4:空腹という名の接敵。

 御維新のあと、廃刀令によって軍刀以外を作ることが少なくなった刀鍛冶は包丁などの生活用刃物を打つことが多くなったという。


 その中でも大型の刃物を打つための腕を鈍らせないようにこしらえたのが、この鮪切り包丁なのだとか。


 豆知識を思い返しながら、切っ先から逃れた井澄は冷や汗をハンケチでふきふき、店主に尋ねた。


「なぜそんなものがあるんです……」


「いやね、ここんとこ店に来るのが、客じゃなくて荒くれ者ばっかだったもんで、へえ。すいませんでしたね、おにいさん」


 調理用と思しき白衣を身にまとった店主は、四方田よもだと名乗って頭を下げた。富士額の特徴的な、よく通る高めの声で話す壮年の男だった。しかしいやがらせにほとほと困り疲れ果てているためか、声にはハリだけが足りていなかった。


「鮪も扱っているんですか」


 店内を見て回っていた八千草は、らんらんと目を輝かせながら店主に訪ねた。特大の包丁置きへ携えていた業物を収めると、ございますよと四方田は答えた。


「もちろん、一匹まるっと解体するわけじゃございやせんが」


「だったら、なぜそんなものがあるんです……」


「護身用ですかねェ。調理は小出刃でも十分よござんすが、そんなもんの刃渡りじゃあゴロツキ相手に『三枚におろすぞ!』なんて息まいてもしまらないでしょ?」


「ははーそうなんですかー。じゃあ鮪も出してください」


 四方田の言葉をほぼまったく聞いていない様子で、注文を追加しながら八千草は席についた。


 店内は畳敷の座敷に七輪を置き、そこを座布団で囲むようにして六席が設えられていた。すでに正座で待つ八千草の横へ立って、井澄は厨房にいそいそと戻りゆく四方田に声をかけた。


「では四方田さん、早速謝礼についてなんですが」


「へえ。たちばなさんからうかがった次第じゃ、とりあえず初日は店で好きに飲み食いすることと、あとは七日の御守りで、仕事終わりに三円五十銭と聞いておりやす」


 髪を持ちあげて総髪に結い、襟元を正しながら四方田は言った。橘とは、八千草の苗字である。ちなみに井澄は沢渡さわたりだ。橘井澄でも字面は綺麗だと思っている。


「失礼ながら、金子のご用意はありますか」


「こちらに」


 四方田が紙袋に納めた貨幣を見せる。久々にきちんと全額現金でもらえそうだった。


 じつはアンテイクに置いてある品々の半分は、料金の払えなかった客から八千草が抵当としてまきあげたものである。とはいえ五層は富ある者が訪れることなどほとんどないので、売り物は余るばかり。現金収入は、とてもありがたいものなのだ。


「了解しました。ではこれより、御守りの業務を始めさせていただきます……では、そろそろ八千草が待ちきれない様子なので。肉鍋の用意をお願いできますか」


「あと鮪は刺身でお願い」


「だそうです」


「……へいっ」


 仕事になるとやはり気が引き締まるのか、威勢の良い返事をした四方田は用意にとりかかっていた。


 あぐらをかいて八千草の横に座る井澄は、火のついた七輪に手をかざして暖をとった。八千草は真剣なまなざしで、調理場を動き回る四方田を見ている。こんな目を自分にも向けてくれたらなぁ、などと考えつつ井澄は周囲を観察した。


「どういう仕事になりますかね」


「細かい事情は説明してこなかった。ただ七日間泊まり込みで守ってほしいと、それだけでね」


 詮索は禁物ということで、なにも聞かずに引き受けたらしい。弱小零細職業である井澄たちなので、えり好みをすることはまずないのだが、それにしてもここまで情報がないのは珍しかった。


 一瞬、見回すことで店全体に目端を利かせながら、八千草は語った。


「店内も小奇麗で荒らされた形跡もない。店の前に営業時間中、強面こわもての男が立って威嚇していることもない。かといって物流の差し押さえなどで営業妨害をしているのなら、ぼくらに頼むのはお門違いだ。だいたい現に、ぼくらの肉鍋は、きちんと用意、されてる……のだよね? うんされているね。ああ、美味しそうだなぁ……」


