第五章【対峙】6
「あ、帰って来た」
だが、朽葉は私の横を通り抜け、その細く短い手で玄関戸の鍵を開ける。そして戸を開く。
開かれた先、濃い夕闇に染まる町の中を此方へ向けて真っ直ぐに飛んで来る者がいた。紛れも無い、灰色の彼である。私は安堵の溜め息を先程よりも強く吐き出した。飛び込むようにして灰色の彼が家屋内に滑り込み、再び戸は朽葉の手によって閉じられる。鍵も同様に。
「火は?」
「投げ付けて来た」
「怪我は?」
「無い」
「良かった」
「ああ」
両者は短い言葉で会話を織り成す。一区切り付いたのか、朽葉は身を翻して奥の間へふわりと飛んだ。灰色の彼はそれを追うこともせず、だが、此方を振り向くこともせず、ただ沈黙したまま其処に浮かんでいる。
「その、すまない。迷惑を掛けて」
私の謝罪の言葉にも振り返らず、微動だにしないまま彼は佇んでいる。
外はいつしか夜に近い色へと変わり、明かりの無い土間も同様に薄闇に包まれた。怒り心頭といった様子でいつまでも口を開かない彼に、私は再度、謝罪する。それ以外、私に出来ることは何かと考えながら。
不意に奥の間に明かりが灯った。ふわりと朽葉がやって来る。彼は私と灰色の彼とを見比べるようにして見つめ、首を傾げた。
「何をしているの、いつまでもそんな所で。上がったら?」
それにも灰色の彼は返答しない。三者三様に黙したままの時間が過ぎ行く。それを破ったのは、低く静かな灰色の彼の声だった。
「何故、来たんだ」と。
しかし私が答えるよりも早く、朽葉が代わりに回答を織った。
「あ、それはさっき僕も聞いたよ。君が心配だったんだって」
ややあって、ようやく灰色の彼は此方を見た。薄暗がりの中でも彼の目玉は星を映し込んだ夜空のように、ぴかりと光っている。やはり彼は猫なのではないだろうかと、私は今、自らが置かれている状況とはまるで見当違いのことを思った。
「心配?」
夜の空のような目が、ぎょろりと動く。私は頷き、短く肯定の返事をした。すると、彼は途端に奥の間の方へと一人でふわふわ飛んで行ってしまった。
「急にどうしたんだ」
呟いた私の心情を助けるように朽葉が答えた。
「嬉しかったんだ、きっと。僕も嬉しい。ありがとう、ええと、そういえば君の名前を聞いてなかったね」
心なしか柔らかく笑い、朽葉は丁度、私の目の高さの所まで降下して尋ねた。
名前。思えば私も灰色の彼に幾度かそれを尋ね、幾度も知りたいと思った。だが、最早、私は名乗るべき自身の名前を持ち合わせていないのだ。いつ頃、失ってしまったのか。それすらも思い出せない。
心中に拡散するものは悲しみなのか恐怖なのか。記憶にある限りでは私は自分の名を忘れてしまったことは今まで一度も無い。私は無理矢理に少し笑い、告げた。
「実は、忘れてしまったんだ」と。
朽葉の美しい目は灰色の彼のものと同じように、薄暗闇の中でも何処かの光を受け取っているかの如く表面に水のような輝きを湛えている。其処に一瞬、驚愕の滲んだ動揺を私は確かに見た。だが、すぐにその色は消えて行く。朽葉は、ふさふさとした毛に覆われた短い手を私の頭に伸ばし、撫でるように動かした。
「以前に話したように、君は有だ。名前がなくても君は君。帰れる。その為に僕達がいる。さあ、行こう」
朽葉は私を奥の間へと促す。私は後に付いて歩きながら、ありがとう、と伝えた。何てことは無いよ、という柔らかな音を含む返事がどうしようもなく温かかった。
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