聖女、選択の時
日帰り帰省をした翌日、俺は何もする気が起きないままぼんやりしていた。
朝食を済ませて部屋に戻ったものの、トレーニングも夏休みの宿題もする気にならない。
元に戻るなら、やっても無駄。
新しく買ったアクセサリーも、新品の水着も無駄。自分で持っていたら変態扱いだろうから、せいぜい妹にあげるくらいしか使い道がない。
まあ、それはそれで喜ばれるんだろうが。
「なに黄昏れてんのよ」
「悩み事ならお姉さんたちが聞いてあげるよー?」
部屋のドアが軽くノックされ、朱華とシルビアが入ってくる。
勝手知ったるという奴か、ベッドに寝そべる俺を見て躊躇なく傍に腰かける二人。
「……大丈夫です」
答えはしたものの、声音も表情も、まるで大丈夫な感じにはならなかった。
「いいから話してみなよ。楽になるよ」
「いつまでも辛気臭い顔されてたらこっちまで息が詰まるのよ」
二人してやってきたと思ったら心配してくれていたのか。
昨日の今日でこれとは、自分で思っている以上にやばい顔色をしているのかもしれない。
正直、話をするのも億劫なくらいなのだが。
必死に気力を振り絞って口を開いて、
「シルビアさんは、元に戻れるとしたら戻りたいですか?」
「戻りたくない」
「──え」
即答。あまりにもきっぱりしすぎていて、思わず耳を疑ってしまう。
顔を向けると、シルビアはほんの少しだけ恥ずかしそうに頬を染め、しかしエメラルドグリーンの瞳に強い意志の光を宿して言った。
「
「で、でも。元の生活や、友達、家族だっていたわけですよね?」
「そうだけど、アリスちゃんたちや今の友達だって私の大事な生活だよ?」
「……っ」
考えていることを見透かされたように思えて、絶句する。
彼女は全部分かった上で全部、自分で決めてここにいるのか。
寝るか調合するかくらいしかしてないように見える、どこか自堕落で退廃的な人だけど──それこそが、シルビアにとっては理想なのか。
元の自分ではなく、今の自分が。
何も言えなくなって口を噤む。
朱華がため息をつき、何か言おうと口を開いて──結局そのまま閉じた。
代わりに動いたのはシルビアだ。
「ねえ、アリスちゃん」
甘ったるさで言えばこの家で一番な気がする、シルビアの匂い。
気がつけば彼女はベッドに手をついて俺を見下ろしている。腕の力を抜くだけで俺に覆いかぶされるような姿勢。
顔を近づけるだけでキスすることだって、できる。
「男の気持ち、思い出してみる? ……アリスちゃんなら、何してもいいよ?」
かすかに濡れた瞳と、声。
ことあるごとに抱き着いてきて「一緒に寝る?」と誘惑してくる彼女だが、今までの冗談めかしたそれとは一線を画した誘い方。
女が男を、本気でベッドに誘うような。
誘い込まれるようにして視線を向ければ、白衣の下に着たキャミソールと、女性的な魅力に富む二つの塊が見える。触れば柔らかさと弾力で、なんとも言えない心地に包まれるだろう。
手を伸ばすだけで触れられる位置に、シルビアの全てがある。
「さ、ほら。……触って」
だらんと垂れ下がっていた手が持ち上がる。
でも朱華がいるし、と思って横を見れば、紅髪の少女は「おかまいなく」といった表情でスマホをこっちに翳していた。
仲間のそういう場面を即録画する奴があるか、と若干気が抜けるものの、少女のそういう反応はつまり、邪魔をする気がないとも言えるわけで。
指が少し、また少しと近づいて。
「だめです」
俺は、持ち上げていた腕を下ろした。
「いいって言ってるのに」
ベッドにぺたんと座り込んだシルビアは残念そうに言う。普段の態度が冗談じゃないなら、それこそ撮影されててもガチで許してくれそうではあるが……。
「しなくて良かったの、アリスちゃん?」
「……だって、そんなの嫌です」
俺は起き上がり、シルビアと向かい合って答えた。
「するならちゃんと、シルビアさんと思い合ってしたいです」
「え、あれ、それって告白……?」
「違います」
シルビアのことは、まあ、その、好きではあるが、あくまでも仲間とか家族的な意味であって、恋愛的な意味ではない、はずである。
「何よ、しないわけ?」
朱華は朱華で不満そうに唇を尖らせてるし……。そんなに知り合いのエロ動画を撮影したかったのか。
「で、アリス。ちょっとは気分マシになった」
「ええ、まあ。おかげさまで」
荒療治にも程があるが、ふさぎ込んでても仕方ないかな、くらいの気分にはなった。
「良かった」
するとシルビアはぎゅっと当たり前のように抱き着いてきて、それから言った。
「薬の試作品が出来たんだよ。使うかどうかは任せるから」
「え……」
早すぎませんか、シルビアさん。
「はい、これ」
ことん、と置かれたのは小ぶりのポーション瓶だった。
中にはどろっとした紫色の液体。
冗談のように怪しい。とはいえ、シルビアがポーションに関して雑な仕事をするとも思えない。