 観察眼と洞察力は大したものなのに、食欲に支配された表情をしているのがなんとも面白い。出会ったころのようにきりっとしすぎているより人間らしさが見えていいな、と井澄は思う。


「そしてあの怯えよう。なのに詳細を語りたがらない点。……十中八九、恨みを買ったのは近所の人間、あるいは知り合いであろうよ。客商売の性質上、依頼をする相手にでも話したくなかったのではないかな」


「いさかいがあると漏れたら、客が寄り付かなくなるから……つまり完全な被害者というわけでなく、自分にも非があるかもしれないと、思い当たる節がある。そういうわけですか」


「ご明察」


「八千草こそ」


 小声で推測を語り合い、じいと見据えて四方田を観察する。腹芸が得意そうな人間には見えないし、こんなところに居を構えるわりには真面目な商売をしていると思うが……ざっくばらんに言うと、井澄には間抜けそうに見えた。


 悪い意味だけではない。

 賢いというのが良い意味だけでなく、往々にして悪だくみへと考えを波及させる要素となることが多いように。

 間抜けは言うなれば、実直さの表れだ。


 ……ただ、失敗にも実直に接することは、結果として小狡こずるいことを考えるしかない状況に自らを追い込むこともあるというだけだ。なにが真に自分の首を絞めるかに思い至ろうとするのは、大事なことだと井澄は思う。


「推測は推測にすぎないさ。ぼくたちはぼくたちのすべきことを、粛々と淡々と済ませてゆこう」


「承知しております」


 四方田はせっせと働き、時折なにか考え込んでいるのか動きが止まることもあったが、井澄たちに見られていることに気づくとあわてて作業を再開する。


 出来上がるものがきちんとしたものか、少し疑いの目を向けたが……井澄の腹が食事を求めて泣き喚こうとするか否かというところで運ばれてきた肉鍋。


 想像の中で膨れ上がっていた期待感をさえ上回る馥郁ふくいくたる香りを放って、それは彼らの前に置かれた。八千草の喉が鳴った。


「おまたせしやした、肉鍋です」


 蓋が開けられると、ふわりと芳香に包まれて、湯気の向こうに並んだ具材が目を喜ばせる。八千草が幸せそうな顔をしているのを見て、井澄も心の底から幸福を感じた。


「そんでこちらが刺身です」


 鮮やかに皿へ盛りつけられた赤身の魚肉が、弾けんばかりのかがやきで、閉じ込めたうまみを思わせる。


 ごゆっくり、と声をかけて戻っていった四方田を見送り、常にない光をたたえた瞳の八千草ははしゃがないように興奮を抑えた様をもじもじさせる手に表していた。


「……はぁ、家に帰ってきてこんな食事が用意されている日があったら、嬉しいものだね。最初の一口が一番おいしいんだろうなぁ。どちらから食すか、非常に迷うところであるよ。ねえ井澄、どちらからにしようね」


 井澄は家に帰ってきて、八千草が自分に問うところを想像した。


 肉鍋にする? 刺身にする?


 それとも、ぼ、く?


「……八千草!」


「え、う、うん? なんだい、なにか呼んだかい」


「ああ、いえ、独り言です」


 空想から帰還した井澄がかぶりを振る間に、彼女の手には箸と取り皿が握られていた。早く食べさせてあげようと思い、井澄はほかほかと湯気立つ鍋におたまを落としてすくいとろうとした。八千草が取り皿を渡してきた。


