4 - 響野

 夕刻。岩角がびわと百裏モモウラを連れて純喫茶カズイを訪れた。入れ違うようなタイミングで慈信じしん和尚と水城、それに斗次とつぎと里中も店を出て行ったので、店内には逢坂と響野、それに明日香しかいなかった。この件が始まってから長らく掃除屋の保護下にいた明日香は、びわと百裏が合流したタイミングで隠れ家を純喫茶の奥の間に移していた。びわは体調を崩したとかなんとか適当な言い訳をでっちあげて、学校を休んでいるらしい。無理もない。いつ聖一に襲撃してくるのか誰にも分からないのだ。掃除屋の保護下にいるよりも奥の間に集っている方が安全、というのがどういう理屈なのか響野には良く分からなかったが、


「秋さんにもらったヒマラヤ岩塩がありますからね」


 などと明日香が言うので、まあそのようなものなのかと納得していた。


「おじいちゃん、ただいまー!」

「お邪魔します」


 明るく店に飛び込んでくるのはびわだ。、とは、おじいちゃんのことだろうか。カウンター席で煙草を咥えていた響野は少し驚いて顔を上げる。祖父である逢坂一威は、満更でもなさそうな笑みを浮かべていた。びわに続いて入店した百裏は、さすがに逢坂のことを『おじいちゃん』とは呼ばない。ペコリと頭を下げる若者に、まあ座れ、と逢坂は声をかけた。


「飯食うか? 何がいい?」

「カルボナーラ! ベーコンがいっぱい入ってるの!」

「じゃあ、俺もそれで……」


 びわのリクエストを聞き、逢坂がカウンターの奥に姿を消した。食材を吟味しているのだろう。

 と、背後から拳で頭を叩かれた。響野の隣に座っていた明日香が「あっ」と呟いて両手で口を覆っている。この、唐突な暴力は。


「子どもがいる場所で煙草を吸うな」

「い、岩角さん……」

「里中はもう帰ったのか? 掃除屋も?」

「はい。あと、水城さんと……」

水城アレのことはどうでもいい。山田は来たか? 番場、おまえの身に何も起こってはいないな?」

 立て続けに尋ねる岩角に明日香が、山田さんはまだです、僕は大丈夫です、掃除屋さんも帰りました、ときびきびと応じた。響野は岩角の目を見ることすらできないというのに、こういう時にヤクザにも殺し屋にも無縁の人間は強いと思う。そういえば明日香は秋とも普通に会話をしていた。


「あ、でも──」


 明日香が不意に、防弾ガラスの扉の方に視線を向けた。扉が音もなく開く。山田徹が立っていた。


「若頭。に、びわに百裏か。他は?」

「帰ったってよ」

「そうか。まあいい。おい響野、ガキがいるんだぞ。煙草消せ」

「もう消しましたぁ……」


 くちびるを尖らせる響野の横顔を見て、明日香が小さく笑った。どちらかというと少女のような表情をしていた。


「首尾は」

「まあまあ」

「まあまあじゃ分からん。詳しく」

「おい岩角、子どもたちに飯!」


 パスタがたっぷり盛られた大皿を手に、逢坂がカウンターの中に現れる。明日香、岩角、それに山田というリレーを経て、びわリクエストのベーコンがたっぷり入ったカルボナーラは子どもたちが座る丸テーブルに届けられた。

 いただきます、と声を揃えるびわと百裏を横目で見ながら、


「大量の水がある場所を押さえることはできたのかって訊いてるんだ」

「ダム」


 岩角の再度の質問に、山田は短く応じた。スーツのふところから取り出したスマートフォンをカウンターの上に起き、右手の指で軽くタップする。地図アプリだ。慈信和尚の寺がある東京の端っこの正反対にある東京の端、山の中に、確かにダムが存在していた。


「現役のダムじゃないのか、これ」

「まあな」

「……どうやって押さえたんだ?」


 訝しげな岩角に山田は片頬で笑い、


「俺には俺のルートがある」

「秋じゃねえだろうな」

「秋? ……あいつ、大怪我して面会謝絶だって話じゃなかったっけ?」

「!」


 山田の口から飛び出した台詞に、響野と明日香は同時に飛び上がった。皆の分の飲み物を用意している逢坂だけが、さもありなん、といった様子で目を細めている。


「山田さん……それ、どうして……」


 声を絞り出したのは明日香だ。山田は長いまつ毛をゆっくりと揺らし、


「俺には俺のルートが。響野、おまえ、秋んとこ行ったんじゃなかったのか?」

「行きましたけど」

「生きてた?」

「生きてますよ、それは! ……でも、なんで、怪我のこと」

「だぁから俺には俺の──まあいいや。いいかい響野クン。俺たちこっち側のゴロツキはな、自分の持つ情報網を簡単に他人と共有したりしないんだよ。記者になって何年だ? そんなことも分からないのか?」


 大きな右手でぐしゃぐしゃと髪を掻き回され、あーっ、もうっ、と響野は大きく声を上げる。びわはカルボナーラに夢中だが、百裏が驚いたように視線を上げる気配がした。


「分かってます分かってますそんなこと! でも俺も……俺だってそんなね、伝書鳩じゃないんすから! 言えることと言えないことがあるっつうか、その……秋のこと、山田さんが知ってるの意外でした」

「死ねば良かったのに」


 逢坂がコーヒーと共にカウンターの上に置いたナッツの盛り合わせを口に放り込みながら岩角が吐き捨てた。秋のことだ。岩角にしてみればそれはそうかもしれないが、響野としては今秋に死なれるのは困る。とても困る。


「遼さん! そんなこと言っちゃダメ!」

「うん?」

「人に死ねばいいとか言っちゃダメ! 本当になっちゃうでしょ!?」


 びわの声が、岩角の背中を強く叩いた。顔を上げた岩角はカウンター席から真夜中の猫のようにするりと降り、テーブル席の側に膝を付く。


「大人は時々こういうことを言うんだよ、びわ」

「でも、だめ。それに、その、会ったことないけど……秋さん? っていう人は、生きてないとみんなが困る……でしょ?」


 最後の「でしょ?」は岩角ではなく明日香に向けられていた。


「困る!」


 明日香が大声で断言し、山田が肩を竦めて笑う。

 奇妙に和気藹々とした空間が完成していた。聖一が牙を剥けば一瞬で壊れてしまいそうなこの脆く儚い空間を、これから命懸けで守らなければならないのだ。

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