「材料があると、こんなに簡単なんですね」
「まあね。でも、お姉さんの腕があってこそなんだよー?」
ふふん、と胸を張るシルビア。
きっと頑張ってくれたのだろう。それについては素直に嬉しい。ありがとうございます、と礼を言うべきところなのだろうが、
「………」
俺は、元に戻れる(かもしれない)というポーションを前に複雑な気分だった。
「アリスさま?」
この場には仲間達みんなが揃っている。
心配そうなノワールをはじめ、四人は俺の動向を見守る構えだ。
彼女達としても結果は気になるのだろう。自分も使うかはともかく、戻る方法があるのかないのかは知っておいて損はない。
だが。
踏ん切りがつかないまま、俺は銀髪の少女を振り返った。
「……これって、すぐ使わないとまずい薬ですか?」
「ううん。一日二日で悪くなるようなことはないけど……早く使った方がいいのは確かかな。効果がなかったら改良しないといけないし」
そうか、失敗する可能性も当然あるのだ。
悩みに悩んで飲むことを選び、結果何も起きませんでした──なんてことになったら拍子抜けだろうが、だったらあまり悩まずにぐいっと行ってもいいかもしれない。
って。
まるで、それでは失敗を期待しているようではないか。
息を詰まらせる俺の頭に朱華の手のひらが乗る。
「アリス。あたしたちに気を遣う必要はないんだからね?」
「……朱華さん」
「あんたが後悔しない道を選びなさい。あんたの人生なんだから」
人生。
まさか、この歳でこのレベルの決定的決断をする羽目になるなんて。
息を吐く。
吐いても、胸の中の淀みが晴れる気配はまるでない。
「どうした、アリス」
教授の静かな問いかけにゆっくりと答える。
「約束したんです。みんなと。夏休みに遊びに行こうって。今戻ったら、約束を破ることになってしまいます」
「ですが、アリスさま。それは『約束をいつ破るか』の違いでしかありません。みなさんの前からいなくなるのであれば、むしろ早い方がいいのでは?」
ノワールの意見は正しい。
約束を破りたくない、なんていうのは俺の都合でしかない。向こうにしてみたら、夏休み中に「また転校する事になった」と伝えられ、二学期には姿を見せない方がまだ、諦めもつけやすいだろう。
それでも、今すぐには選べない。
薬ができるのには時間がかかると思っていた。
なのにあっさりと出来上がって、悩む時間も少ししか与えられないなんて、困る。
何故なら、
「……楽しかったんです」
形にならないまま眠っていた思いがこぼれる。
「嫌だとか戻りたいとか言いながら、いつの間にか、今の生活を楽しんでいたんです」
ひどい話だと思う。
だけど、みんながそれでも優しくしてくれたから、快く迎え入れてくれたから、楽しくやれた。
楽しくやれるようになってきていた。
戻れなくてもいいんじゃないか、と思ってしまった。
驚くような心境の変化だが、紛れもなく俺自身の意思だ。
恥ずかしいことに、涙が溢れて止められない。
男らしくないにも程がある。
誰も何も言わないのが怖くて、みんなの顔が見られない。
俺は。
本当は。
「このままでいたい、なんて言ったらバチがあたりますよね」
迷いはあった。
実家に帰った結果、戻る方に傾いていた気持ちが戻らない方に傾いた。
このままでもいい、と言ってもらえるなら、いっそ。
そんな、搾りだすような願いに、
「ばーか」
「いたっ」
ぺちん、と、額が叩かれた。
やっぱり呆れられてしまったか。思いながら見上げれば、ちょうどいいとばかりに頬をむにーっと引っ張られる。
朱華が、泣きながら笑っているような、おかしな顔をしていた。
「……朱華さん?」
「あんたね。好きにしろって言ってるでしょうが。……戻ったって戻らなくたって、どっちだっていいんだっての」
そのまま、身体ごと引っ張られて抱きしめられる。
温かい。
「あの。いいん、ですか?」
「悪いわけないでしょ」
ぴしゃりとした声音に続いて、
「あたしだって、あんたがいてくれた方が楽しいんだから」
「朱華さん……」
「そうだよ、アリスちゃん。アリスちゃんがいなくなったら、私、栄養ドリンク係に逆戻りなんだよ」
朱華に抱きしめられたまま、柔らかな身体に包まれる。
更にノワールが「ずるいです」と言って二人ごと抱き着いてきて、夏場とは思えないほどの暑苦しさになった。
「アリスさま。まだまだして差し上げたいことがたくさんあるんですよ?」
「ノワールさん……」
「全く、手のかかる妹分だ。当分は回復役としてこきつかってやる」
「……教授」
感動的なシーンなんだからもう少し何かないのかと言いたかったが、感動的なシーンなので何も言わないことにした。
とりあえず、もう我慢できなかったので、みんなの胸を借りてわんわん泣かせてもらった。
落ちついたのは十分後だったか、二十分後だったか。
泣き止んだ俺に教授が尋ねる。
「良いのか、アリス?
