おかえり、リコリス・ラジアータ
大塚
序
1 - 凱旋
夢を見ていた。
トランクの中にいる夢を。
タイヤが小石でも踏み付けたのだろう。クルマが大きくバウンドして、その衝撃で目を覚ました。目覚めてもまだ視界は暗く不明瞭で、ここがトランクの中であるということを思い出した。
いつもこうやって、荷物のように運ばれている。
初めてトランクに詰められたのは何歳の時だっけ? ──もう20年も前の出来事だ。昨日のように思い出すことができる。
すぐに気絶したふりをしたのに、どうやら散々に殴り蹴りされたらしい。体のあちこちが痛む。こっちだってもうあまり若くないのだから、適度に手抜きをしてほしいものだ。そういえば足の甲を撃たれたな、と不意に思い出す。痛みを意識的に手放す術を教えてくれたのは
そう教えてくれた義父も、今はもうこの世にいない。
血の匂いがする。
幸いにも四肢の自由を奪われてはいなかった。狭い荷室の中を手探りすると、自分ではない誰かの体に触れた。既に冷たい。男だろうか、女だろうか。この薄暗さではそんなことも分からない。無闇に目を凝らすのはやめた。目が疲れる。まぶたを下ろし、硬直が始まっている肉体を軽く撫でた。おそらく、現場に居合わせた一般人だろう。可哀想に。口封じで関係者以外を殺してしまうなんて、クルマを運転している連中は素人だ。殺人のど素人。碌でもない。
このトランクが開いたら、あなたをあなたの家に返してあげるからね。それがせめてもの償いだ。そんな風に語りかけていたら、不意に狭い荷室の振動が止んだ。
目的地に到着したらしい。
海だろうか、山だろうか。海だといいな。海の方が好きだ。体を縮めて、未だ意識を失っているふりをする。ゆっくりとトランクの蓋が開く。潮の匂いが鼻先を擽った。大当たり。
こちらを覗き込んでいる視線はふたつ。男がふたり。それはトランクに詰め込まれる前に確認をしてあった。薄目を開けて物言わぬ荷室の同居人の姿を視界に入れる。白いふくらはぎ。この寒い時期にタイツやレギンス──とやらも履いていないのか。それとも命を奪われる前に、性的暴行を受けて破り取られたのか。もしそうだとしたら胸糞の悪いことこの上ない。殺し屋は人殺しだけしていればいいのだ。そういう簡単な職業なんだ。だから、自分のようなものでも長く続けることができる。
「──コンクリは?」
「ああ、向こうで──」
なるほど、遺体を一斗缶にでも放り込み、コンクリ詰めにして海に沈めようという目論見か。ここはどこだ、港だろうか。向こうで、ということは一斗缶とコンクリートを用意している連中も別にいるということになる。
さて。では。
身を起こす。勢い良く。こういうのは、躊躇せずやるのが肝要だ。長身でがっしりとした体躯のふたりの男、ひと回りほど年下だろうか、初めての殺しに浮かれているのだろう。まるで新しく手に入れた玩具をいじり回すような手付きで各々拳銃を構えた男たちが、驚いたようにこちらを見詰めているのが分かる。
分かるよ。撃ったのに、だろ? 足の甲を、撃ったのに。
「もう少し賢く生きなきゃねぇ」
クルマのふたりを殺し、それから一斗缶とコンクリートを準備していた3人を殺し、これで遺体は男ばかり5名。全員を仰向けに寝かせ、殺した順に並べておく。大きなマッチ棒が転がっているみたいだ。トランクに詰められていた若い女性は殺しにカウントしない。もうだいぶ硬くなっている体を抱き上げて、クルマの後部座席に寝かせ、申し訳なく思いつつその手が強く掴んでいたハンドバッグの中身を漁る。財布。更にその中。免許証。OK。学生証。おっと。学生だったのか。大学生か。
一斗缶準備チームのひとりのポケットからスマートフォンを取り出して、記憶に残るたったひとつの電話番号、11桁の数字をタップした。
コールは3回。そういうルールだった、かつては。
今は?
「──ああ、もしもし? 良かったこの番号生きてて、ああ俺おれ久しぶり、え、忘れてないよねまさか? ああ担当者替えがあったのかな? 俺、
通話を終えた水城純治はスマートフォンを持ち主である遺体の腹の上に置き、大きく深呼吸をした。空を見上げる。
月はなく、星も見えず。
とっくにどこかでくたばったはずの人殺しが、突如故郷に舞い戻る。かつての雇い主は、親友でもあったあの男は、自分の帰還を歓迎するだろうか?
「するわけねえわ!」
感傷や期待は生きていくための妨げにしかならない。撃たれた左足を引きずりながら──ひと仕事終えたら痛みが戻ってき始めていた──辺りを警戒しつつ港を離れる。顔見知りの闇医者はまだ営業しているだろうか。結構な年だったから看板を下ろしてしまっている可能性もある。そうしたらまた、理想の相手を探し、一から人間関係を構築し直さなければならない。面倒だ。
死んだ男のポケットから掠め取った煙草をくわえ、どこで手に入れたのかも忘れたオイルライターで火を点ける。
誰にも望まれぬ、殺人者の凱旋だ。
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