第68話 夕日の見える丘
「ローズを抱く気にはなれない」
妹以上くらいに大事にされるのと、女性として愛されるのとは、どうやら別のことみたいだ。
今度こそ、女性としての幸せを手に入れたいと思っていたのになぁ。
居心地の良いあの邸宅からも、卒業を待たずに出て行かないといけないのかもしれない。また、新しい居場所を作らなきゃ。今度は、知らない国に行くのも良いかもしれない。
「リョウ……」
リョウは、小・中学校の同級生で幼馴染だった。16のときにお互いの想いを打ち明け、付き合うようになった。
キスをしたのも、身体を重ねたのも、全部リョウが初めてで、唯一の男性だった。あまりにも一緒にいるのが当然のように過ごしてきたからか、嫉妬とか独占欲とか、そういった感情に振り回されることなんて、一度もなかった。
なにより、あの頃の自分には身体に傷なんてなくて――。リョウは、いつも大切な宝物を扱うように私を抱いてくれた。
普段は煙草を吸わない人だったけれど、愛し合った後、そっとベランダに出て一本だけ紫煙をくゆらすのが常だった。そんなリョウの広くて、でも、少し気怠そうな背中を、温もりの残るベッドの中から眺めるのが好きだった。
ローズに生まれ変わってからも、悩みがあるときにはよく、夕日を眺めた。
陽だまりの匂いのするリョウが、どんな悩みにも笑って答えてくれるような気がしたから。
でも――。どうやら今日は、きてくれないみたいだ。
厚い雲に覆われて、灰色の中にわずかに滲んだオレンジ色が地平線に沈むころ、
「あさひ、俺の役目は終わりだ。周りをよく見てみろ。相談できる相手は他にいるだろう?」
そんなふうに言われた気がした。
「嫌だよ。側にいてよ。やっと、ここまで頑張ってきたのに。これからも支えてよ」
「いつも見守っててやるから。でも、次ここに来るときは、悩みなんか持ってくんなよ? お前には、いつも笑っててほしいんだ」
「私を置いて逝っちゃったくせに、酷いよ。幸せになんて、なれっこないもん」
「一緒に幸せになりたいと思ってるやつが、いるんじゃないのか? 素直になれ。応援してっから」
「……」
「じゃあなっ! あさひ、頑張れっ!」
ヒュッと冷たい風が頬を撫でる。
ハッとして周りを見渡すと、黒い雨雲が立ち込めていた。
「あっ、馬……、帰らなきゃっ」
慌てて馬をつないでいた場所まで戻ると、大粒の雨がぽつぽつと落ちてきた。
人の気配がして驚いて振り返ると、フェルディナンが立っていた。
「えっ? ……どうして?」
「急いで帰るぞ。一雨来そうだ」
フェルディナンが先導してくれて、丘を降りる。雨がだんだん激しくなって、もう1メートル先も見渡せない。寒さで手がかじかんで、上手く力が入らない。フェルディナンに助けてもらいながら、なんとか丘のふもとまで戻って来た。
雨はさらに勢いを増している。
「今日は、ここで宿を取った方がいいな」
「はい」
ちょうど見かけた宿屋に、運良く空きがあった。フェルディナンが馬を預けに行っている間に、女将さんと話をする。
「随分、濡れちまったね」
「はい。……日帰りの予定だったのですが、雨に降られてしまって。兄と私の分の着替えを用意してもらうことは可能ですか?」
「ああ、旦那と娘のがあるから、貸してあげるよ」
「ありがとうございます」
「まあ、それだけ濡れてたら、先にお風呂に入っちゃった方がいいね。混浴だけど、今夜は他に客もいないし、貸し切りだからゆっくり浸かると良いよ」
「はい。そうさせて頂きます」
戻って来たフェルディナンにお風呂のことを伝えると、「先に入れ」と言われた。
「風邪をひくといけないから、一緒に入りましょう? お互い身体を見ないようにすれば、何も問題ないでしょう?」
「だが――」
「私なら、平気です。兄たちとも一緒に温泉に入ったりしますから」
そう言うと、先に扉を開けて脱衣所へ入り、服を脱いだ。水を含んだ服はずっしりと重たくて、まるで私の心のようだった。
ほんとうは、兄たちと一緒に温泉に入ったことなんてない。
けれど、フェルディナンを兄だと思えば、この胸の痛みも背中の古傷と同じように、雨がやんだら消えてなくなってくれるような気がした。