「大丈夫です」
あの件についてはあまり深刻に考えていない。
アリシアとして過ごしていく以上、男だった頃と違う出来事に直面せざるを得ない。女ばっかりの環境にいれば女らしくなるのは当たり前だ。
精神がアリシアに近づくというのもそれと大差ないだろう。
何より、不死鳥を倒した時の体験は俺にとって嫌なものではなかった。
「……そうか。ならば『これまで通り』か」
「いいえ」
「む?」
「これからはもう少し積極的に『女の子』を頑張ります。せっかく今が楽しいんですから」
「そうか」
教授は笑い、
「なるほど、確かにお主は真面目過ぎるな」
「……駄目でしたか?」
「いや。良いのではないか? 若いというのは素晴らしいな」
すごく馬鹿にされているような気分になったが、良いというのであればそうしよう。
と。
くくく、と、堪えきれないように笑っていた教授は、その勢いのままにポーションを掴んで──蓋を開けた。
「え?」
「要らないのなら吾輩が飲む」
「え、ちょっ!?」
止める間もなかった。
それこそ栄養ドリンクでも一気飲みする勢いで瓶が傾けられ、中身がみるみるうちに減っていく。
げぷ、という下品な音と共に中身が尽きると、おもむろに教授の身体が輝き始める。
急展開すぎてついて行けない。
「あの、教授って元に戻りたかったんですか?」
「いえ、そんな話は聞いていませんが……」
みんなしてぽかんとしている中、光はだんだん収まって、
「お、おおお、吾輩の身体が……!」
何の変化もなかった。
なんだこの肩透かし。戻りたいと願っていてもすぐには戻れなかったらしい。結果オーライではあるが、
シルビアと朱華も肩をすくめて、
「不発かあ」
「仕方ないわね。急ぐわけじゃないし、ゆっくり改良しましょ」
「全て丸く収まりましたね」
のんびりお茶でも飲もうか、という話になり準備が始まろうとして、
「待て! ちゃんと変わっている! 吾輩は二か月と少し前、右腕を軽くすりむいていてだな……!」
慌てて言った教授が腕を示すと、そこには確かに小さな擦り傷があった。
要するに、こういうことだ。
シルビアの作った「元に戻る薬」は成功していた。効果は二か月と少しだけ身体を前の状態に戻すこと。つまり、俺が使えば元に戻れるが、教授が使っても大した意味はないということだ。
教授はそれを見越した上で、薬のテストのために煽っただけらしい。なんとも人騒がせな話である。
ともあれ、この結果を受けて、シルビアは更なるポーション製作に精を出すらしい。
今回のは二か月程度だったが、これを一年戻すとなると効果をもっと上げなくてはならない。
「今は必要ないけど、また新入りが入ってくるかもしれないしねー」
その新人が戻りたいと希望した時、差し出せる薬があると安心だろう。
政府的には邪気を払える人員はどんどん増やしたかったりするかもしれないが……まあ、当事者の思惑というのは得てしてズレるものである。
俺は、今まで通りの生活に戻った。
親に「戻らないことにした」などと連絡はしない。戻れない前提で生活している家族にそんなことを伝えても仕方ないし、俺が戻りたくないと思っていたからといって、ある日突然戻らない保証はないからだ。
なので、俺はとりあえず夏休みの宿題を進めたり、夏休みの予定に思いを馳せたりしながら、いつか自分も後輩を迎えることがあるのだろうかと、ぼんやり思いを巡らせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます