3:往路という名の復路。

 汽車を待つ井澄たちに、彼方から汽笛の音が聞こえてきた。


 身を乗り出してみれば、二本並んだ線路の外側を、こちらに向かって走りくる車両の先端が見えた。


 大きく曲がった線路を蒸気機関の申し子が迫る。井澄は痰壺に吸殻を投げ込むと八千草のところまで戻って車両を待つ。


「今日は少し、遅れ気味の様子であるね」


 紙巻煙草シガレツの吸い殻を持っていた、黒い長手套に包まれた手を所在なさげにぶらつかせながら八千草は言った。柱の時刻表を見て金時計のほうを振り返ると、たしかに少々到着時間が遅れていた。


「六層のほうで何事か、問題でも起こったのやもしれないよ」


「どうでしょうか」


 井澄はホームの端まで寄って、線路と線路の間に見える下層をながめた。


 各層のステイション──正式な駅を有する場所は、一層から六層まで斜めの吹き抜けとなった四つ葉の中央部に縦に並んでいる。


 よって五層であるここから下を見れば、十間ほど下に六層のステイションの様子が見えるのだ。逆に見上げれば、四層以上のステイションと寒空を斜め下から臨むことになる。


 そのステイションの様子――たとえば六層などはまずもって、食糧などの生活必需品のほか降ろす荷は少ない――などを見れば、だいたいの生活水準も見えてくる。


 しかし別段下の層では、問題の起こっていた様子はない。


「首をとばされてしまうよ」


 と、八千草がアンブレイラの柄の曲がった部分を井澄の襟元へ引っかけ、引っ張った。井澄が首を戻したところで、汽車が走り込んでくる。

 黒光りする車体を徐々に速度落とし、ホームの幅いっぱいに全長を納めるよう、止まる。


 すぐに荷降ろしがはじまり、近くにいた井澄も少々手伝わされた。八千草がなにくわぬ顔で手伝いをすることもなく五両目のコンパアトメントに乗り込んでいるのが、窓越しに見えた。


 手伝いを終えてから同じ場所に乗り込むと暖かな室内、窓際に座っていた八千草の対面に座る。革張りの座席がある空間は、他人の家のような匂いがした。


「ごくろうさま」


「さほど重くもなかったので、いいですけどね。八千草は手伝う気がないようで」


「これから労働しにいくというのに、なぜ無報酬の労働をこなさなければいけないのか」


「いやでもさらに腹がすきましたよ。食事が楽しみです」


「空腹なんて調味料、ただで買って誰が得するんだい」


「私」


「この被虐趣味者め」


「う」


「……なぜ言い返せないのさ」


 言っているうちに、ごごんと全身を揺さぶる感覚のあとに、汽車はその身を駆動させた。


 少しずつ速度を増し、円形の吹き抜け、その外周の四分の一ほどを駆け抜けてさらなる加速を見せていく。初速を得るために要したこの四分の一の外周は一町半といったところだろうか。


 もちろんこれだけの距離では、十間は上にある次の層までの坂道を駆けあがることはできない。

 そのために汽車は四つ葉を縦断し、奥まで駆け抜けていく。直線を助走距離として用い、加速を得て上の層への坂をのぼるためだ。つまり線路は楕円形に螺旋の軌道を描いて四つ葉を貫いている。


