんだってばっ!」


 迦楼羅に限らず肆華衆の装束は皆そうなのだが、とにかく着なくてはならない衣の枚数が多くて仕方がない。さらに袖も裾も長いときているから、毎日重苦しいことこの上なかった。間違ってもお忍び調査に向いた服装ではない。


 ──格式の高さを示すためとかそういう理由の他にも、山上にある月天は気候が寒くて厳しいから、その対策……というか、衣をたくさん重ねられるのは最上の贅沢って意味もあるんだっけ?


 着物の上に括り付けて飾る袖衣そでごろもを外し、重ねたうちぎを脱ぎ捨て、中着として纏っていた袖のない腰切姿になる。剥き出しのすね脚絆きゃはんを巻き、あとは飛天楼の玄関口に預けてある履物を受け取れば緋蓮のお忍び姿は完成だ。ふたつに分けて高い位置で結い上げた髪型は変えられないが、髪飾りとして結紐に結わえ付けられている豪奢な飾りは外して放り投げておく。


 余計な物をすべて取っ払ってしまうと、随分と体が軽くなったような気がした。


「あとはこの目立つ赤い衣と髪を隠すために、地味な色の大袿おおうちぎでも被れば……」


 そんなことを呟きながら、女官達に見咎められないように脱ぎ捨てた衣装達を片付けていると、背後でガタタッと何かを踏み外すような音が聞こえた。何事かと振り返れば、いつの間にか吏善が戻ってきている。


「あ、吏善。堅物の南戒はちゃんと首を縦に振ってくれた?」


 目を丸くみはる吏善を振り返り、緋蓮は探し当てた墨染の大袿を頭から被る。


 そんな緋蓮を前にして我に返ったのか、吏善は懐から矢立を取り出すと帳面に猛然と筆を走らせた。


『格好!』

「え? 身軽でいいでしょ?」

『露出! 出しすぎ!!』


 バッと突き付けられた帳面に、今度は緋蓮がキョトンと目を丸くする番だった。


「膝と腕は出てるかもしれないけど……。いやでも私、一乗院いちじょういんにいた頃はいつもこんな感じだったし、商家の下働きさんとかも似たような格好してない?」


 首を傾げながら、緋蓮は己の姿に視線を落とす。


 腰切の丈は膝より少し上。確かに両腕はむき出しだが、膝下は脚絆に覆われているし、帯回りも衣も華やかで、世間一般から見ればまだまだ着込んでいる方だと思う。一乗院にいた頃の緋蓮は、式典や行儀見習いの時を除いて常にこんなような格好をしていたし、もっと言うならばそれより前の時代はもっとみすぼらしい格好をしていた。


 これくらいの格好は普通だと言外に緋蓮は訴えてみるが、それでも吏善は折れることなくブンブンと首を横に振る。


「……袖、邪魔なんだけど」


 結局押し問答に折れたのは緋蓮の方だった。


 放り出してあった袖衣を直接腕に括り付けて腕の露出を減らし、頭から大袿を被って目立つ赤色を隠す。それでようやく気が済んだのか、吏善は気配をスッと消すと緋蓮の傍らに従った。


「もっと身軽な方がいいと思う」

『いかにお忍びといえども、節度は保つべき』


 無表情ながらも若干雰囲気にブスッとむくれる気配を忍ばせながら吏善は帳面を突き付けてくる。吏善としてはこの状態でもまだ薄着すぎるという判定らしい。もう一枚袿を着込めと主張してきた吏善に対し、それは嫌だから袖衣でと妥協案を出したのは緋蓮だ。


 ──何よ何よ、亀覚は私の格好にとやかく文句をつけてきたことなんかないのに!


