こぼれ話・番外編・後日談
【番外編】早月瑠璃の一番幸せな日
遠足を明日に控えた小学生のような状態、とでも言えばいいだろうか。
その日。早月瑠璃は人生最大の緊張と興奮で、朝からいっぱいいっぱいになっていた。
「落ち着きましょう。……そう、こういう時こそ深呼吸です」
刀を振るい、魔を祓うようになって以来、精神統一は何度も繰り返してきた。戦いを経て獲得した『早月瑠璃』の感覚も、こういう時こそ落ち着くべきだと告げている。
深く息を吸って、吐く。何度か繰り返すと鼓動がゆっくりになってくる。
「そう。何も慌てる事はありません。戦場に赴くわけでもなし。ただ、人を出迎えるだけです」
まあ、その出迎えるべき相手が問題なのだが。
気を抜くと『彼女』のことを思い浮かべてしまう自分に苦笑しながら、瑠璃は誰もいないリビングをぐるりと見渡した。
ノワール・クロシェットが拘りに基づいて整えたシェアハウスのくつろぎ空間──ではない。
ここは瑠璃の実家、店舗の裏に建つ母屋である(正確に言えば『変身する前の』実家だが)。
父が子供の頃に建て替えたらしく、まだまだガタが来るほど古くはない。生活設備も十分整っており、住んでいた頃も不便は感じなかった。キッチンやトイレは瑠璃が瑠璃になってからリフォームしたらしく、見違えるほど綺麗になっている。
懐かしさと目新しさが同居する空間も落ち着かない原因かもしれない。
瑠璃が何故、変身前の実家に一人でいるかと言えば、夏休みが始まってすぐ、アルバイト先の店主夫妻──つまりは両親からちょっとした頼みごとをされたせいだ。
『数日間、店を休んで帰省するので、その間の掃除を任せたい』
四月からバイトで入っているだけの中学生に頼む話ではない。
他の従業員──大学生の男女には自分達の家や予定があるだろうから頼めないとしても、別にほんの二、三日、留守にしたって構わないだろう。
ならば何故、わざわざ瑠璃に頼んだかと言えば、それはもちろん、瑠璃が単なるアルバイトの中学生ではないからだ。
一緒に帰省はできないにしても最低限の義理を立てろ、という裏の意図を肉親の直感から受け取った瑠璃は若干の面倒くささを感じながらもこれを了承した。
大学生になった『年上の妹』などは「私の代わりに行ってきてよ」という勢いだったが、もちろんそんなわけにはいかない。瑠璃の正体は祖父母にも他の従業員にも秘密だ。
留守番する代わりにバイト代を含めた雑費をもらったし、奮発して美味しいものでも食べるか、節約してファッションに回してもいい。
お盆休みは和菓子屋にとってかき入れ時の一つ。両親たちはズラして帰省するので、(例年お盆休みに開催される)同人誌即売会と日程が被ることもない。
邪気祓いの方も大きな仕事を終えたばかりだし問題ないだろうと、シェアハウスのメンバーには承諾後に報告をしたのだが、
『瑠璃さまお一人で食事は大丈夫でしょうか』
思わぬ人物が思わぬ点に難色を示した。
ノワールの懸念も事実無根ではない。瑠璃は掃除や裁縫こそ得意であるものの、料理は不得手としている。
もちろん、ほんの何日かであれば出来合いの物でも不自由はしないが、
『それだと栄養が偏ってしまうではありませんか』
メイドという仕事に誇りを持つノワールだ。瑠璃が来る前には、こっそり宅配ピザを頼んだ教授たちがまとめて説教される、などという一件まであったらしい。
彼女は自分も声優の件で忙しいにも関わらず、お弁当を作って届けようかだの、シュヴァルツを派遣しようかだのとあれこれ対策を講じようとした。
このままでは「鰻重でも注文してやろう」という計画が狂──もとい、余計な手間をかけさせてしまう。瑠璃が危機感を覚えた時、
『それなら、私が瑠璃さんのお手伝いをしましょうか?』
救いの手は、思わぬところから差しのべられた。
『もうすぐ到着します』
