第5-34話 雨の中、恐怖の底
ニーナは眼の前を走るアヤに手を引かれながら、山の中を走っていた。
せめて足手まといにならないようにと必死に足を動かす。
ここ数日、ろくに食事を取れていないから息が上がって、視界がぐるぐると回る。
足は持ち上げようにも、重たくて重たくて、仕方がない。
それでも必死に、アヤの邪魔にならないように山の斜面を駆け下りる。
山肌は平坦じゃない。木の根がいろんなところから突き出ているし、石や雑草、苔があって滑りやすい。なにより踏み慣れない柔らかい土が走りの邪魔をする。
そんなことだから、簡単に転けそうになる。
倒れそうになる。疲れて座り込みたくなる。
「ニーナちゃん。もう少しだから!」
「……はぁっ、はぁっ」
先頭を走るアヤの言葉と、遥か遠くから聞こえてくる戦いの音。
その両方から責め立てられているような気がして、そんなわけがないのにニーナはもう一度、泣きたくなった。
しかし、泣くわけにもいかずにぐっと歯を噛み締めた瞬間、山肌を下りきった先にアスファルトの道路が見えた。見慣れた人工物に、ほっとニーナが胸を撫で下ろしたのと同じくして、アヤもゆっくりと息を吐きだした。
彼女がいなければ、自分は動けなかった。
それが分かっているから、ニーナは息を切らしながらそれでもお礼の言葉を紡いだ。
「……ありがとう、アヤ」
「ううん。気にしないで」
人を引っ張って山を下りたというのに、アヤはなんてことのないように微笑む。
そうやって微笑んでから、彼女は当たり前のように続けた。
「きっと、イツキくんならこうしたから」
真っ直ぐ、どこまでも真っ直ぐ彼女がそう言うと、少しだけきょとんとした顔になってから笑った。
「ううん。イツキくんだったらすぐにさっきの“魔”を祓っちゃうかも」
アヤの素直さに気圧されてニーナは「……そうね」としか返せなかった。
そうやって2人そろってしばらく呼吸を整えていると、いつまでも足の震えが止まらないニーナを心配して、アヤが口を開いた。
「ニーナちゃん。顔青いけど……平気?」
「………えぇ、平気よ」
アヤの問いかけに、ニーナは嘘をつく。
嘘をつくしかないのだ。
これ以上、心配をかけないために。無能だと思われないために。
今だって本当は立っているのが精一杯だ。
すぐにでもその場に座り込んで、何も見ないよう目を瞑って耳を塞ぎたくなる。
モンスターを前にして、平気なわけが無い。
怖い。怖くないわけがない。
モンスターはいつだって自分たちの想像の上をいく。遊園地を地獄にして、学校のみんなの意識を簡単に奪ってしまう。そうして命に
目を瞑れば、簡単に思い出すことができる。
ジェットコースターのレールに人間の内臓がドレスコートのように並べられて、そこからこぼれる小腸をジャングルの
メリーゴーラウンドの支柱を貫いて自分と同じ年齢の子どもたちが、その子どもの親の手によって
熱で支柱から外れた観覧車を巨人たちが振り回して逃げ惑う家族を1人1人潰していくのを。
そして、それを守ろうとした父親が成すすべもなく眼の前で殺されたことを。
その全てがまるで現実だと思えなくて、悪夢みたいで、どこか
もし自分の前で
悲しくて仕方がなくて、やりきれないはずで、自分は笑いたくなんてないはずなのに、それでも口角が持ち上がってしまうんじゃないかと思ってしまう。
それが、恐ろしい。
しかし、そうやって恐怖に震えるニーナとは違い、アヤは自分たちが先ほど下りてきた山肌を見上げてから、ぎゅっと拳を握りしめた。
「ごめん。ニーナちゃん、私そろそろ行くね」
「……行く? どこへ行くの?」
「さっきの“魔”のところ。戦うのは私じゃなくて氷雪公女だけど」
どうして、なんて聞かなくても分かる。
氷雪公女は
生半可なモンスターであれば、簡単に祓ってしまえる。
宗一郎ですら苦戦するようなモンスターなら、絶対に助力したほうが良い。
そんなことは、ニーナだって理解できる。
理解できないのは、アヤの心境だ。
だから、尋ねた。
彼女の思いを、心の内を。
「アヤは、怖く……ないの? 死ぬかも知れないのに」
「ニーナちゃんはイツキくんと初めて会った時のことを覚えてる?」
しかし、返ってきたのは全く違う問いかけでニーナは面食らいながらも、答えた。
「……覚えてるわ。小学校の、入学式。イツキの凄さはママから聞いてたから、初めて会った時は、すごく驚いたの」
ニーナの返答にアヤは頷くと、
「私はね、三歳のとき。『七五三』の時にイツキくんと会ったの。最初は、人見知りだったから怖くて……お話なんてできなかった。でもね、イツキくんと一緒に魔法の練習をして、魔祓いにも一緒に行って、そうやってだんだん将来は一緒に祓魔師になるんだなって思ったの」
「…………」
「でもね五歳の時……第五階位の“魔”と戦ったとき、イツキくんは私を置いて1人で“魔”と戦いにいったの。私は置いていかれて、ずっと、待つことしかできなかった」