 そんな不満を胸中で転がしながらも、緋蓮は玄関口に用意されていた底の高い木履ぽっくりに足を通して己の足で飛天楼の敷居をまたいだ。


 普段は飛天楼の板間に輿こしが横付けされるから、緋蓮が履物に足を通して自力で敷居を越えることは滅多にない。距離にすればたった数歩のことなのに、何だか非日常の中に解き放たれたような心地がした。


「んー!」


 きざはしを降りきって己の足で外の地面を踏んだ緋蓮は、思わず空に向かって両の拳を突き上げる。久し振りにゆったりとした気分で見上げた空は、月天内で起きている騒動など知らぬ存ぜぬとばかりに心地良く晴れ渡っていた。


「いーい天気!」


 つかの間の自由を堪能した瞬間、背後からじっとりとした視線が突き刺さる。それが後ろに控えた吏善のものであることをいち早く察した緋蓮は『真面目に調査なさるつもりがあるのですか?』という帳面を突き付けられるよりも早く吏善を振り返った。


「吏善、まずは金玄寺こんげんじの金堂に行くわよ。もう一度改めて気配を探ってみて、それから町の中を回ってみる。どう?」


 今まさに帳面に何かを書きつづろうとしていた吏善は、緋蓮の言葉にピタリと動きを止めると緋蓮を見つめた。それから静かに帳面を閉じた吏善は『御意』とばかりに頭を下げる。


 間一髪だったか、と胸をなでおろしながら、緋蓮は先に立って金玄寺に向かって歩き出した。吏善はそんな緋蓮の後ろに静かに従ってくる。


 聖都、と称される月天だが、町の規模は決して大きくはない。町の入口である大門から一番奥の浄域の手前まで、旅慣れた大人の足ならば四半刻、緋蓮の足でも一刻あれば行き着ける程度の広さだ。


 元々険しい山の中に抱かれた小さな平地に寺や修行道場、それを支える商家が密集する形で成立した町だ。聖都として特殊な繁栄を遂げながらも、周囲一帯は浄域とされる険しい山々ばかりでこれ以上大きくなれなかったというのが実情なのだろう。


 普段自由に月天の中を行き来できない緋蓮だが、亀覚の元に預けられていた半年の間に一乗院いちじょういんの人間について回ったおかげで月天内の地理はおおよそ頭に入っている。毎日輿で送迎されていることもあり、飛天楼から金玄寺までの道順はきちんと頭に入っていた。


 ──あ。もしかして亀覚が『お前に付いて月天の中を回り〜』とか言ってたのって、こういう意味だったのかな? 地理を覚えろ、的な。


 チラリと背後に視線を投げれば、吏善はきちんと緋蓮の後を追いながらも、寺院が軒を連ねる他の町にはない街並みを興味深そうに眺めていた。周囲をキョロキョロ見回すような不作法はしていないが、月天の空気にどこか圧倒されている雰囲気がある。もしかしたら吏善が緋蓮の後ろに従ったのは、まだ案内役として先に立てるほど月天内の地理に明るくないからなのかもしれない。


「ねぇ、吏善は月天の土を踏んでからどれくらい経つの?」


 緋蓮が問いを投げたのは、そんな吏善に気付いたからだった。


 ちょうど行き違う形になった勤行の集団を見送っていた吏善は、静かに瞬きをしてから矢立を取り出す。歩きながら器用に文字をしたためた吏善は、自分の胸元に帳面を掲げるようにして緋蓮の問いに答えた。