ぽこん、と、グループチャットに新着のメッセージが入った。合わせて送られてきたスタンプは、可愛らしいうさぎのキャラクターが「まっててね」と言っているものだ。
その愛らしさにくすりと笑みをこぼし、了解の意を返信する。
そして。
玄関のチャイムが鳴らされると、瑠璃は素早く彼女を出迎えに出た。
「いらっしゃいませ、アリス先輩」
「こんにちは。お邪魔します、瑠璃さん」
そう。ノワールの代わりに瑠璃の食事を担当する、と言ってくれたのは、アリシア・ブライトネス。シェアハウスメンバーの一人であり、ノワールから日々料理の手ほどきを受けている少女だった。
アリスは淡いブルーのブラウスにチェックのスカート、日よけに帽子を被り、大きめの鞄を両手に下げていた。その中には食材やお泊まり道具が入っているのだろう。
お泊まり。お泊まりである。
「先輩。荷物お持ちします」
「大丈夫です。私、こう見えても他の人よりは力持ちなんですよ?」
申し出を断られてしまったので、瑠璃は仕方なくアリスをそのまま家の中へと通した。
女の子を家に上げるなんてほぼ初めての経験だ。
正確には妹の友人を代わりに出迎えたり、女子を含む大学の仲間と自室でTRPGをしたこともあるが、まあ、カウントするかどうかは微妙なところだろう。
「ご家族はもう出発されたんですか?」
「はい。先輩にくれぐれもよろしく、と言っていました」
瑠璃はアリスより二時間ほど前に来て、家族との挨拶やらを済ませていた。アリスに準備があったのと、わざわざ家族と引き合わなくてもいいだろう、と思ったからだ。
そもそも、変身後も家族と交流していること自体がイレギュラーである。
ノワールや教授は客として顔見知りだし、家族とも面識のある千歌はアリスにとっても親しい人物なので、神経質になる必要もないのだが。アリスを家族に何と言って紹介すればいいか悩ましかったのもあってこういう形を取った。
「先輩。妹の部屋と和室、どちらがいいですか?」
「一泊させてもらうだけですし、物置きでもなんでも構わないのですが……」
「お客様を物置きに泊められるはずがありません」
とんでもないことを言いだすものだが、アリス曰く「オリジナルのアリシアは納屋に泊まったこともありますし」とのことだった。確かにファンタジー世界ならそういうこともあるだろうが……聖女を納屋に泊めた人物には少々説教をしてやりたい。
しかし、アリスがオリジナルの昔話をするとは。
夏休み直前、ラペーシュとの決戦が終わった後、アリスはちょっとした心境の変化があったらしい。オリジナルの自分を完全に受け入れた彼女は以前にも増して『自然体に』なった。
煌めく金髪も、吸い込まれそうな碧眼も、すべすべの白い肌も変わっていない。むしろ成長によって美しさを増しているのだが、何よりも『聖女らしさ』が上がった。
配信をしたり、ラノベやマンガを鑑賞したり、きちんと趣味も持っているのだが、一方で自分を取り巻くあらゆるものを慈しみ、楽しむ傾向が強くなった。
瑠璃は、そんなアリスの姿に見惚れてしまうことも多い。
しかし、それは仕方のないことだ。
何故ならアリスは瑠璃にとって特別な女性なのだから。
変身前の瑠璃は女性に特別な憧れを抱く青年だった。
性的な意味ではない。ただ、女性が身に着ける可愛らしく美しいデザインの衣装がたまらなく好きだった。成長にするにつれてその感情は大きくなり、やがて変身願望にまで昇華された。
女装をしていたのも、家を継ぐことに消極的だったのもそのせいだ。
だから、なのだろうか。家の手伝いで赴いた文化祭。そこで出会ったアリスの姿に心を奪われ、一目で惚れこんでしまったのは。
惚れたと言っても単なる恋愛感情ではない。
憧れ。嫉妬。羨望。様々な感情が入り混じった気持ち。今ならその理由がわかる。一介の男子高校生から聖女に変わり、そしてそれを葛藤の末に自ら受け入れたアリスという存在、精神性そのものが瑠璃の心を強く打ったのだと。