お風呂は半分露天になっていて、とても気持ちがよかった。湯船に浸かっていると、気配でフェルディナンが入って来たのが分かった。ザブザブと身体を洗う音がして、暫くするとローズから一番離れた場所でお湯に浸かった。
ずっと胸につかえていた言葉を紡ぐ。
「さっきは……迎えに来てくれて、ありがとうございました。それと、心配かけてごめんなさい。馬たちは、大丈夫だったでしょうか? 無理をさせてしまいました」
「馬は心配ない。それと、昨日は、悪かった」
「……何のことですか?」
「ローズを、抱く気にはなれないって言ったこと」
「……気にしていません」
「ローズ—―」
「でも……まだ暫くは、邸宅に住まわせてもらっても大丈夫ですか?」
「っ!! 当たり前だろう?」
勢いよく身体をこちらに向けて、力強くフェルディナンがそう答える。
「ふぅー。そっかぁ。良かったぁ。実は、直ぐにでも出て行かなきゃいけないのかなって思って、ちょっと落ち込んでたんですよ」
安心したら少しだけ涙が出てきたけど、湯気がうまく隠してくれた。
「ローズが好きなだけ、居てくれたらいい」
「あはは、嬉しいけど、そういうわけにはいきませんよ」
「……」
暫くするとフェルディナンは「俺はもう出るから、ゆっくり入れ」と言って出て行った。
身体が温まると、あまり時間をおかずに出ることにした。貸し切り状態とはいえ、一人でいるのが心細かったからだ。
先程は気づかなかったが、脱衣所に大きな姿見が置かれていた。思わず、背中の傷痕を確認する。痛みに加えて、痒みも出てきている。ツツッと指でなぞると、デコボコした感触が指先に走った。
「……やっぱり、醜いよね。抱く気になれないのも、分かる」
小さな独り言だったのに、誰もいない脱衣場に、意外にも大きな音となり反響した。その時、脱衣所の外でヒュッと息を呑んだ気配がしたことに、ローズは気づかなかった。
女将さんから借りたワンピースタイプの寝間着に着替えて、お風呂に入る前に外したネックレスを身につける。
脱衣所を出ると、フェルディナンがまるで見張りをするみたいに立っていた。
「えっ!? もしかして、見張りをしてくださっていたんですか?」
「温まったか?」
「はい。でも、フェルディナン様がすっかり冷えちゃったんじゃないですか?
すみません」
「大丈夫だ」
「フェルディナン様の『大丈夫』はあてになりません」
「大丈夫だ」
彼の『大丈夫だ』はあてにならないと知っている。
けれど、彼の発する言葉はいつも揺るぎなくて、私を安心させてくれる。そして私はいつも、そんな彼の『大丈夫だ』を信じて、甘えてしまう。
その後、自分の部屋に戻って濡れた服を干し、髪を丁寧に乾かしてからベッドの中に潜り込んだ。身体をくの字に曲げて、頭の上から毛布を被り、繭の中の蛹みたいになって眠る。真っ暗闇だが、お風呂で温まったおかげで毛布の中がほんのりとあったかく、まるで母の胎内に戻ったかのようで落ち着く。
ローズは物心がついた頃から、時おり、こうして心細い夜をやり過ごしていた。
「……ズ?」
「……だ」
「……俺だ。……ズ?」
雨音に混じって何か聞こえたような気もするが、厚い毛布に遮られてよく聞きとれない。しばらくすると、雨音が窓を打つ音だけになった。
すると今度はすぐ近くで「ローズ? 大丈夫か?」と声が聞こえた。
(えっ? フェルディナン様? ん……でもいいや。今夜は何だか疲れちゃった。もう寝ちゃおう)
「毛布、めくるぞ?」
「!?」
何となく起きるのが気まずくて、寝たふりをすることにした。わざと寝息を立てる。
「寝てるのか……」
ギシッとベッドが軋む音がして、マットレスが沈む。どうやら、フェルディナンがベッドに腰を下ろしたようだ。
大きく厚みのある手が、ローズの頭を優しく撫でる。
「ローズのこと、大事にしたいと思ってるのに。傷つけてばかりだな。ごめん」
(『ごめん』だなんて、初めて聞いた。いつも、『すまない』なのに)
いつまで経ってもフェルディナンが出ていく気配がなく、観念して寝返りを打つふりをして目を覚ますことにした。
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