『七日前』

「そう。……吏善は、都にある一乗院の分寺わけでらから来たのよね? どれくらいかけて月天まで来たの? 歩いてきたのよね?」

『徒歩でふた月ほど』

「そうなの……。馬と舟を上手く使えばひと月かからず来れるはずだけど、やっぱり歩くとかかるのね」


 緋蓮が思わずこぼした言葉に吏善は首を傾げた。そのままサラサラと文字を書き付ける吏善に、思わず緋蓮も首を傾げる。


『迦楼羅様は、都をご存じで?』


 だが無邪気な表情は、吏善の問いを前に凍り付いた。


 ──そうか、吏善はだったんだ。


 他の一乗院の人間と話す感覚でいたからうっかり喋りすぎたのだと気付いたが、今更気付いた所で一度口にしてしまった言葉は掻き消せない。


『幼い頃から月天にいらっしゃると、亀覚様よりうかがっておりましたが。月天のお生まれではない?』

「……肆華衆にそんな不躾ぶしつけな質問をするなんて、月天じゃ上に行けないわよ、吏善」


 突かれたくない所を突かれて思わず皮肉を口にしたが、それでも吏善は引く気配を見せなかった。静かな瞳は緋蓮に据えられたまま動こうとしない。


 月天の目抜き通りにたたずむ緋蓮達の周囲を、様々な人が通り過ぎていく。師父に従う修行僧、町を支える商人達、参詣に訪れた旅人。その向こうから響く声は、周囲に門跡を構える寺から響く読経の声か。


「……肆華衆に座す人間を選ぶのは、華仙かせんの守護獣たる肆華衆そのもの。器にされている人間の方の『肆華衆』ではなくて、本霊そのものが、指名するのよ」


 その光景を眺めながら、緋蓮はぽつりと呟いた。


「ヒトが選ぶわけじゃない。だからヒトの思惑も事情も関係ない。器がどこで暮らす、どんな身分の人間であるかも、本霊は問わない。そういう意味で『信に貴賤を問わず』っていう華仙の教えは正しいんでしょうね」


 どこか、そんな言葉を紡ぐ自分の存在を遠く感じた。


 それは言葉が緋蓮の本心から紡がれていないせいなのか、あるいは緋蓮がはるか遠い記憶を手繰り寄せながら言葉を紡いでいるからなのか。


「選ばれたらここに来なくちゃいけないんだから、幼い頃に選ばれたなら、親から引き離されてでもここに連れてこられる」


 緋蓮は小さく瞳を伏せた。


 大袿を被っていて良かったなと思う。今自分がどんな顔をしているかは分からない。だけど今の顔は吏善に見られたくはないなと思ったから。


「……そうね。私は元々、都にいたわ」


 もう『外』にいた時間よりも『中』で生きてきた時間の方が長くなってしまった。


 それでも緋蓮は、この世界に馴染めずにいる。……否、馴染むことを、拒否している。


「肆華衆が代替わりする時にはね、次の器がどこにいるのか、華仙の高僧達に託宣が降りるのよ。在位している肆華衆の後継が決まった場合には、肆華衆本人に託宣が降りるらしいけれど、それは本当に稀なことなんですって。……まあ稀じゃなかったら、尋香じんこう龍蛇りゅうだが長く空位になることなんてないんでしょうけれど」


 早口に答えて、身を翻す。この話はもうこれでおしまいだと態度で示せば、吏善はそれ以上の問いを投げてはこなかった。


 ──私から話を振ったくせに、馬鹿じゃないの、こんな切り上げ方……


 自分の身の上話に首を突っ込まれることは、緋蓮にとって何よりも苦痛だった。緋蓮が月天に連れてこられた経緯をすでに知っている人間にとやかく言われることも嫌なのだが、何も知らない人間に興味本位でつつかれることも我慢できない。


 特に吏善は一乗院に関わる者だ。緋蓮の勝手だが、一乗院の関係者とは心地良い関係でいたい。そのためにも、この話題からは距離を置いておきたかった。


 ──問えば問い返される。当たり前のことだったのに。


 緋蓮は自己嫌悪を持て余しながら己の迂闊さにキリッと奥歯を噛みしめる。そんな緋蓮に何かを察したのか、吏善はそれからひたすら静かに緋蓮に従った。黙々と歩みを進めれば、金玄寺金堂はすぐに姿を現す。