「さて、また日陰か」


 八千草が言ったとき、吹き抜けからまた天井のある区画へと汽車が滑り込んでいく。日がかげったため窓に八千草が映ったので、井澄は景色を見るフリをして横顔を見つめた。


 彼女は、長いまつげをたくわえたまぶたを、しばたかせた。


「日がかげると、眠たくなってしまうねぇ……」


「アンテイクはいつもほとんど日が差してませんよ」


「だからぼくは日中も眠くて、仕方なく、夜に瓦斯灯ガスとうで読書をするわけであるよ。ふわぁあぁ……」


 あくびを手套の覆う掌に隠して、けれど眠気はかみ殺せなかったか。八千草はそっとまぶたを下ろした。


 次第に、うつらうつらしていく。井澄は景色を見るフリをして、八千草の横顔を食い入るように見つめた。


「……、」


 生唾を飲み込み、相手の呼吸をはかる。


 八千草は、すぅ、すぅ、と静かな寝息を漏らし始めた。これを見てとってさらに井澄は観察する。


 口元の下、小さなおとがいのさらに下……細く、手折ることすらできてしまいそうな、くびれた白磁を思わせる喉元。


 青くなまめかしく白い肌に映える血管、ではなく喉の動きを見る。


「……西洋の医学書いわく、就寝中の人は唾液の分泌があまりされないらしい」


 よって逆に、たぬき寝入りをする人は口中に唾液が溜まってしまうので、それを飲む動きがあることが多いという。


 じーっと、しばらくの間井澄は八千草を観察し続けた。だがしばし待っても喉の動きはなく、両手を足の間に重ね置いた様子は人形のように静止していた……もう大丈夫そうだと判断すると、八千草に気づかれぬよう、井澄は身を乗り出す。


 おとなしげな寝顔のもとへ。


 唇から漏れる、寝息の甘い吐息へと近づく。


 けれど車両が減速をはじめたところで、八千草はぱちりと目を覚ました。身をひるがえした井澄は、素早く八千草の横に座った。


「進行方向を背にして座っているとどうにも酔ってしまいそうですねははは」


「? いや、別段ぼくはなにも訊いていないけれど……ああ、そろそろ駅かな」


 こしこしと目をこすりながら八千草は言って、横で井澄は間の悪さを嘆いた。通路を歩く人と目があったので、八つ当たり気味ににらんで追い払った。


 汽車は四区を通り、しかし治安を考慮してさすがに五区までは届かず、四区最奥にて曲がる。すると窓から進行方向を見ていた八千草と井澄は、煉瓦と木材を積み上げただけのような粗末なホームを見ることとなる。


 曲所に近づくにつれ、脱線を防ぐための減速地点を示す表示板が複数出る。


 と、幾人もコンパアトメントを出始め通路が埋まった。


「今日は多いですね」


「運搬物をうまく盗めたやつがたくさんいるのかもしれないよ」


 八千草と井澄は、通路を埋める人を見て当て推量でものを言った。


 ある程度減速すると、一斉にホームに向かって、とんとんと人が飛び降りてゆく。反対のホームからは、人が乗り込んでくる。ごくまれに転ぶ人が出て団子状に積み重なることがあるらしいが、さほど速度が出ているわけではないため大けがする人間は出ない。


 そもそも大けがしたところで、それが騒がれるような人間ならばこんなところで乗り降りはしない。


 各層は、二区にある物流と人流を一手に担う正式な駅〝ステイション〟の他に、坂をのぼるための助走距離の中途にある曲所へこうした駅を設けている。


 もちろん公式に設置されたものではないため、ここから乗りステイションで降りようとすれば切符の不携帯を理由に通常の倍額を請求されることとなる。しかし四区以降の貧民街に住む人間はうまくやり過ごして手前で降りたりする。正直に料金を払うのは、三区以上の人間ばかりだ。


 かといって行政が無賃乗車を防ぐべくここへステイションを設置しても、治安が悪いため停車中に列車強盗に遭わないかなど、発生するのは利点よりも問題点が多い。結果として黙認されている形である。


「おっとぉ、こんなとこにいい席が。……よう、そこのにいちゃん。座る席がねぇもんだからよ、相席させてもらってかまわねぇよな?」


 よって、こんな連中も乗り込んでくる。


 伏し目がちに井澄が見ると、丸太のような腕をした巨躯の男たちが四人、薄汚れた着物姿でコンパアトメントに押し入ろうとしていた。通路を見ると護衛が二人倒れている。


 一両目、二両目といった、割増料金が必要となる一区民二区民御用達の車両ならば、暴漢や乱闘の対策として強力な戦闘技能を有した護衛が配されているものだが。割安な五両目では、運が悪ければだいたいこんなものである。


「ああでも俺たち四人いるしな。悪いんだけどそこの嬢ちゃん置いて、出てってくんねぇか」


「あん? でもここ四人用の席じゃねぇの?」


「だーかーらぁ、その嬢ちゃんには、順番に特等席だろ? 俺らの、う、え、に」


「悪くねぇな」


 げらげらと下卑た声で笑う。この笑い声が空腹に響いて癇に障ったか、背後の八千草から殺気を感じた井澄は片手を出して八千草の動きを制した。


 それから嘆息して、頭を抱えた。


 青筋の浮いた、こめかみを押さえて。


「……まあ、運が悪ければこんなものでしょう」


「ああ?」


 男たちは、着物の懐をはだけ、短刀を隠し持つのを誇示しようとした。なるほど狭い室内で取り回しの利く得物を用意したのは、評価できるが。


「ここは五層四区の北か……ああ、賭場帰りのおのぼりさんですね――」


 ――お気の毒さま。


 声をかけて、井澄の左手がふっと男の前に突きだされる。なにかを手繰り寄せるような動作で、手は井澄のほうへ戻される。そしてなにをされたか理解していない、呆けた顔の男に。


 手繰り寄せた手のうちにあった、男の右耳、、、、を投げ返した。男は呆けた顔で固まって、次の瞬間に目を見開き、人中じんちゅうという鼻の下の急所へと右手親指から放たれた硬貨幣コインを叩きこまれ気絶した。


 同時に、井澄はまた左手を握っていた。残る男三人の顔色が変わる。


 開かれた手のうちには、鼻が乗っていた。


「残る二人は唇と左耳で」


「福笑いでもやるつもりかい」


 まったく笑えないことを言いながら、溜飲の下がった様子で八千草が鼻で笑った。



        #



 二人は四層まで上がり、ステイションを抜けて助走距離の途中。曲所にある仮設駅で飛び降り四層四区へ辿り着いた。肉鍋屋があるのは、もう少し奥の五区である。


 降りたあとのコンパアトメントの床には四人の男が血まみれで横たわっているわけだが、車中での争い事は護衛が見ていないところではなかったことになる。よって男たちに護衛が倒されていたいま、刃傷沙汰になろうと問題はなかった次第だ。


「そういや傷口は、どうしたのだね?」


「〝どこにでもある短刀で削ぎ取られたような傷〟にしておきましたよ」


 物騒なことを話しあいながら、井澄は食事を早くとりたいと切に願った。無駄な運動を強いられたために、余計に腹がすいている。


「空腹は最高の調味料、だろう?」


「摂取し過ぎはいただけませんよ」


 言いながら、井澄は八千草の横を歩いた。彼女はころころと鈴が鳴るように笑い、ハットのつばを持ちあげて、頭上に設置された木製の案内板を見た。


 瓦斯灯で照らし出された表示には『五区・西汽にしき通りまで半里』などと書いてある。その表示と懐中時計を見比べて、ぽつりと漏らす。


「ふむ。頼まれた時間に少々遅れてしまいそうであるね」


「走りますか」


「道はわかるかい?」


「道なき道なら」


「ではそれで手を打とう」


 大きく伸びをした八千草の、前を井澄は走り始める。


 ジャケツの懐から出した手帳を見て、覚えているうちでなるだけ早く大通りに辿り着ける道を選び、霜月の寒風吹きすさぶ中を素早く移動した。


 道がわかるということは、それだけでこの四つ葉で生き抜くための力になる。


 特に四区以降の貧民街においては、立て替えや封鎖や縄張りの変化など、さまざまな要因で頻繁に道が変わる。動ける通路を知っているためには常時生きた情報が必要なのだ。


「少々ここから荒れますよ」


「わかっているさ」


 二つの意味で、道は荒れる。いや、町並みが人の気質を表すようになる、と言えばよいか。


 石畳で舗装された道はとうに終わりを告げていて、先に広がるのは砂ぼこりの舞う狭い道だ。人が三人、並んで歩けるかどうかという路地を抜けて、崩れ落ちそうになりながらも微妙な均衡を保っている建築物の横を過ぎて。


 正面を塞いで通行料をせしめんとする者を無視し、スリと当たり屋の連携を飛び越し、あっという間に大通りまで着く。むわっとした濃い人いきれが、井澄たちを包んだ。


「ん、ごくろう。道がわかる人間はやはり重宝する」


「諜報するからわかるんですよ」


「誰が上手いこと言えと。……まあなんにしてもいつ来ても、どんよりとした活気に満ちているものであるよ、この街は」


 息も切らさず井澄についてきた八千草は、赤い提灯に照らされた顔を、ゆっくりと左右に動かして言った。あまりきょろきょろすると、ここに慣れない人間だと判断されて盗人やら暴漢やらの対処に明け暮れることとなるためだ。井澄も辺りに気を配りながら歩きだす。


