7 - 明日香

 聖一の視界は、今、きっと鮮血の赤に覆われている。口の中には鉄の味が広がっているだろう。そして聖一は、自分の身に何が起きているのかを理解していない。


「可哀想に」


 水城純治が言った。笑いを含んだ声だった。


「知らない人におやつ貰っちゃダメだよーって教えてくれる大人が、周りにいなかったのかなぁ?」

「愚弄……するか……俺を……」


 文字通り、血を吐くような声で聖一が唸った。その言葉を追うように血の塊がダムの中にぼたりと落ちて、大きな波紋を作った。


「愚弄? してないよ。俺は本当のことを言っただけ」


 水城が快活な口調で言い、地面を蹴った。

 大きな跳躍だった。百裏の幻を必要としない男は、散り散りになり始めた黒い雲の中から顔を覗かせた満月を背に重力を無視してウサギのように跳んだ。


 彼の手に握られているのは拳銃ではなく、日本刀でもない。

 馬鹿みたいに長い八角バールだ。

 金属製のバールの先端が、聖一の顎を力任せに殴り上げる。見えぬ目を大きく見開いた聖一が牙を剥き、顔が大きく歪む。変貌。


 爬虫類の顔だ。龍にも蛇にも見える。


 長く伸びた舌が水城のスニーカーを履いた足に絡みつく。そのまま引き寄せられた小柄な殺し屋の体は、ダムの中に落下する怪物に巻き込まれるように明日香の視界から消えた。


 目を閉じる。澪に視界を預ける。


 比較的山の奥にあるこのダムに朝日が差すのはもうしばらく先のことになるだろう。様々な異物を飲み込んで濁った水の中に、聖一──そう名乗る怪物と、殺し屋水城純治が絡れあうようにして沈んだ。

 冷え切った水の中で殺し屋が腕を伸ばす。聖一が長い体を殺し屋の体に巻き付け、骨を砕こうとする。


(そんな簡単にすり潰されたりしねえよ!)


 水城は人間だ。水中でそう長い間呼吸を止めてはいられない。にも関わらず両目を見開き凶器を構えた水城は、八角バールを聖一の喉奥の一際柔らかい部分に力任せに押し込んだ。

 八角バールの先端が、聖一の気管を貫いた。水中で鮮やかに血の花が弾ける。水城は笑っていた。


ここダムを海にするって誰に聞いた? 斗次くんか? 残念だったね、遼や里中くんがに本当のことを言うはずないだろ?)


 聖一がいったい何者なのか、龍なのか、蛇なのか、神なのか、ヒトなのか、瞽女迫澪の視界を介しても理解ができなかった。そして聖一自身、ひどく混乱しているように映った。


(斗次くんの腹ぁ掻っ捌いて、中に人魚に貰った海水入りの人工臓器を仕込む──ぐらい平気でやるよ、だって俺たちヤクザだもん!)


 水城は息継ぎをしない。息を吐き続けている。彼が八角バールで聖一の体を抉る度に、そして上着のポケットに詰め込んであったと思しき大量の釘を聖一の長い体に打ち込む度に、たくさんの気泡が浮かび、弾けた。

 斗次は聖一にとっての最後のだった。聖一はおそらく、少しだけ龍で、少しだけ蛇で、少しだけ神で、そして少しだけ純粋だった。考えもしなかったのだ。裏切り者である斗次を岩角らヤクザたちが簡単に手放すことに、どのような意味があるかを。そこに罠が仕掛けられているということを、疑いもしなかったのだ。


(ここが海でもダムでもなんでもいい)


 澪の視界を通して見る釘やバールは、ほんのりと暖かい光を纏っていた。水城は、きっと個人的に祈ってもらったのだ。あの僧侶に。大した力を持っているわけではないと笑いつつも、車椅子に腰掛けひとり朗々と般若心経を唱え続けた慈信和尚に。


(おまえが死ぬなら、俺はここがどこだっていいし、自分がどうなったっていい!)


 目を、三つの目を潰され、長い舌を裂かれ、水城の目の前で聖一はようやく息絶えた。致命傷を与えたのは八角バールでも釘でもなく、斗次の体内に仕込まれていた大量の海水だ。水城もそんなことは分かっていただろう。力を失った舌の代わりに尻尾で足首を掴まれ、聖一と共に水底に沈んでいく。水城は暴れも足掻きもしなかった。ただ両目を見開き、遠い水面を見上げていた。


 月が出ている。

 満月が。


 本物の海は今頃、満潮だろう。

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