シェアハウスで生活を共にするようになり、ノワールや朱華など他の『変身者』を知ってからも気持ちは変わっていない。それどころか強くなっている。
同時に、男だった頃はありえないと諦めていた「アリスと特別な関係になりたい」という気持ちも、ある。
今の関係を壊す恐ろしさや、自分なんかがという想いから、未だ気持ちを伝えられてはいないのだが。
結局、アリスには妹の部屋を使ってもらうことになった。
本人からは「女の子なんでしょ? 好きに使ってもらっていいよ」と言われている。四月から大学に入学し一人暮らしを始めたので、どのみち最近は殆ど使われていなかった。
荷物を置いたアリスはふう、と小さく息を吐くと、瑠璃の方を振り返って言った。
「あの、せっかくですし、瑠璃さんの部屋を見せてもらえませんか?」
「え……⁉」
意外な要望だった。
「でも、この家にあるのは私の部屋と言いますか、変身前の私の部屋です。あまり面白いものではないと思うのですが……」
女性ものの服やメイク道具などは引っ越す時に持って行ってしまった。今回泊まるにあたって最低限の物は持ち込んでいるが、基本的には単なる男子大学生の部屋である。
しかし、
「駄目ですか……?」
少ししゅんとした表情で言われてしまえば、断固拒否など到底できない。
「わ、わかりました。こちらへどうぞ」
部屋に通すと、アリスは「わあ……」と小さく声を上げた。なんだか妙にむず痒い。久しぶりに男の感覚を思い出した気分だ。
「普通の部屋でしょう?」
「そうですね。でも、なんだか瑠璃さんの部屋らしいです」
「そうでしょうか……?」
瑠璃は変身したことを後悔していない。むしろ、男性時代の自分なんて黒歴史くらいに思っているのだが、そう言われると照れくさくなる。
「はい。なんだか清潔で格好いい男性っていう感じです」
「そんなことはありません。アリス先輩こそ、昔から格好良かったのでは?」
「私なんて、ただの汗臭い剣道少年でしたよ」
アリスは家族と別れて暮らしているし、男性時代の私物もほぼ持っていない。実の妹とも今は友人として接しているらしく、あまり変身前のイメージが湧かない。
今の自分が変身前のアリスと出会っていたら、どうだっただろうか。
恋に落ちる可能性がゼロとは言えない。ただ、あまり想像できないのも事実だった。思わずため息をつく。
「どうしました、瑠璃さん?」
「いえ。私は面食いなのだと、あらためて実感しただけです」
アリスの顔を含めて好きなので、姿が変わってしまったらがっかりする。
すると、アリスは微笑んで、
「誰でもそうだと思います。私だって、綺麗な人や格好いい人と話をするとどきどきします」
「例えばラペーシュですか?」
端正な顔立ちをした同居人(仲間とは呼びたくない)を思い出しながら言うと、「瑠璃さんもですよ」と気負いのない表情で返ってくる。
「っ」
まずい。熱くなった頬を制御できない。ついでに口元まで緩むのを感じながら、瑠璃は慌てて顔を背けた。
「? 瑠璃さん?」
「な、なんでもありません。それより、アリス先輩。お昼ご飯はどうしましょうか?」
話し合いの結果、面倒な仕事に付き合ってくれたお礼も兼ね、最初の食事は奮発して外食することになった。出前ではなく店に行くことになったのは、食器が残ると親にバレるからだ。
「鰻なんて豪勢ですね」
このあたりアリスは融通が利く。鰻が食べたいと言えば「仕方ないですね」と笑って了承してくれた。
「でも、他のものじゃなくていいんですか? 一月くらい前にも食べましたよね?」
「はい。でも、美味しいお店がありまして」
ノワールは大晦日に年越しそば、正月におせちなど、時節にちなんだ料理も外さない。お陰で土用の丑の日には一般住宅で作ったとは思えない出来栄えのうな丼を食べられたのだが、お陰でうっかり名店の味を思い出してしまった。
家族で何度か訪れ、大学生になってから千歌とも一度来たことのある日本料理店は実家からそう遠くない距離にある。
