第二章 拮抗

1 - 水城

「おかえり、リコリス・ラジアータ!」


 水城純治に飛び付き、抱き締め、あきはいかにも嬉しそうな声で笑った。

 強く触れればへし折れてしまいそうなほどに華奢なの体をそっと抱き返しながら、


「学名じゃん、それ」


 と、水城は小さく微笑んだ。

 場所は神奈川県、中華街を抜けてしばらく歩いた場所にぽつねんと建つ雑居ビル、その名も木野きのビルディング。よほどこの辺りに詳しい人間でもなければ見落としてしまいそうなほどに地味な、コンクリートの壁を大量の蔦で覆われた建物の中に水城はいた。


 秋は、木野ビルディングの支配者だ。


 地獄の人材派遣業を名乗る秋は、裏社会を跋扈する人間たちには欠かせない存在である。ある時には情報屋、ある時には死地に殺し屋を派遣する人材派遣業、そしてある時にはヒトひとりの存在をこの国の歴史から完全に消去する、魔法使いにして悪魔のそのもの。それが秋という生き物だった。

 秋は滅多に他者の前に姿を見せない。秘書を名乗る人間を数名飼っていて、大抵の仕事はその秘書たちが引き受け、秋の決裁を受けて実行に移す。年齢も性別も国籍も何もかもが不詳。許されてもいないのに秋の顔を見ようとしたり、正体を探ろうとした者はもれなく歴史から消去される。そんな悪魔が今、壁中を本棚で囲まれた面会室の中で水城の頬を両手で包み、その顔に親愛のキスの雨を降らせていた。


「あ、秋〜! やめてやめて、照れちゃうよ俺!」

「リコリス、曼珠沙華のきみ、また生きて会えるとは思っていなかったんだよ秋は! きみが日本を去ってしまった時は本当に寂しかった。あの時の胸が張り裂けそうな苦しみを、今も昨日のことのように思い出すことができるよ。リコリス、水城純治、きみはもうこの国の裏社会を見限ってしまったのだと──が、秋が、命を賭けるに相応しい人間が、またひとりいなくなってしまったのだと……」


 大仰で、ひどく芝居がかった物言いだった。だが、秋の台詞は決して嘘ではない。水城が岩角いわすみの暗殺に失敗し、1秒でも早くこの国を出なければならない状況に追い込まれた際、真っ先に頼ったのが目の前にいる秋だった。秋は、あの頃とまるで変わらない。同じだけの年月が互いの間を通り過ぎたはずなのに今も尚若々しく美しく、抜けるような白い肌、端正な面差しに鮮やかな藍色の瞳、それにプラチナブロンドの髪を肩口で揺らして水城の目をじっと見詰めている。成人男性としては比較的小柄な方である水城よりもさらに背が低く、痩せぎすで、最後に顔を合わせた時には黒いツナギを着ていた記憶があるが、今日はオーバーサイズの白いパーカーに細身のブラックデニム、足元は良く磨かれた革靴という格好で、まるで夢のような儚さで目の前に佇んでいた。


「そうだ、秋、これお土産ね」

「お土産?」


 秋の手を借りて日本を飛び出して、いずれまた戻ることがあればお礼を言わなければならないと常に思っていた。それで、最後に滞在した韓国で、秋のためにも大量に土産を買い込んだ。


「スキンケア……パック……この箱は……?」

「秋にはいらないかなーって思ったんだけど、ここのブランドのお店に入ったらめちゃくちゃおすすめされちゃってさぁ。俺良く分かんないんだけどライン使い? っていうの? この箱に入ってる通りの順番で使うとお肌がモチモチになるんだって」

「なるほど、ありがとうリコリス。嬉しいよ。秋だって年を取るからね。お肌のケアには気を遣っているんだ」

「年……取ってるかぁ? 俺には前に会った時とあんま変わってないように見えるけど」

「それは若く見えるということ?」

「若く見えるし、秋はいつもすごく可愛い」


 へにゃりと笑みを浮かべて言う水城に、秋はその場でダンサーのようにくるりとターンをして見せた。


「嬉しい! 好きな人間に可愛いと言われることほど幸せな瞬間はないな」

「秋のこと可愛いと思ってる人なんていっぱいいるでしょ」

「リコリスのその、何も分かっていないところも秋は好き。好きな人間から発されたものでなければ、どんな賞賛も無意味な雑音に過ぎないんだよ」


 部屋の真ん中に置かれた丸テーブルの上に広げた化粧品たちを吟味しながら、秋は真夜中の猫のような眼をして笑った。そういうものかな、と思いつつ水城は赤いベルベットのシングルソファに腰を下ろす。


「でさぁ、秋。海外旅行の話、正直めっちゃしたいし聞いてほしいんだけど」

「うんうん、分かっているよ。きみが戻ってから起きた一連の事件についてはすべての耳に入っている。リコリス、きみは本当に厄介ごとを引き当てる天才だね!」

「……褒めてる?」

「褒めてる。なぜなら、厄介ごとを引き当てた上できちんと解決できる才能をリコリス、きみは持ち合わせているからね。凡人ならば自分で引き当てた事件に巻き込まれて死ぬのがオチさ。そんな凡人を──」


 本棚と本棚の隙間から、黒いスーツ姿の男性が姿を現した。銀色のトレーを捧げ持っており、その上には純白のコーヒーカップとお茶請けらしき月餅が乗せられている。


「──秋自ら、歓待するはずがないだろう?」

「あはは。お褒めに預かり光栄です。月餅美味そう、食っていい?」

「どうぞどうぞ。コーヒーにミルクと砂糖は?」

「ブラックで大丈夫〜」

「だそうだ。全部下げて」


 スーツ姿の男性は恭しく一礼すると、秋と水城のお茶会に不要なものすべてを持って本棚のあいだに去って行った。


「あれ秘書?」

「そう、秘書のひとり。気になるなら紹介するよ」

「いやいいや。俺には秋いるし。頼み事があったら秋にするし」

「光栄。リコリスのそういうところが秋は好きだなぁ」

「この月餅うんまいね。中華街で買える?」

「これは特別ルートで輸入したものなんだよ。欲しければお土産に包むけど」

「ほんと? 嬉しい。実は今さ、山田くんのところに居候してるんだよね」

山田やまだとおる?」


 形の良い脚を優雅に組んでコーヒーを舐めていた秋が、いかにも意外そうに眉を跳ね上げた。


「山田徹──彼は今も、岩角いわすみりょうの飼い犬ではなかったっけ?」

「って、秋は言うと思ってた。まあ俺もね、正直、ちょっとそれを心配してたんだけど」


 見も知らぬ若い男たちに一斗缶に詰められて海に沈められそうになって、慌てて反撃してその場を去った。一刻も早く現場から離れようと思い都内に逃げ込んだものの行く宛がなく、とりあえず山田徹の別邸を訪ねたらいつも通り無防備にベランダの窓の鍵が開いていたので中に入って寒さを凌いだと伝えたら、秋は鈴を転がすような声で笑った。


「なるほど、なるほどね……それで山田徹は、リコリスを岩角に売ろうとはしてない?」

「今はされてないなぁ。っていうか山田くんも、結構今回の件に興味持っちゃってるからそれどころじゃなさそう、みたいな」

瞽女迫ごぜさこ家」


 小首を傾げ、細い指先でプラチナブロンドの髪を弄びながら秋は呟いた。


「予知能力の家。占い師ともまた少し違う。未来を見る家」

「調べてくれたの?」

「いや、では有名な家だからね。黙っていても向こうから話が転がり込んでくる」

「その筋」


 瞳を瞬かせる水城の前で、秋が薄く笑う。本棚の影から今度はワインレッドのスーツを着た、浅黒い肌の女性が現れた。片手にファイルのようなものを持っている。


「きみがこの国を離れている僅かな間に、様々な殺し屋が誕生した。きみや逢坂おうさか一威かずいのように拳銃を使う殺し屋は、もしかしたらもう時代遅れになりつつあるのかもしれない……もっとも秋はそんなきみたちこそが正道で、この世のものではないナニかに頼って他者の命を奪うなんてやり方は、邪道でしかないと考えているけどね」


 膝の上で大きなファイルを広げながら、悪魔はそう言ってちろりと赤い舌を見せた。

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