「……───」


 月天の中心地、肆華衆が住まう飛天楼や格の高い寺院が軒を連ねる中に、華仙総本山金玄寺もある。


 目抜き通りから十段ほど積まれた石の階段を上がって金玄寺の山門の前に立った緋蓮は、ひたと金堂を見据えると瞳をすがめた。


 常ならば参詣者と勤行にいそしむ僧侶達で人気ひとけにあふれている金玄寺だが、今はいつになくひっそりとした空気が金玄寺を包んでいた。


 大々的に人払いを命じれば何が起きたのかと噂になるから、恐らくは金玄寺とその他の手勢で人払いの結界を組んだのだろう。身に迦楼羅を宿している緋蓮は結界の効力を無視して中に押し入ることもできるが、境界線を越えれば迦楼羅の強大な気配は必ず中にいる法力僧達に気付かれる。それはそれで面倒臭そうだ。


 緋蓮は結界の境界であろう山門の敷居ギリギリまで近付いて中の様子をうかがった。だがどれだけ気を凝らしてみても、やはり妖気らしきものは見つからない。


「ねぇ、吏善って、法力は使えるの?」


 金堂、大塔、講堂、境内、山門と気を凝らして一通り眺めてから、緋蓮はふっと集中を解いて吏善を振り返った。三歩ほど下がって緋蓮を見守っていた吏善は、唐突な問いにも静かに筆を走らせる。


『使えません』

「え?」

『法力そのものが、まったくありませんので』

「……本当に、まったくないの?」


 ためらいなく簡潔につづられた言葉に緋蓮は思わず念を押す。その言葉にも吏善は素直に首を縦に振った。


 そんな吏善の様子に緋蓮は思わず感嘆にも似た溜め息をこぼす。


「よくそれで僧侶になろうと思ったわね。いくら口がきけないからって、他にも何か道が……」


 そこまで口にしてから、緋蓮はハッと息を呑んだ。


 ──私の馬鹿! また同じ失敗してる!


 自分に突っ込まれたくない事情があるように、吏善にだって突っ込まれたくない事情があるはずだ。


 法力を駆使してあやかしを討伐したり、衆生を前に説法をするだけが僧侶の役割ではない。学僧として教義や経典を研究する道を選べば、法力も発声も必要はないはずだ。決めつけから吏善が進もうとする道に口を挟むことなど、緋蓮がしても良いことではない。


 ──こんなこと言うなんて、私が嫌ってる人間と同じじゃないの……!


「ごっ、ごめんなさいっ! 私、言い過ぎた! 今の、忘れてっ!」


 緋蓮は慌てて言葉をもみ消すと吏善の顔を見れないまま身を翻した。


「やっぱり金玄寺周辺に妖気は感じなかったわ。次に行きましょ」


 そのまま緋蓮は目抜き通りへ降りようと、急峻な階段に向かって一歩を踏み出す。


 だがその足は一段も階段を降りられないままビクリと動きを止めた。


「おやおや」


 緋蓮の動きを視線で追っていた吏善が疑問の視線を投じてくるのが気配で分かる。


 そんな吏善が何かを問いかけてくるよりも、山門へ上がろうとしていた僧侶の一団から声が上がる方が早かった。


「迦楼羅様が、こんな所に何用で?」

「っ、東陽とうよう……!」


 集団の先頭にいた僧侶が、緋蓮の姿を目にして足を止める。絢爛豪華な袈裟を見せびらかすように纏った僧侶は、階段下から緋蓮を見上げると嘲るような笑みを口元に刷いた。


「あぁ、失礼。迦楼羅様かと思ったが、良く似たただの娘子であられたらしい」


 そのまま東陽の唇からは滑らかに言葉が滑り出してくる。


 滴るような毒を含んだ言葉が。


「肆華衆の一角たる迦楼羅様が、こんな時間に、こんな場所で、こんな格好で、供の一人も従えないまま突っ立っているわけがないですからねぇ」


 あからさまに緋蓮をおとしめる言葉に、緋蓮の後ろに立つ形になった吏善が言葉を失っているのが分かる。だが分かっていながらも、緋蓮は東陽の言葉を跳ね返すすべがない。


 ギリッと握りしめた拳に力を込めた緋蓮は、声が震えないように気をつけながら何とか嫌味を絞り出した。


緑暁寺ろくぎょうじ筆頭の法力僧と言われているくせに、今頃修祓に呼ばれたのか? 東陽。こんな遅くにしか呼んでもらえないなんて、お前も随分アテにされていないものだな」