「これは、女子二人で入ったら目立ちそうなお店ですね……」
しっかりとした店の佇まいを見てアリスが呟く。
「そういえば、この姿になってから来るのは初めてでしたね」
「大丈夫ですよね? 怒られたりしませんよね?」
「大丈夫です。客には違いないわけですし、お酒を頼んだりしない限りは怒られたりはしないでしょう」
来たことのある瑠璃が先んじてのれんをくぐり、引き戸を開けると、アリスも恐る恐るといった様子でついてきた。
「! いらっしゃいませ」
若干、二人を見て驚いたような雰囲気があったが、店員の反応はいたって丁寧なものだった。店内を見渡し、二人掛けの席に腰を下ろす。アリスの分の椅子を引いてやると「ありがとうございます」と柔らかな笑みが返ってきた。
「今日は私が御馳走しますから、お好きなものをどうぞ」
「本当にいいんですか?」
「もちろんです。他の食事はお任せしてしまう形になりますし」
食材だってタダじゃないだろうに、アリスときたら「わざわざ請求するほどの額では」とお金を受け取ってくれない。ならば、こういう形で還元するのがちょうどいい。
「では、お言葉に甘えて。その分、夕食は期待してくださいね」
「楽しみにしておきます」
そうすると昼は軽めにした方がいいだろうか。……いや、せっかく精のつく料理を食べに来たのだから、思いっきり行かないと勿体ない。
「あの、瑠璃さん。私、白焼きって食べたことがないんですが……どんな感じなんでしょう?」
「すみません、白焼きは私も食べたことが……。せっかくですし、頼んでみましょうか」
他にそれぞれ鰻を注文する。白焼きをシェアするとして、鰻重の方は「梅」にしておいた。松竹梅の違いは主にうなぎの量。梅でもしっかりとした鰻重が出てくる。
「いただきます」
箸を手に、いざ鰻重に挑む。ふっくらとした鰻の身、香ばしさとタレのうま味。もちろんご飯も丁寧に炊かれていて、タレを吸った白米だけでも食が進む。
合間に漬物やお吸い物を挟む事で舌がリセットされてまた美味しく味わえる。
お吸い物は追加料金で肝吸いに変更することもできたが、うなぎづくしにしてしまうよりむしろこの方が正解かもしれない。
「それじゃあ、そろそろ白焼きの方も……」
「そうですね」
白焼きは同じうなぎでも、蒲焼きに比べてだいぶさっぱりとしていた。白いご飯に合わせるなら蒲焼きの方がパワーがあって良いが、例えば炊き込みご飯と一緒に食べるとか、鰻重ではなくう巻きなどを注文するならこちらもかなり魅力的だ。
「教授なら白焼きにお酒かもしれませんね」
「ありありと想像できます。……ところで、教授はうなぎと合わせるのもビールなのでしょうか」
「旅行に行った時は日本酒を飲んでいましたね……?」
朱華なら「うな丼が一番コスパいいじゃない」などと言いそうだし、シルビアは白焼きを頼まず鰻重を「松」にしそうだ。仲間たちの話題に華を咲かせているうちに料理は胃袋に消え、二人は満足感を抱きながらゆっくりとお茶を飲んだ。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
アリスと二人、お礼を言って店を後にすれば、二人の背中に「またお越しください」と声がかけられた。思わず顔を見合わせ、ほっと胸をなでおろしてしまった。
「帰ったらお掃除ですね」
「はい。しっかりと精もつけましたし、さっと片付けてしまいましょう」
店舗と母屋、両方となると範囲は広いが、日頃からちゃんと掃除はされているし、頼まれたのは「大掃除」ではなく単なる掃除だ。瑠璃にとっては慣れた場所だしアリスも掃除は得意としている。
連携して作業をしていけば、そう苦労することもなく終わった。むしろ、物足りないので細かいところまで手を出してしまったくらいだ。
「明日もありますし、このくらいにしておきましょう」
「そうですね」
掃除が終わると……終わると、何をすればいいのだろう?
