5,1 マンデラ効果 Alternative・破
「ファンタ・ゴールデンアップルの”存在しない記憶”ねぇ」
先輩は顎に手を当てて考えこんだ。
これは先輩の定番のシンキングスタイルだ。
ぼくは依頼人からもらったファンタを一本あけて飲みつつ、依頼内容とネットで収集した情報を説明した。
「ネットで調べてみたんですけど、日本コカ・コーラ社は1970年代にゴールデンアップルというフレーバーを販売していないって明言してるんですよね」
「公式回答があるってことはそれが結論じゃねえか」
「そうなんですけど、実際依頼者のお父さんとその周囲だけじゃなくて、ネット上でも確かに記憶にあるって主張する人がたくさんいるみたいなんです」
「なるほど――”マンデラ効果”だな」
「マンデラ効果? マンドリルの仲間ですか?」
「ああ、哺乳綱霊長目オナガザル科マンドリル属に分類される霊長類――じゃねえよ」
「おおー、先輩の伝家の宝刀ノリツッコミだ」
ぼくはパチパチと手を鳴らした。
先輩は顔を赤らめて「やめろ、ハズい」と言ってから続けた。
「マンデラ効果ってのは、”事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している現象”のことだ。学術的な用語ではなく、あくまで
「はえー」
「マンデラというのは、1990年代の南アフリカ共和国で大統領を務めたネルソン・マンデラという人物に由来する。不思議なことに、彼が1980年代に死亡したという記憶を持った人間が多数確認されたんだ」
「えっ、ちょっと待ってください。おかしくないですか? 90年代に大統領になるくらいの有名人が、80年代に死んでいたって。そんな記憶――」
「そう――ありえない。”存在しない記憶”ってわけだ。コカ・コーラ社から公式に否定されたファンタ・ゴールデンアップルと同じだろ?」
「確かに……」
不思議な話だった。
当時存在しなかった炭酸飲料のフレーバーの記憶。
当時生きていた人の、訃報の記憶。
”存在しない記憶”。確かにその人にとって存在しているのに、どうして?
「他には、ないんですか? その……
「そうそう、密教で描かれた絵画のことな――って曼荼羅じゃねえよ。マンデラ効果だ。わざと言ってんだろ」
「テヘペロ♡ 先輩のノリツッコミが見事だったので、つい♡」
「こいつ……っ」
先輩はわなわなと肩を震わせながら続けた。
「日本で有名な”マンデラ効果”の例といえば『天空○城ラピュタ』の別エンディングだな」
「別エンディング? そんなのあるんですか?」
「あったと主張する人が少なくない数いるんだよ。久々に『ラピュタ』を見たら、公開当時に劇場で見た時とエンディングが違ってるって具合にな」
「不思議ですね……」
「もちろんスタジオジブリ公式は否定している」
「それもマンデラ効果……ですか」
公式に否定されていても、その記憶を主張する人が確かに少なくない数存在する。
この依頼文も、先輩の話も確かに考えれば考えるほど奇妙だった。
「どうしてこんなことが起こるんでしょうか?」
「一説には、パラレルワールドの影響と言われている」
「ええっ、いきなり壮大な話になりましたね! どういうことなんですか?」
「パラレルワールド説ってのは、この世界は些細な違いによって無数に分岐していく構造であるという仮説に基づいている。そんな中で別のパラレルワールドの記憶が混入してしまうことが起こるってこと……らしい」
先輩の言うことは相変わらずちんぷんかんぷんだった。
「ええと、つまり……ファンタ・ゴールデンアップルのある世界と、ファンタ・ゴールデンアップルのない世界の2つがあって、この世界は後者だけども、前者の記憶を持った人間が複数いるって――そういうコトですかぁ!?」
「そんなとこだ。
「ホントに壮大な話ですね……」
「他には、タイムパラドックス説だな。タイムトラベラーが過去に干渉し歴史が改変された影響で、”改変前”と”改変後”の記憶を持った人間が混在してしまうという仮説だ。パラレルワールド説と類似しているが」
「タイムトラベラーが来る前はゴールデンアップルはあったけど、タイムトラベラーが過去の歴史を改変した影響でゴールデンアップルの存在しない歴史に切り替わった。だけど、一部の人はゴールデンアップルの存在した歴史を覚えていると……」
「ああ、面白いコト考えるよな」
先輩はケラケラと笑った。
どうやら、先輩自身はあまりこれらの説を信じていないらしい。
「先輩はどうして”マンデラ効果”が起こると思うんですか?」
「記憶違いだろ」
「はへ?」
あまりにさらりと答えるものだから、間の抜けた返答をしてしまった。
先輩は念押しするようにもう一度言った。
「記憶違いだろ。人間の記憶なんて、いいかげんなモノだからな」
「そ、そんなつまらない理由で!?」
「ああ、真実なんて、蓋を開けてみればつまらないモノだ。さてと、そろそろ”謎解き”の時間だ」
そう言って先輩はぼくのスマホを覗き込んだ。
そして「コカ・コーラ社が70年代に発売したフレーバーを調べてくれ」と言った。
検索すれば簡単だった。50年代に発売されたのが”オレンジ”、”グレープ”、”ソーダ”。
そして70年代に追加で発売されたのが”アップル”と”レモン”、そして”ゴールデングレープ”。
「え……?」
何かひっかかった。
70年代、アップル、ゴールデングレープ。
「やはりな」
先輩は言った。
「70年代に発売されたアップルは今でも発売されている。お前が今まさに持っているそれだ。金色の定番炭酸飲料だな」