 かろうじてそれだけは絞り出せたが、その程度の言葉が通じる相手ではないと分かっている。


 緑暁寺法力僧の東陽は、緋蓮を目のかたきにしている勢力に属する人間の一人だ。


 本来ならばたかが一法力僧ごときが迦楼羅に対してこんな口を利くなど許されることではない。東陽がこんなにも堂々と緋蓮に喰ってかかれるのは、法力僧としてそこそこの地位にあることに加えて、東陽の背後に月天の勢力図の一端を担う人間がついているからだ。


 ──それを笠に着て堂々と突っかかってくるのは、馬鹿の極みではあるけども。


 東陽はただの噛ませ犬だ。東陽の後ろについている人間が、緋蓮の足元を掬うために差し出した分かりやすい罠。鬱陶しくて、叩き潰そうと思えばいつでもやってやれるからこそ、叩き潰すわけにはいかない羽虫。


 ──私が独断で東陽を無礼討ちにすることはできる。だけどを足掛かりにして一乗院派に難癖をつけることこそが、東陽の背後にいる人間達の狙い。


「月天の中にいながら私の実力を知らないとは、呆れた小娘だな」


 東陽は緋蓮の言葉を鼻で笑って叩き落した。そして続く言葉で容赦なく緋蓮の逆鱗をえぐる。


「さすが、貧民出身の迦楼羅様はデキが違う」

「……っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、自分の内側をザワリと何かが這い回ったような心地がした。


「高貴な肆華衆の座にどんな嘘をろうして潜り込んだか知らないが、そこは本来お前のような小汚い小娘がいるような席ではないんですよ。私が本物の迦楼羅様を探し出してみせますから、さっさとその座を降りなさい」


 緋蓮が己の半生について口にしたくない理由。


 一乗院派と敵対する人間達が、平然と緋蓮に無礼な口を叩ける理由。


 その理由の全てが、今の東陽の言葉の中にある。


「お前のような偽物を仕立て上げて権力にしがみつこうとする一乗院の人間達も、汚らわしく、目障りだ。……一緒に堕ちてしまえばいい」


 肆華衆が宿る器を決めるのは、肆華衆を肆華衆たらしめる本霊だ。その選別に身の貴賤は関係ない。器がどこで生きるどんな人間であれ本霊は降りるし、その器を探せと月天には託宣が降る。


 だが欲に目がくらんだ人間は、時として本霊の選択を素直には受け入れられない。


 自分達が伏し拝む存在は、高貴な出自の者であるはずだ。清らかなる存在が宿る器なのだから、美しく血筋も貴い者であるに決まっている。それ以外の者は、誰かが作り上げた偽物であるに違いない。


 欲を捨てよ、目の前のことに囚われるなと解く華仙の教えに身を投じる月天の上層部であっても……いや、絶大な権力と、金と、名声が絡み合い蠢く月天上層部であるからこそ、少なくない人間が欲に眩んだ思考を持つ。


 東陽の無礼を許し、煽っている一派は、そんな根深い思考を持つやからの集まりだ。


「……っ!!」


 ギリギリと歯が軋む。握りしめた指先が手のひらに突き刺さる。


 ──落ち着け。落ち着くのよ、緋蓮。


 迦楼羅であるから。肆華衆に選ばれたから。


 それだけのことで、すべての人間が自分にひざまずいてくれるとは思っていない。願ってもいない。


 だけど。だけども。


「あ、んた、ねぇ……っ!!」


 幼い頃に迦楼羅の器として見出された緋蓮は、もう『緋蓮』として生きた時間よりも『迦楼羅』として生きた時間の方が長い。それでも東陽のような輩は、緋蓮が何年迦楼羅を務めようとも決して緋蓮を認めることはないのだろう。積み上げてきた努力の時間よりも、生まれ持った瑕疵の方が絶対なのだろう。