「手持ち無沙汰になってしまいましたね」
「……そうですね」
特にこれといってする事がない。これがシェアハウスの自室ならいくらでも暇が潰せるのだが。
「アリス先輩、配信はどうしますか?」
「今日はお休みする予定です。どの道、連続記録は途切れてしまいましたし……。それに、夏休みに毎日配信していると『暇なの?』って言われるもので……」
「時間を作って配信しているのに、酷い話ですね」
テレビでも見ようか? しかし、シェアハウスにはみんなでテレビを見る文化がない。見る習慣がなくなってみると「別に無理して見なくてもいいのでは?」という気持ちが強くなる。
少し早いがお茶にでもしようか。ああ、それなら。
「アリス先輩。せっかくですから専門の道具での和菓子作り、見てみますか?」
「あ、見てみたいです!」
掃除する前にすれば良かったが、まあ、後片付けはさほど苦ではない。
店舗の作業場に移動して、和菓子作りの道具と一緒にどのようなことをしているのかを説明する。菓子作りにも興味があるアリスはふんふんと楽しそうに聞いてくれた。
アリスが普段作るのは洋菓子だが、一緒に和菓子作りができたら楽しいかもしれない。
そもそも瑠璃が店を継ぐのに消極的だったのは「制服が可愛くないから」であり、着物を纏って店に立てるならむしろ喜んで継ぐ。もし、アリスがその隣にいてくれたりしたら、もう最高だろう。
……と、そうではなく。
「あんこを少量だけ作るのも手間なので、落雁を作りましょうか」
でんぷんを含む粉と砂糖などを用いて作る和菓子。強いて洋菓子で近いものを探すならクッキーだろうか。口に入れるとほろほろと崩れ、素朴な味わいが感じられる。
型を変えることで色んな形にできるのも魅力だ。
「せっかくなので一緒にやりますか、アリス先輩?」
「はい。是非お願いします」
髪を纏め、エプロンを身につけたアリスに作り方を説明しながら、肩を並べて作業する。
実家でアリスとこんな風に作業できるなんて思いもしなかった。この話を持ってきた両親に感謝しないといけないかもしれない。
隣にいるアリスはとても楽しそうだ。
和菓子と金髪聖女。不思議な取り合わせだが、驚くほど絵になっている。きっとアリスが看板娘になれば、店はもっと繁盛するだろう。
そういうのも悪くないかもしれない。
やや身が入っていなかった和菓子修行。中学三年生になったことで時間的猶予が三年分以上も増えてしまった。高校卒業後に大学ではなく製菓学校へ入ったり、本格的にどこかの店へと修行に行くことだってできる。
どこかに女性向けの武術道場を開く、なんていうのも魅力的だし、悩ましいところだ。
「できましたね……!」
「はい。いい出来栄えです」
完成した落雁は母屋に運んで、熱い緑茶と一緒にいただくことにした。暑いのでエアコンを入れながらである。どうせ実家だし遠慮してやることもない。
「どうですか、アリス先輩?」
手を皿にしながら落雁を口にしたアリスは「ん……!」と小さく声を上げて、
「美味しいです。お茶に合いますし、簡単に崩れてしまうところも赴きがありますね」
「気に入っていただけて良かったです」
瑠璃も一つ口に入れ、口に広がる味を楽しみながらお茶を口にする。リビングにのんびりとした時間が流れた。
ずっとこうしていられたらいいのに。
不意にそんなことを考えてしまう。アリスは明日の夕方には帰ってしまう予定だ。両親、妹だって明後日には帰ってくるので、もちろんそんなことはありえない。
シェアハウスだって新しく建設中だし、お互いの進路によっては別々に暮らすことだって考えられる。ずっと一緒にいるにはお互いの道を揃えるしかない。
「……いっそのこと、コンセプトカフェでも作ってしまいましょうか」
