幕間

幕間 梅雨、放課後、春霞

 雨が好きだ。

 まず何が良いって音が良い。あの拍手のような、ざぁざぁとした音が良い。

 それを聞いてたら、まるで自分が一人みたいに思えるから雨が好きだ。


 雨が好きだ。

 何が良いって空がどんよりとするのが良い。あの灰色の、一色では塗れないような色が良い。

 それを見ていたら、まるで自分の心よりも汚いものがあると思えるから雨が好きだ。


 雨以外に、好きなものがある。

 放課後の図書室。買ったばかりの新品の本の匂い。新しいシャー芯の書き心地。

 私の世界には、それだけあれば良いと思う。


 だから、雨の日の放課後はこうして1人。図書室で本を読む。

 それが私の贅沢だ。


 しかし、それが長く続かないことを私は知っている。


「真島さん。悪いんだけど、これ片付けておいてね」

「……あの、先生」

「なに?」


 どん、と私の机の上に置かれた本を見ながら私は読みかけの本を閉じる。


 そして、担任を見た。


 30後半の、独身女性。

 香水の匂いがツンと鼻をつく。

 私の嫌いな匂いだ。


 動物が威嚇しているみたいな派手な化粧が目につく。

 私の嫌いな色だ。

 

 でも彼女を嫌っているのは何も私だけじゃない。

 彼女も私を嫌っている。


 学校に、クラスに馴染めない私を毛嫌いし、異質なものを排除しようとする野生動物のように私を排除しようとしていることを知っている。


 けれど、それを言葉にしないくらいには互いに良識を持っている。と、思う。


「先生。私、今日は急ぎの用事があるんです」

「別に良いじゃない。だって真島さん図書委員だし、用事って言っても本読むだけでしょ?」


 それだけ言って、担任は私の机に本を乱雑におくと職員室に戻っていった。


 ふざけてるな、と思う。


 私は知っているのだ。あの担任はクラスの中で動物園の猿みたいに騒ぎ立てる男子生徒が持ち込んでいる校則違反のスマホを見逃していることを。Tiktokに恥ずかしげもなく踊ってる動画を載せちゃうような女子生徒が持ち込んでいる校則違反のお菓子の数々を見逃していることを知っている。


 だが、私にはこうして強く言ってくる。

 言っても良い相手だと思っているのだろう。


 机の上に置かれた本を無視して帰っても良かったけど、私の好きな場所が私の嫌いな人間に汚されるのが嫌で仕方なく片付けた。片付けるのに、思った以上の時間がかかってしまった。


 時計を見ると17時30分。


「……30分も過ぎてる」


 いつもだったら17時に帰ってるのだが、今日ばかりは本を片付ける場所を探すのに手間取ってしまった。

 そろそろ帰らないと行けない。


 帰らないとあいつが来る。

 鞄を持って図書室から出たら、最悪なことにそいつが立っていた。


 真っ黒い服。カエルみたいな巨大な瞳。

 指先もカエルみたいなのに、二本足で立っていて身長は190cmくらいある不気味な男。


 明らかにヤバいのに、私以外の誰にも見えていない。

 だから見えない振りをしている。


『ま、真島ちゃァん……。み、み、見てたよぉ……。あ、あぁ、あの女が、真島ちゃんに本を投げるところぉ……! 許せないよねェ……! 真島ちゃんがあんな行き遅れのババァに下に見られるなんてあっちゃダメだよねぇ』


 耳元で囁かれる。我慢。

 黙って鍵を締める。振り返る。


 カエル男を見えない振りして隣を抜ける。


『こ、殺そうよ。あの女。殺しちゃおうよ。ねぇ、真島ちゃんはそうしたら幸せかなぁ? ねぇ、真島ちゃん。真島ちゃんもそう思うよねぇ』


 支離滅裂な言葉をいうこの男が私の前に現れたのは1ヶ月くらい前のことだった。


 あの日も今日と同じような雨が降っていて、今日と同じように本を読んでいた。

 放送部が下校の放送を流し始めたので、私が図書室を後にしたらそいつがグラウンドに1人立っていたのだ。


 不審者かな、と思って見ていると目があった。


 それが不幸の始まりだった。

 こいつはどこからともなく現れて、どこからともなく消える。


 だから、なるべく刺激しないのが一番だと思った。

 だって放課後にすれ違った女の子から『あいつ臭くない?』と言われた時に、怒ったこのカエル男がその女の子をおたまじゃくしにして、窓から投げ捨てたのだ。


『カエルの子はカエル。じゃあ、クズの子は、く、く、クズ! 消えれば真島ちゃんは幸せ。はっぴー!』


 今と全く同じことを言いながら。

 

 意味がわからなかった。警察は行方不明として処理していた。


 なんだか良く知らない先生が1人増えたけど、その人はその女の子が行方不明になった原因が私にあるんじゃないかと思ったらしい。色々と嗅ぎ回られて、その人もおたまじゃくしになった。