「………………」
「それが、いちばん怖かったの。イツキくんが死んじゃうかも知れないって思って、それでもパパや宗一郎さんみたいに戦うこともできなくて、私はずっと待つことしかできなかった」
流れるように語る言葉に、ニーナは何も返せなかった。
「私は、いまでも夢に見るんだ。あの夜……何も出来ない私のせいで、イツキくんが死んじゃう夢を」
「……イツキは」
死なない。
そう言いたかったのに、それ以上の言葉がニーナの口からはでなかった。
イツキが死ぬかもしれないなんて、ニーナは
「だからね、ニーナちゃん。私だって怖いよ。でも死ぬのが怖いんじゃなくて、イツキくんに置いていかれるのが怖いの」
その瞬間、アヤの纏っていた空気が変わる。
「ごめん。もう、行くね」
ぱきり、と霜を踏みしめる音がする。
そうしてニーナが一呼吸をした間に、白銀の妖精はすでに目の前から消えていた。
その冷たい魔力を頬で感じながら、ぎゅ、とニーナは自分の袖を握った。
アヤは、祓魔師になれる。
それは昔、ニーナが成りたくて、でも成れないと思ってしまったものだ。
「……私は」
父親や、母親のように、人を助ける正義のヒーロー。
人前には立たず、それでも裏から人を救う影の英雄。
そんな、誇り高い存在に憧れた。
けれど、今の自分はそうではない。
魔法を使えず、モンスターを前にして足が震え、誰かのために魔法を使うことすらできない。そんな存在が
「…………私は、どうすれば良いの」
誰も答えてくれない代わりに、風がそっとニーナを撫でた。
その瞬間、服の纏っていた匂いが――甘く香る、仙境の匂いがニーナに届いた。
……イツキは、戻ってきただろうか。
がんがんと、頭の中にアヤの言葉が反響する。
アヤはイツキが死ぬ夢を見るのだという。そんなことなんて、考えたことがなかった。イツキはいつだって強くて絶対に死なない、そんな特別な存在なのだと思っていた。
けれど、そうじゃないのだとしたら。
自分のせいで、イツキが死んでしまうようなことがあったら。
眼の前で父親が自分をかばって死んだように、イツキが死んでしまったら。
それを自分は、許せるのだろうか。
「……許せ、ないわ」
息を吐き出して、拳を握りしめる。
その怒りに反応するように、淡く……彼女の服に染み込んだ仙境の魔力に溶け込んでしまいそうなほどの淡い魔力が、ニーナの身体からわずかに溢れた。
それは、本当に無意識だった。
けれど長い間、ただ祓魔師になりたいがために積み上げてきた妖精魔法の技術を彼女は無意識でなぞり――そうして、生まれたのは紫色のモヤだった。
妖精にも成りきれない紫色のモヤは、ぶるり、と震えるとニーナに語りかけた。
『怖いのね、ニーナ』
「……そうよ、怖いの」
ずっと、恐怖があった。
『どうして、怖いの?』
「……死ぬかも、しれない」
『誰が?』
……誰が?
おかしな質問ね、とニーナは思った。
「イツキが、みんなが……私のせいで、死ぬかも知れない」
声が震える。足が震える。
それを想像しただけで、泣いてしまいそうになる。
『ちょっと、ニーナ。勝手に悲劇を気取るのは良いんだけど……あなたのせいで人が死ぬの?』
「……?」
『だから、
ふわり、と紫色のモヤが揺れる。
言葉を失ったニーナは、紫色のモヤを見ることしかできなくなる。
『誰が人を殺すの? 誰があなたを殺すの? 何が悪いの? 誰が悪いの? それ、本当にあなたのせいなの?』
妖精が膨らむ。笑っているのか、怒っているのか。
そのどちらか、ニーナには分からなかったが感情が高ぶっていることだけは伝わってきた。
『馬鹿じゃないの。悪いのは
優しく、紫色のモヤがニーナに語りかける。
『敵を見誤ってはダメよ、ニーナ』
当たり前だ。そのモヤは彼女だ。彼女自身なのだから。
『祓魔師の敵は、自分じゃない。あなたじゃない。1つ。たった1つ。ずっと1つ。本当は、分かっているんでしょ。ニーナ』
「…………それは」
もう、分かっている。
「私が怖いのは……モンスターが、祓えないこと」
『そうよ』
妖精が、肯定する。
相手は自分だ。隠すことはできない。
隠すようなことなんて1つもない。
「祓うための、力がないこと」
『ええ』
「モンスターを、殺せないこと」
『
妖精の言葉に、ニーナは握りしめていた手を開いた。
開いた瞬間、世界が広く見えた。
仙境の濃い魔力が身体の隅々にまで行き渡って、燃焼して、研ぎ澄まされているような気がした。
今なら、どんな魔法だって使える。そんな気がする。
『全部分かってるんだから、することはもう決まっているでしょ?』
「……うん」
妖精の言葉に導かれて、ニーナは魔力を精錬した。
『
「……モンスターを、殺すのよ」
ニーナの決意に応えるように、竜の咆哮が
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