アリスが「?」と首を傾げて、
「ええと、テーマに沿った営業をするカフェのこと──でしたか?」
「はい。メイド喫茶もその一種ですね。テーマ次第で内容も大きく異なるのですが……例えば執事ですとか、忍者ですとか」
中にはキャスト(店員)が全員お嬢様学校の生徒(という設定)なんていうものや、キャストがそれぞれ固有の属性(この場合はツンデレなどの萌え属性のことだ)を持っているカフェなんていうのもある。
「あ。もしかして、そういう場所なら私が聖女を名乗っても……?」
「はい。アリス先輩の場合、ネット上で存分に名乗っていらっしゃいますが……。それなら私が剣士を名乗ったり、シルビア先輩が錬金術師を名乗っても問題ないかと」
「それは楽しそうですね……!」
聖女のホーリーパンケーキとか、錬金術師のハーブティーとか、メニューも色々凝ることができる。その中でなら瑠璃が和菓子を作って提供するのも簡単だろう。
「開業資金がいくらくらいかかるのか調べてみましょう」
「判断が早いですアリス先輩」
「あはは、冗談です。興味本位で調べるだけですよ」
調べたいのは本当だったらしい。
せっかくなので(どきどきしながら)肩を寄せてアリスのスマホを覗き込む。ちなみに二人のスマホは色違いのお揃いである。
結果は、店舗のスタイルなどによってピンキリだが、一千万くらいあれば割と行けそうだった。
「……意外と手の届きそうな額ですね」
「落ち着いてください瑠璃さん。中学生があっさり手を出せる額じゃありません」
「アリス先輩、現在の預金残高はおいくらくらいですか?」
アリスが目を逸らした。彼女の場合、現時点で私立の医学部に四年間通えるくらい持っていてもおかしくない。というか、おそらく普通にそれ以上は持っている。
いや、特殊すぎる例ではあるが。とはいえシルビアもその気になれば病院を買えるくらい稼げるはずだし、仲間たちでカフェをやるとなったら初期費用は全く問題にならなさそうだ。
「むしろ、私はもう少し稼がないとまずいのでは……?」
「女の子が服を欲しがるのは当然の欲求ですし、あまり我慢するのも良くないんじゃないでしょうか」
ちなみにアリス自身は買いすぎて着ない服が出るのは嫌、というタイプである。彼女に言われると少し負けた気分になるが、同時に、所有欲を満たすことを否定しない態度に救われる。
「いっそコスプレで稼いでしまいましょうか」
「趣味と実益を兼ねるんですね。でも、儲かるんでしょうか?」
「大学時代の先輩が『脱げば儲かる』って言ってました」
「それは……。声優のお友達から私も聞いた気がします」
おそらく、というか間違いなく同一人物である。
「駄目ですよ、瑠璃さん。大学に入るまでえっちなのは禁止ですからね?」
「前から思っていたんですが、十六歳から結婚できるのにアダルト関連は十八禁、って不思議ですよね」
「朱華さんも似たようなことを言っていた気がしますが、無事に十八歳からになったじゃないですか」
「朱華先輩は本当、欲望に忠実ですね……」
この際、自分の事は棚上げした。
なんだかんだ、他愛ない話をしているうちに時間は過ぎ──外が暗くなり始めたのを見たアリスは「それじゃあ、夕飯の支度を始めますね」と席を立った。
「お手伝いすることはありますか?」
「大丈夫です。二人分くらいなら大変でもありませんし、瑠璃さんはのんびりしていてください」
「わかりました。では、お言葉に甘えます」
アリスはにこりと笑ってキッチンへと移動していく。長い髪をポニーテールにし、前髪をカチューシャでまとめたエプロン姿の彼女はとても可愛らしく、思わず目で追ってしまう。
憧れの人が自分のために料理を作ってくれる。