「私、を……っ! 私のせいで、一乗院のみんなを、馬鹿にするなら……っ!!」


 それでもいい。別にそんなことは気にしない。


 だがそんな緋蓮を引き合いに出して一乗院とそこに生きる人間を馬鹿にされることが、緋蓮には許せなかった。


 自分にいつも温かい気持ちを向けてくれる大好きな人達が、自分のせいで貶され、侮られることが、何よりも許せなかった。


 ──分かってる。本当は、受け流さなきゃいけないんだ。亀覚達だって、私がこんな風に対処することなんて望んでいない。


 東陽が野放しにされているのは、緋蓮に暇疵を犯させるためだ。東陽を庇護している者達は、本当は迦楼羅の座にどんな人間が座っていようが興味はない。『一乗院が後見を務める迦楼羅が他派の僧侶を手討ちにした』という事実だけが欲しいのだ。そこを足掛かりにして一乗院の地盤を崩すことにしか興味がないはずなのだ。


 ──分かってる……! 分かってるのに……っ!!


 望んで迦楼羅の座に就いたわけではない。望んで貧民に生まれついたわけでもない。


 本来ならば、こんな理不尽が許されていいはずがない。この場に一乗院の人間が同席していれば、もっときちんとそのことを怒ってくれたはずだ。


 ──ちゃんと対処しなきゃいけないって分かってるのに……っ!!


 一乗院は、華仙の教えに従って任を果たしただけだ。信の貴賤に囚われず、正しく迦楼羅の器を月天に迎え入れた。


 それは讃えられるべきことであるはずだ。ただの小娘でしかなかった緋蓮をこうして立派に迦楼羅たらしめた労を、もっと褒められてもいいはずなのだ。


 だというのにそれを、人々の欲が許さない。それどころか、それを瑕疵に仕立て上げようとさえしている。


 それが、緋蓮は悔しい。


 自分のせいで……本来ならばその部分でさえ自分のせいではないはずなのに、こんな自分があったせいで自分の大切な人達が嘲笑われなければならないことが、緋蓮はいつだって許せない。


 そんな緋蓮のグチャグチャな内心を表すかのように、結い上げた髪先から、怒りに震える拳の周囲から、抑えきれない炎が躍りだす。ユラリと温度を上げた空気が緩やかに風を作り出すのが緋蓮にも分かる。


「おぉ、怖い怖い。迦楼羅の力を見せつけて、気に入らない私達を無理やり服従させるおつもりですか」


 その様を見た僧侶一行はサワリと不安に空気を揺らす。だが先頭に立つ東陽だけが芝居がかった仕草で法衣のたもとを口元へ運んだ。


「さすがは元貧民。何事も力尽くということですか。私事に守護獣の力を乱用するなんて」

「っ……!」


 ──落ち着け! 落ち着け! 落ち着け……!


 心の中で必死に叫んでも、緋蓮の周囲から燃え上がる炎は鎮まらない。それどころか徐々に激しくなっていく。上がる呼吸が一向に落ち着かない。


 緋蓮の脳裏を占めているのは、昨日頭を撫でてくれた亀覚の手の温もりだった。随分顔を合わせていないが、一乗院のみんなが頭を撫でてくれた温もりだって、緋蓮は全部覚えている。


 ──落ち着け!! 落ち着


 グッと奥歯に力を込めた瞬間、グワリと緋蓮を取り巻くかのように燃え盛る炎が勢いを増す。赤から白へ焼き尽くされる視界の向こうで一瞬、東陽が笑みを浮かべたまま顔を引きらせたような気がした。


「お待ちください」


 緋蓮の意識が、限界を越えた怒りの炎に焼き尽くされる。


 そう感じたはずなのに、一瞬、全てが凪いで、緋蓮の心を静寂が満たした。意識の端にわずかに引っかかった音は、聞こえたと認識できたわけでもないのに、気付いた時には緋蓮の心に染み入るように全身に広がっている。