「なにを食べる? というのは愚問ですかね」


 肉をよそおうと、鍋から引き上げる。八千草がとてもうれしそうな顔をした。井澄も微笑んだが、たぶん八千草の視界には入っていまい。


 取り皿に、おたまから垂れる雫の一滴までもこぼさぬよう収めようとして――


 鍋の中に現れる変化に、井澄は動きを止めた。


「どうしたのかな井澄? あまり焦らさないでおくれよ」


「……いえ……これは、っ!」


 ぞぶり、と、沼に斧でも投げ込んだような重い音がした。


 おたまと取り皿から手を離した井澄は、右手で八千草の襟首をつかんで押し倒し鍋蓋を左手に取る。すぐさま、素早い挙動で自分の背後に蓋を構えた。


 間をおかず硬質な焼き物であるはずの蓋に衝撃が走り、粉々に砕け散る。しびれを催した左手をぶらりと身体の横へ下げ、井澄は振り返って鍋を見る。まがまがしい気配が、いま正に広がりを見せようとしていた。


「ひどい、ものですね」


 先ほどまで店内に漂っていた良い香りが、雲散霧消している。


 代わりに鼻をつくのは、い臭気だ。つんと鼻に通って、喉元へ抜けるころには生臭さへと変わる。堆肥の山を前にしたときのように明らかな、腐臭だ。


「ああ、あ」


 四方田が、惨澹たる有様になった鍋を見て、頭を抱え厨房にうずくまった。そして言う。


「や、やっぱり……っ」


「……これですか、連中の営業妨害とは」


 油断なく、鍋の中身に目を向けながら井澄は返す。四方田の姿は厨房の奥なので見えないが、彼が無言であることと――鍋からの攻撃、、、、、、が、推測の的中を告げた。


 悲しいまでに濁り、汚泥と化した鍋の水が。器の容積を越えた濁流と溢れ、先端部が巨大な掌を模し二人に襲いかかってきた。


 とっさに硬貨幣コインを手にしていた井澄だが、ここまで圧倒的な質量相手ではどうにもならず歯噛みして八千草を引っ張り逃れようとする。


 けれどそこに、彼女の姿はなく。


 恐るべき早業で座敷を横断していた八千草は、すでに抜き身の直刀を手にしていて。


「ああ、鍋がぁ」


 ぼやいたときには、巨大な汚泥の掌は縦に断たれていた。井澄の両脇に、分かたれた汚泥が降り注ぐ。頭は腕でかばったが、わずかに皮膚に付着したか井澄の左親指に痛みが走った。


「痛っ、まずった」


「おい井澄、かかってしまったのかい」


「ええ……まだ、なんともないですが」


 と返したものの、じわじわと焼けるような痛みにさらされる。親指は井澄の投擲とうてき術である〝指弾しだん〟と〝羅漢銭らかんせん〟において要となる部分なので、文字通りに手痛い負傷である。目ざとく傷を見つける八千草は嘆息ひとつ、刀身の汚れを懐紙で拭いながら、言葉をかけてきた。


「お前にしては珍しく油断したようだね」


「え、むしろ油断していた八千草をかばったからかわしきれなかったんですが……」


「……そうなの?」


「はい」


 痛みのほか、鍋蓋で汚泥の突撃を防いだ際のしびれが残る腕をぷらぷらさせながら言えば、八千草は頭を掻いて困り顔だった。


「あとで埋め合わせする」


「はい」


 言質取ったった、と内心で握りこぶしを掲げながら平然とした様子で井澄は立ち上がる。そして厨房の隅で震えていた四方田に近づき、上から声をかけた。

 すくみあがって、彼は井澄を見上げた。


「さて、四方田さん。あなたやはり、と言いましたね。こういう懸念があったのなら、先に言ってもらわねば困ります」


「い、いや……ちげえんですよ、以前はここまで、乱暴じゃなかったんです。ただ鍋の中身が腐るばかりで、あんな化け物みてぇなのが出るなんてことは」


「おい、腐るとは知ってて出してきたのかい……運悪く口に入れてしまっていたら店主、それこそぼくがあなたを三枚におろしてやるところであったよ」


「なんにせよ食事の瞬間を見逃さず攻撃してきたわけですから、相手もここが見える位置にいるのでしょう……八千草はここで、店主の護衛をお願いします」


「お前が追うのかい」


「『術師が相手ならば』、私のほうが有利な場合も多いかと」


「では任せる」


 許可を得て、すぐさま二階へ移動する。


 座敷を駆け抜け、障子を開いて窓の桟に足をかけると、くるりと身体を反転させて屋根の端をつかみ身体を持ちあげ上にのぼる。


 通りを一本離れているが、ここも西汽通りと同じく家々の屋根と屋根の間には大きな布が渡されている。その隙間から店内を見通すことのかなう、向かいの家屋の屋根に男が一人立っていた。