男時代に経験したかったような、今だからこそこうして味わえる幸せのような。そのまましばらくアリスの料理する姿を眺めてから、瑠璃はゆっくりと席を立った。
「アリス先輩。私、お風呂の準備してきますね」
「はい」
手早く浴槽を洗い、タイマーをセット。食後に湯がいっぱいになるように調整しておく。
夕食までの時間は夏休みの宿題を消化して過ごした。一度高校を出ているので内容自体は難しくないが、単純に量がそこそこあるので終わらせるには時間がかかる。
夕食はどんなメニューだろう。
いい匂いが漂ってくるのでとても気になる。ただ、先に知ってしまうとつまらない気もするので、敢えて調理内容は覗かないようにした。
「できました」
アリスがそう言って皿を運んできたのは、ちょうどお腹が良い具合に空いた頃だった。わくわくしながらテーブルを片付け、彼女を迎える。
「これは……!」
メインの料理は鶏の唐揚げだった。
ただし、ただの唐揚げではない。こんもりと盛られた皿の横にはいくつかのソースが並べられる。タルタルソースに油淋鶏風のネギ醤油ダレ、おろしポン酢に、かけるとフライドチキン風になる特性パウダー。
「瑠璃さんは洋食の方が好きでしょう? でも、ノワールさんも洋の料理が一番得意ですし、そればかりだと飽きてしまうと思ったので……どうせならと色々な味を用意してみました」
女子らしく、こんもり盛られた野菜サラダも用意されている。こちらは玉ねぎベースのさっぱりとしたドレッシングのようだ。更にわかめのたっぷり入った塩ベースのスープや、家の冷蔵庫にあったらしい漬物に冷奴なども用意されている。
これは。
「アリス先輩。白いご飯は、あるんでしょうか?」
「もちろん、たっぷり用意してあります」
こんなものを出されてしまったら我慢できるわけがない。気を抜くとお腹が鳴ってしまいそうなのを感じながら、瑠璃は「ありがとうございます」と笑顔を作った。
「いただきます」
ノワールの薫陶を受け、料理人志望だという親友の影響も受けているアリスの料理はとても美味しかった。
瑠璃は洋風の料理に憧れがあるが、胃袋自体は和風を好むように調教されている。鶏の唐揚げで食が進まないわけがない。しかも、今回はソースによって和洋中と味に変化がつけられる。
白米が止まらない。
「油淋鶏風のタレを冷奴にかけても美味しいんじゃないかと」
「でしたらラー油も持って来ましょう。麻婆風になるはずです」
「あ、いいですね……!」
二人では到底食べきれないと思えるような量が用意されていたが、気づけばかなりの量を平らげてしまった。さすがに残ったが、それは明日に回せばいい。
「コッペパンを用意してあるので、軽くトーストしたパンに唐揚げや野菜を挟んでサンドイッチにしましょうか。それにスクランブルエッグとコーンポタージュをつけます」
「アリス先輩。最高です」
アリスは「褒め過ぎです」と照れ笑いを浮かべたが、瑠璃としては全くの本心だった。こんな女性が嫁に来てくれたらもう、死んでも悔いはないだろう。
いや、死んだら新婚生活を味わえないのだが。
「……ふう。ですが、食べ過ぎたので少し休みたい気分です」
「お茶を入れますから、休んだら二人でお風呂に入りましょうか」
お風呂。
好きな人と一緒なんて、普段なら大慌てするところだ。しかし今日はずっと二人きりだった。お腹がいっぱいになった幸福感も手伝ってか、瑠璃は素直に「はい」と返事をしていた。
「アリス先輩。少しずつ胸、大きくなってますよね?」
「やっぱり、わかりますか? 昔買ったブラがだんだん着けられなくなってきたので、少しずつ買い替えているんです。身長も少し伸びてきているみたいで」