「え……?」


 緋蓮の意識さえ焼き尽くそうとしていた業火がスルリと消えていく。


 戻ってきた聴覚の中に、リーンッと、どこか遠くで響く鈴の音が届いたような気がした。


 その音に目を瞬かせれば、炎に焼かれて色を失っていた視界が戻ってくる。今度緋蓮の視界を染め上げた色は、上位法力僧を示す絢爛豪華な袈裟の金でも、法衣の墨色でもなく、宵闇を想起させる深い藍色だった。


「り、ぜん……?」


 いつの間にか緋蓮を庇うように緋蓮と東陽の間に吏善が入り込んでいた。


 緋蓮の視界を己の背中で遮った吏善は、何事かを書き付けた帳面を東陽に向かって突き付けているらしい。


 空気のように静かだった人間が突然割り込んできたことに東陽達は一瞬気色ばんだようだが、吏善の書き付けに目を止めた瞬間一行はみるみる顔色を失っていく。緋蓮の位置からは何が書かれているのかは分からないが、常に嘲笑を浮かべ続けてきた東陽がここまで焦った顔は初めて見る。


 ──でも、今聞こえた、『お待ちください』って声は、一体誰の……


 あの言葉がなければ、緋蓮は止まれなかった。緋蓮が止まれなければ、吏善も割り込むことはできなかったはずだ。


 まるで吏善が口を利いたかのようにあの声は響いたが、吏善は口を利けない。吏善本人だけではなく、亀覚もそう証言している。


 たった一言で緋蓮の意識を掬い上げた声。あの声には何か、迦楼羅の耳を捕らえてやまない独特の揺らぎがあった。


 ──! まさか、あれって……!


 吏善の背中を見つめたまま考えを巡らせていた緋蓮はひとつの可能性に行きあった瞬間ハッと顔を跳ね上げる。


 その瞬間、耳の奥でこだまし続けていた鈴の音が一際強く周囲に鳴り響いた。その音に突き崩されたかのように、山門を境界に展開されていた結界が儚い音とともに砕け散る。


「っな!?」


 東陽が愕然とした面持ちで崩れ去っていく結界を仰ぎ見る。思わず山門を振り返った緋蓮の目に映ったのは、不可視の結界が玻璃か水晶のくずのように空から降り注ぐ光景だった。


「一体何が起きたっ!? 全山中の法力僧が集って展開していた結界なんだぞっ!? それがどうして……っ!」


 血の気を失った東陽の声が背後から響く。


 だが緋蓮の意識はその声を一切拾わず、打ち寄せては消える心地良い鈴の音ばかりを追っていた。


 ──なんて、心地良い音。


 結界を破ったのは、恐らくこの鈴の音だろう。だがそうと分かっていても耳を澄まさずにはいられない清涼な響きが、この音の中にはあった。


「っ、貴様に言われずとも、そんなことは分かっているっ!!」


 法力を持たない吏善には結界が崩れ落ちるさまも、その原因となった音も届かなかったのだろう。


 一人変わらず東陽と対峙していた吏善に何事かを指摘されたのか、東陽は慌てたように緋蓮の傍らをすり抜けると供を従えて山門の向こうへ消えていく。


 その光景を視界に納めながらも、やはり緋蓮の意識は遠く響く鈴の音に捕らわれていた。いつまでも山門の遠くを眺める緋蓮の姿を不思議に感じたのか、隣に並んだ吏善がそっと緋蓮の袂を引く。


「……綺麗」


 その控えめな力を感じていながらも、緋蓮は山門に降り注ぐ光の欠片達から目をらせなかった。


 空を仰いだままそっと目を閉じた緋蓮は、遠ざかろうとする鈴の音に耳を澄ます。


「知らなかった。……響術師きょうじゅつしが奏でる音って、こんなにも綺麗だったのね」


 瞳を閉じていたから、吏善がそれに何と答えたのかは分からない。


 ただ緋蓮の傍らに寄り添うように立った吏善は、緋蓮が次に動き出すまで、空気のように静かにそこにいてくれた。

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