 男は井澄を見て、少しの驚きと落胆を混ぜたような声を漏らした。


「……おや、生きている」


「おあいにく様、私どもの運が良かったようで」


 左手をポケットに納めて負傷を隠しながら、井澄は韜晦とうかいして言った。


 男は目の下と額に寄るしわから察するに、店主の四方田よりは歳いった、中年と初老のなかほどと見える外見である。白髪混じりの黒髪を散切りにしており、痩身に洋装の赤茶けたシャツとチョツキを着こなして悠然と構えていた。


「あなたも雇われ、ですね」


「ああ。同業の人間が来たと思い、加減せず応じたまでだよ。まさか無傷とは」


「こちらも多少は場数を踏んできておりますゆえ……どうも、西洋骨董取扱処〝アンテイク〟の沢渡井澄と申します。本日は御守りの業務にて、対峙する運びとなった次第」


「ほお、〝アンテイク〟の……」


 名を聞いて、男の顔色が変わる。アンテイクの――というより、店の経営者である〝仕立屋したてや〟の名を井澄の後ろに見ているのだろう。


 四つ葉の戦闘者たちの中でもある程度歳いった人間にとっては、さいきんになってようやく仕事を得始めた井澄たちよりもまだまだ過去の偉人としての仕立屋の名が印象深いのだ。


 靖周などがこう聞けば不満げな顔をしそうだが、井澄はさほど気にならない。敵があなどってくれるのならむしろありがたいところだと思っている。


 しかし男は、あまり油断した様子もない。ただのんびりと背に手をまわして、なにか得物武器をつかもうとしている雰囲気がある。


「結局、こちらはおひとり様かな?」


「残念ながら」


「そうか、では我が相棒のほうがお嬢さんの相手かね」


 言って、男が階下へ目線をきると同時。ぶつかり合う互いの得物の残響が、二重にこだました。


 下から響いてきたのは剣戟の音だと予想のついていた井澄は、男から目を逸らしていない。そしてもうひとつの残響は、階下より打ち合わされる鋼の削り合いに浸食されて消える。


 男の足元に硬貨幣が落ち、じつに嫌そうな顔が井澄に向けられた。


「っと、余裕を見せる暇を与えてくれないね」


「戦闘中によそ見するほうが悪いでしょう」


「これは然り」


 視線が逸れたと認識した瞬間、右親指で弾いた硬貨幣で男の喉笛を狙ったのだが。素早い反応で彼の得物に弾かれた。


 チョツキの背に隠し持っていたのであろう彼の得物は、柄を長めに作ってある――底の抜けた柄杓であった。なぜ柄杓、とこちらはこちらで拍子抜けしてしまいそうであるが、油断せず右半身に構える。男は表面上にこやかに取り繕うと、井澄に賛辞を贈った。


「けれどきみもなかなかやるな。仲間の心配よりも、眼前の敵の迎撃を選ぶか」


「仲間には心配より信頼を、と決めているので。それに早いとこ片付けて、私は肉鍋の続きがしたいんです」


「おやおや、食べ物を粗末にした恨みはおそろしいようだね」


 見当違いの方向について井澄が怒っていると判じたか、男は柄杓を差し向けながら肩をすくめた。


 井澄は八千草との食事を邪魔されたことについてこそ怒っているのだが、勘違いを解くのも面倒で硬貨幣をじゃらりと右手の各指の間へ挟んだ。


「では、仕留めます」


 屋根を蹴りだし、渡された布の上を井澄は疾走した。


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