「た、確かに」
「そして70年代には”ゴールデングレープ”も発売されていた。通常のグレープとは色が違い、アップルと同じ金色ってことだ。一見、アップルと混同してもおかしくない」
「同じ70年代に登場した同じ色の2つのフレーバー……」
「色の類似する同時期の2つのフレーバーの名前と記憶が混同した結果生まれたのが――」
「1970年代のファンタ・ゴールデンアップルということですね!」
「その通り」
なんというか。
スッキリした。先輩の言う通りだと思った。
ぼくは1970年代には生まれていない。
だから過去を自分の目で確かめることはできないけれど。
先輩の説にはかなりの納得感があった。
「そもそも人間の脳は、現実そのものを認識するようにはできていない」
「? どういうことですか?」
「例えばこういう文章がある」
先輩はメモ帳にさらさらと文章を書いてぼくに見せた。
『にげんんは こんな デラタメな ぶうんでしょも さしょいと さごいの もさじえ あって いれば よめて しまう もなんのだ』
「口に出して読んでみろ」
「えっと、『人間はこんなデタラメな文章でも最初と最後の文字さえ合っていれば読めてしまうものなんだ』ですか?」
「そうだ。メチャクチャな文章だが文節の最初と最後が合っていれば案外スラスラ読めてしまう。”タイポグリセミア”という現象だ。これもマンデラ効果同様、学術的な用語ではなくあくまで
「事実じゃなくて、自分が補正した形に認識してしまう……そういう人間の認知特性が、”存在しない記憶”を生み出したというコトなんですね……」
「おそらくは、な。とはいえ結局俺たちはその時代に生まれていないし、過去に戻ることもできないから、確かめることはできない。何かを存在しないと主張すれば、それは“悪魔の証明”になる」
先輩はそう結論付けた。
ぼくも異論はないし、今回の謎解きは決着かな。
そう思ったときだった。
「やあお二人さん。今日も
男性がぼくたちに声をかけてきた。
学園の用務員さんだ。「こんにちは」ぼくの挨拶に続いて先輩も「どうも」と軽く会釈した。
彼は汗だらけだった。それはそうか、暑い時期だというのに、校舎周辺の環境整備の仕事をせっせと真面目にこなしているのだから。
「あの……よかったらファンタ、いります? 一本まだあけてないので」
ぼくは飲んでいた方とは違う、新品のほうのファンタのペットボトルを用務員さんに向かって差し出した。
彼は「いいのかい。悪いねぇ」と言って受け取る。グビグビと喉を鳴らして、いい飲みっぷりだった。
「ぷはぁ! 炭酸飲料なんて年取ってからあんまり飲まなくなったけど、久々に飲むと美味しいねぇ。昔飲んだヤツを思い出すよ」
「お口にあってなによりです。お仕事お疲れ様です」
「ははは、最近の若い子は礼儀正しいねぇ。学生さんが気持ちよく青春できるのが僕にとってもなによりだからさ。気にせず大いに楽しみなよ。それにしてもこれは”アップル”か。昔のファンタに、”ゴールデンアップル”ってのがなかったかい? 瓶に入っててねぇ、何度か親父に買ってもらって飲んだのを覚えてるよ。アレは
「え……?」
「おっと、年取るとすぐ自分語りだ。悪いね、若い二人の邪魔にならないようにおじさんはそろそろ退散しますよ。ごちそうさん」
用務員さんは手を振りながら歩いていった。
「……コイツは、迷宮入りかもな」
先輩は呟いた。
「ですね」
ぼくも同意する。
先輩もぼくも、身近な人の体験談に勝る根拠はないと思ったんだ。
実際に”ゴールデンアップル”の記憶を持っている人が現れた。
その人の言葉を、「記憶違いでしょ」なんて面と向かって否定する有機なんてなかった。ぼくも先輩も結局はその時代を生きていないただの子どもでしかないんだから。
日々真面目に働く社会人の言葉は、重いよ。
ぼくらは顔を見合わせて苦笑いしたのだった。
「そういえば――」
先輩ははっと思い出した様子で話題を変えた。
「お前、俺の分の報酬を渡しちまっただろ」
「あ」
「どうするんだよ……俺、ちゃんと報酬分は働いたと思うが」
「す、すみません。用務員さんが暑がってたのでつい……あ、ぼくの飲みかけでよければ」
暑さで頭がボーッとしてたからかもしれない。
ぼくはポンと、軽いノリで先輩にペットボトルを渡した。
「え、お前これ……」
キーンコーンカーンコーン。
先輩が困惑しているうちに、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「あ、もう午後の授業始まっちゃいます! 先輩、もったいないからちゃんと残り全部飲んでくださいね! 報酬を受け取らないと仕事は無責任なモノになっちゃうんでしょ!」
「おい、ちょっと待――!」
先輩が何か言っているけれど、ぼくは無視して走り去った。
このままじゃ授業に遅刻しちゃう――ってのは建前。
本音は、死ぬほど恥ずかしくて顔が真っ赤だったからだ。
先輩にペットボトルを渡して少ししてから気づいちゃったんだ。
「これ、間接キスになっちゃう」って!
「ああー、もう! なんであんなことしちゃったんだろ!」
うぅ……耳まで真っ赤だ。それにもう一つ、今になって気になることがあった。
用務員さんが言った言葉。
『やあお二人さん。今日も
「あつい」っていうのは、
気温のことなのか、それとも……。
先輩と一緒だと、謎に
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