「なにも変わりなく。私たちの仕事が必要とされる空気ですね」


 西汽通りは五区においては大通りであるものの、二区にあるような広小路とはまったく趣きがちがう。


 まず道幅がそれほど広くはなく、家々の距離は六間(一間が約一・八メートル)ほど。両脇に並び立つ建物も二階建てがほとんどということの他は統一性なく、和洋なんでもござれのたたずまいをしている。


 そこに露店が多いため、道幅などは二間に満たず、しかも取り扱う商品には胡散臭いものや非合法のものが多い。


 赤提灯あかちょうちん雪洞ぼんぼりで薄明かりの下に所狭しと並べられた様子は、それでなくとも怪しげである彼らの商いをさらに怪しいものとしている。


 天までは、三区よりも低くなって五間弱。高くはない。そこへさらに家と家の間はそこかしこに大きなぼろ布を張り渡しているものだから、余計に薄暗く狭く感じる。


 これはたまにやってくる警察の手が露店に入れられそうになった場合、建物の屋根の上を逃れるとき見つからないための工夫──及び布を外して相手にひっかぶせることで時間稼ぎとなす手段だ。と、井澄は聞いたことがあった。まだ実際に現場に遭遇したことはない。


「二九九亭はもう近いね」


「そこの路地へ入って、次の通りに出たらすぐです」


 また、きゅーと奇妙な音を耳にしたが、さすがに井澄もなにも言わないことにした。


 ところが世の中には間の悪いときに間の悪いことを言うやつがいるもので、「可哀想に嬢ちゃん空腹なのそうなの僕と来ない、ごはんのあとで宿も用意するよ」などと要らんことを口にしたせいで、その男は路上に接吻させられた。井澄は見なかったことにした。


「……腹立つ、腹減る、腹立つ、腹減る」


 井澄は聞かなかったことにした。


 ようよう辿り着いた店は達筆かつ読みにくい筆致で『一六二』と書いた大きな看板を掲げているが、店自体はさほど大きくはなく、至って普通の小料理屋という印象を受けた。


「特別、嫌がらせを受けている様子などもないね」


「ここはたしか……ああ、〝赤火せっか〟なのか。つまり執り仕切っているのは〝白商会つくもしょうかい〟です」


 手帳をめくりながら井澄が言うと、ふうんと声を漏らして店の構えを観察した。対抗する〝青水おうみ〟の連中に被害を受けたのなら、あの荒っぽい集団の所業だ。もっと痛ましいまでに店が破壊されているはずだと思ったのだろう。ハットを外して頭を掻いた。


「まあいいさ。どんなところからであろうとも、頼まれれば御守りの役割を果たし、ときには……殺し屋殺しを遂行する。それがぼくたちであるからね。時間もちょうど、頼まれていた刻限だよ」


「では仕事を、」「始める前に腹ごしらえだ」


 言葉尻を切って落として、八千草は毅然とした態度で井澄の後ろにある店を見据えた。


「……でも刻限なんですよね?」


「食べながらでも護衛は務まる」


「いや、そりゃそうでしょうけど、でも話もうかがわなくては」


「話を聞きながらでも食事はとれる。そんなに真面目に仕事がしたいのなら、お前は食べずにさらなる調味料の高みにいくがいいさ」


「ごめんなさい私が悪かったです」


 謝罪の言葉とともに、引き戸を開く。


 花開くように香ばしさの中に甘さを思わせる匂いが漂い、中にいた店主と目が合い、


 次に井澄は、店主がこちらに突きつけていたまぐろ切り包丁に目がいった。


 目を見張る。


 白鞘から放たれた刀のようにしか見えない切っ先が、ちらちらと危うい光を帯びていた。


 よく見ると店主の目も血走っている。


「……ごめんなさい私が悪かったです!」


 またも謝ることとなった。

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