諦めるのをやめた日
誰にも嫌われない姿を、誰かと共に歩む道を、世界を生きるための方法を。
腐敗公には欲するものがたくさんあった。そのどれもが、欲しては諦めてきたものだ。……だというのに、いきなり一足飛びでその上の目標を手に入れろと言われたのである。
自分で人の姿に、しかも嫁に旦那として見てもらえる……彼女の理想の夫に相応しい姿になれ。そう言われたのだ。
明確な目標が出来たことは、果たして彼にとって良かったのか悪かったのか。この時点ではまだリアトリスにもジュンペイにも分からない。
が、とりあえず授業を受けるに適した肉体にすることは出来たので、まあ良しとしたリアトリス。大雑把である。
彼女は目の前で崩れ落ちた旦那(仮)の気持ちからは無情にも一度目を背ける事にして、これからの予定を告げた。
「ま、まあいいわ! それでこの後の予定なんだけど……私は寝るから、その間に人間の体でいろいろ試してみなさいな。でもって私が起きた後だけど、最低限。本当に最低限の知識だけあんたに教えるわ。そしてそれが終わったら即移動よ」
「移動?」
首をかしげる腐敗公。今度は人の姿だったのではっきりとその様子が分かったリアトリスは、彼の疑問に答えるべくぴしっと人差し指を立てて述べる。
「こんなところじゃ、おちおち修行どころか住むことも出来ないわ。いい? 私は美味しいものを食べて、安心して眠れる場所で、清潔な服を着て過ごしたいの。だからあんたの本体がここにある限り拠点はここにおくしか無いとしても、魔族領でも人間領でもいいから、どっか別の修業場所を見つけたいわけよ」
「で、でも! 俺が行ったら、その場所がまた溶けちゃうだろ!? この紐? があるから、本体だけ置いてこの体だけ移動するとか出来そうにないし……」
「そこら辺はあんたが基礎を勉強してる間に、私が解決策を考えるわよ」
「……つまり今は何も考えてない、と?」
「そういう言い方もあるわね。だけど私は天才だもの。どうにかなるし、してみせるわ!」
胸を張って堂々と、きっぱり言い切ったリアトリスは微塵も自分を疑ってはいなかった。
先ほどの盛大な失敗はすでに忘れたようである。
「その自信は何処から湧いてくるんだ……。羨ましいよ……」
呆れながら……しかし何故か気づけば腐敗公は笑っていた。
(色々不安だけど……。今はお嫁さんを信じよう)
こういうのを「乗り掛かった舟」というのだろうかと、何処から湧いてくるのか分からない、使い方が果たして合っているのかも分からない知識に腐敗公ジュンペイはまた笑う。頼りになるのだかならないのだか、分からない船長だと。
眠りも必要とせず、食事も必要とせず、時間の流れも曖昧で、数百年生きた自覚も無かった腐敗公。
諦念に濡れた思考と生活の中に突如現れた希望は、あまりにも乱暴で鮮烈だった。
まだほとんど、腐敗公の悩みは解決していない。しかし彼女がやると言うのなら、やってくれるのだろうと信じ始めている自分に気づく。ならば自分もそれに応えようではないか。
諦めるのはもう、やめにしよう。
今まで与えられなかった可能性は示された。ならばそこに向かって突き進もう。
きっとどんな結果になろうと、自分は後悔しないだろうから。
ジュンペイはリアトリスに手を差し出した。そして満面の笑みを浮かべて告げる。
「これからよろしくお願いします、先生! ……そして、俺のお嫁さん」
「あら、改めて挨拶だなんていい心がけだわ。……ええ。よろしくね、旦那様」
リアトリスは差し出された手を、こちらはニヤリと笑って握りかえした。
この日初めて、腐敗公は人の体温を知った。
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