「大人っぽくなったアリス先輩も楽しみです」
脱衣所で服を脱ぎながらこぼすと、アリスは微笑んで、
「大きくなっても、瑠璃さんのスタイルには負けてしまいそうですね」
「そんなこと……」
瑠璃の胸はそれほど大きくない。他のシェアハウスの住人よりは基本小さめだ。スレンダーという意味で言えばスタイルは良いし、一般女子と比べた場合は決して小さすぎるわけではないが。
西洋人種であるアリスならば十分、バストサイズで瑠璃を上回る可能性はあるだろう。身長が大きく伸びなかった場合、男性を大きく惹きつける容姿にだってなるかもしれない。
別に男にモテる気はないので構わないが、
「アリス先輩。しつこくナンパしてくる輩がいたら遠慮なく言ってくださいね。私が適度に成敗します」
「ふふっ。瑠璃さんは頼もしいですね。ありがとうございます。その時はお願いしますね」
おそらく、そうそうそんな場面は巡って来ないだろう。
並の輩ならアリスの能力でも対処できてしまうし、彼女には沈静化魔法もある。
それでも、もし彼女に乞われたら快く引き受けようと思う。
アリスの白い肌。一糸まとわぬ姿も、今日はどきどきこそすれ、必要以上に興奮してしまうことは不思議となかった。彼女のどこか神秘的な雰囲気のせいだろうか。
むしろ、彼女を守りたいという気持ちを強く感じる。
「そうだ。瑠璃さん、良かったら今日は一緒に寝ませんか?」
「ええ……⁉」
と、思ったら、アリスの一言で胸が大きく跳ねた。
「で、でも、妹のベッドに二人は厳しいのでは……?」
「和室に布団を敷いて寝るのも修学旅行みたいで楽しいかな、と思ったのですが、駄目ですか……?」
駄目、などと言えるわけがなかった。
というか素直に言えば瑠璃だってそうしたい。
是非、と言ってしまいそうになる自分を必死に抑え、最後の防衛ラインを作る。
「布団が一組しかなかったら、だいぶ狭いことになりますが……」
「もちろん、私は気にしません」
残念ながら布団は二組あった。
どうせならもっとお泊まりムードを味わおうということで、寝る前にノートPCで映画を見た。
「私たちの故郷って、教授のアニメ映画以外は映像作品がないんですよね」
「ノワールさんのマンガがアニメになれば一つ増えますね」
ちょっとしたお菓子をつまみつつ、だらだらと鑑賞する時間が妙に楽しかった。普段ならこんな不摂生はしないのだが、今日は特別だ。
結局二本を続けてみて、軽く感想を語りあってから布団に入った。
隣にアリスがいる。
お互いに寝間着を纏っただけの無防備な姿。静かな家の中にいると、まるで世界に二人きりになったかのようだ。
「おやすみなさい、アリス先輩」
「おやすみなさい、瑠璃さん」
横になったまま見つめ合って挨拶を交わす。ホテルの同じ部屋で眠った時よりも近い距離に胸がときめく。
目を閉じてもなお、アリスを感じる。
あまりにも幸せすぎて瑠璃はなかなか寝付けなかった。薄く目を開いて、隣にいるアリスを見つめる。暗闇に目が慣れてくると、目を閉じて規則正しい呼吸をする少女の顔が見えた。
もう寝てしまっただろうか。
起こしてしまうと申し訳ないが、眠っている彼女になら──少し、大胆な事を言っても大丈夫かもしれない。
鼓動が余計に早くなるのを感じながら、瑠璃は恐る恐る口を開いた。
「アリス先輩。あなたさえ良ければ、どうか、私と──」
室内に少女の声が静かに響き、そして、アリシア・ブライトネスがゆっくりと瞳を開いた。
紡がれた答えは、イエス、だった。
その日の出来事は、瑠璃にとって一生忘れられない大事な思い出になった。
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