 だから私は何も見ないことにした。

 目を塞いで、耳を塞いで、ただ自分の好きなものだけを考える。


 雨の音。放課後の図書室。新品の本の匂い。新しいシャー芯の書き心地。

 他には何も要らない。


 人の悪意も、不気味なカエル男も。

 何もかも要らない。私は私の好きに囲まれていたい。


 職員室に図書室の鍵を返しに行くと、担任は今年入った新人の先生を叱っていた。

 周りに見えるように、聞こえるように叱っていた。


『う、うひゃあ! や、やっぱり殺そうよ。殺そう。そしたら、真島ちゃんは幸せだぁ!』


 カエル男の言葉を全て無視して私は職員室を後にする。

 鞄の中から折りたたみの傘を取り出して、エントランスで靴を履き替えた。


 雨は良い。

 雨が好きだ。


 世界に私1人だけの気がするから。

 カエル男も悪意をぶつけてくる人もいない。

 私だけの世界の気がするから。


 そう思って校門から出たら、別の不審者が立っていた。

 頭はナメクジ……だろうか。それともカタツムリだろうか。


 にゅっと突き出た巨大な瞳がカエル男と私を見た。

 その異常な光景に思わず私は立ち止まってしまった。不気味な男と目があった。


『や、やっぱり、ま、ま真島ちゃんは見えてるんだねぇ! 俺たちが!』


 私の隣にいたカエル男が叫ぶ。


 まずいと思った。

 なんでこんなところにもう1人変なやつがいるんだと思った。


 私は思わず傘を捨てた。

 逃げないと、と思った。


 どこに逃げれば良いか分からないけど、とにかく逃げないといけないと思った。


『せっかく守ってやったんだからさぁ! 真島ちゃん! お、俺の子供生んでよ! おたまじゃくし! たくさんのおたまじゃくし! ちょっと季節は外れちゃってるけどさぁ! クラスメイトたちの脳みそを田んぼにしてぷかぷか卵を浮かせようよ! そ、そしたら俺がはっぴー!』


 雨粒が身体を叩きつける。

 後ろから伸びてきた手が私の肩に触れる。見ればそれはナメクジ男だった。

 ぬるりとした感触。思わず鞄を投げつけた。


 それにナメクジ男が怯む。

 その隙をついて、逃げ出した。


『あっ、お、お前! 俺が先に目をつけたんだぞ! 俺の真島ちゃんだぞ!』


 カエル男の声が聞こえる。

 後ろから走って迫ってくる足音が聞こえる。


 嫌だ。嫌だ。何なんだ。

 私は運動が嫌いだ。だから足も遅い。

 逃げ切れないなんて分かってる。嫌だ。捕まりたくない。


 助けてほしいのに、誰もカエル男が見えないから必死で走る私だけを見る。

 私だけが好機の視線にさらされる。


 何もしてない。

 ただ校庭で目があっただけだ。


 目があっただけなのに、どうしてこんなことに。


「うわ……ッ!」


 ただでさえ走りにくいローファー。

 雨で塗れた道路。そして、マンホール。


 それに滑ってしまって、思わず倒れた。

 とっさに伸ばした手では衝撃を受け止められなくて、前に一回転がった。制服が汚れるのが分かった。周りの人が変な目で見るのが分かった。


 空には大粒の雨が降っていた。


「……やだ」


 カエル男の足音。ナメクジ男の貼って来る音。

 迫ってきている。分かる。もう逃げられない。


 雨に紛れて、涙が溢れる。


「あの……」


 声が聞こえた。

 そこにいたのは小学生だった。


 黄色い傘をさして、黒いランドセルを背負っている小学生。


「……大丈夫?」


 顔は幼い。小学1年生か、2年生。

 周りの誰も声をかけてくれないのに、小学生の男の子だけが声をかけてきてくれたことに思わず涙がこぼれた。


「うん。大丈夫。ちょっと、こけただけだから」

「あ……。えっと、そっちじゃなくて」


 小学生の子が首をかしげる。

 その視線の先には二人の男がいる。


『ま、真島ちゃん! ダメだよ! これから身重になるんだから、身体は大事に』


 カエル男の声が途切れた。

 途切れたのではない。首が無くなったのだ。


 まるでそこだけコンパスで削ったみたいに、綺麗な丸を描いて、すっぱりと。


 その隣りにいたナメクジ男の目が伸びた。

 伸びた瞬間、ナメクジ男の身体が真っ二つに割れた。


 そして、二人そろって黒い霧になって消えていった。

 

 死んだ。あっけなく、カエル男たちが死んだ。

 なぜだか分からないけど、それが分かった。


「これで全部かな」


 ぼそり、と小学生の男の子が呟く。


「お姉さん。足、大丈夫?」

「え、う、うん……。大丈夫、だけど……」


 そう思って足を見たら怪我が無くなっていた。

 

 ……さっきまで、血がでてたのに?


 内心、疑問に思う私をその小学生の子は手を差し出して起こしてくれた。


「あ、ありがとう……。ねぇ、さっきのって……」

「さっきの?」


 純粋そうに男の子が首を傾げる。

 この子はカエル男が見えてたと思ったんだけど、気のせいだったのかな。


「危ないから滑らないでね、お姉さん」

「う、うん。あ、ちょっと待って!」


 私を起こして帰ろうとする小学生の子を呼び止めた。


「君、名前は何ていうの?」

「僕? 僕の名前はイツキ」


 その子は黄色い傘を掲げて、言った。


「如月イツキだよ」


  好きなものが1つ増えた。

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