第五章【対峙】3

 ――いつの間にか、うとうととしたのだろう。気付くと外は夕暮れに染まっており、夕陽を受けて玄関引戸が赤く輝いている。遠くで烏の鳴き声が三度、聞こえた。


 私は軽く目を擦り、板間をぐるりと見回す。灰色の彼の姿はない。まだ帰っていないのだろうか。私は少しばかり心配になる。出て行った時、確か太陽はまだ高い位置にあった筈だ。それが今はもう暮れ掛けている。時間が掛かり過ぎではないだろうか。


 いや、彼と朽葉は親しいようだし、何か話でもしているのかもしれない。彼が朽葉の貸し本屋へと行ったのなら、という話だが。


 またも烏が三度、鳴く。その唐突さと鳴き声の高さが不意に私を掴むようにして不安にさせる。外は徐々にだが確実に赤を濃くして行く。私は、この色が好きではない。以前、菓子商店で語った話にもあった色だ。


 ――そして、この色彩は、あの生き物を思い出させるのだ。


 思い返すだけでも、ぞっとする。一体、あの生き物は何だったのであろう。山のように巨大で、金色の毛に包まれていた。そして、その毛が割れると、中は目を逸らしたくなるほど禍々しい猩々緋しょうじょうひに染め抜かれていた。私は、其処に見てはならないものを見たように思う。真夜中、自室の行灯あんどんの明かりと外の月明かりという微かな光の下でも分かる程の、恐ろしい何かを。だが、幾ら考えてみてもそれが何であったかを思い出せない。こういったことは今に始まったわけでは無い。此処に来てから、頻繁に起こっているように思う。


 私は、このように忘れやすい性質ではなかった筈だ。思考をまとめられぬ程に困ったことは数える程しかないと記憶している。


 しかし、此処では結論が見出せなくてまとまらないのではなく、まるで脳裏にもやが張り出すようにして考えるという行為を妨げられる。やがて細道を見失い、考えることを放棄させられる。そう、させられているのだ。妨げられ、放棄させられ。やはり、此処は異質だ。私は、此処にいてはならない。帰るのだ。既に何処とも知れぬ地となってしまった私の故郷へ。


 そこまでをどうにか考え抜いた時、またも烏が三度、声高に鳴いた。引戸の方を見ても、未だ彼が帰って来る気配は無い。戸は先程よりも深まった夕暮れの暗さを受けて、黒と赤の混じり合ったような不吉な色合いを見せていた。


 ――誰が来ても開けるな。


 灰色の彼の言が巡る。だが、あまりにも遅すぎる。私は、いよいよ心配になり、静かに鍵を開けて外を窺う。其処は夕暮れ時の町。誰の姿も見えない。彼の名を呼ぼうにも、私は未だ、その名を知らない。


 私は更に左右を見渡す。やはり誰一人、猫一匹、影も形も無かった。


 西の空には沈み掛けの血溜まりのような太陽が七割程、顔を見せている。それは、不気味にも私に笑い掛けているようにも見えた。こんなことを思うとは、どうかしている。


 私は一度、足元に目を落とす。思考する。朽葉の貸し本屋に行く道は強雨だったが、翌朝の帰途は良く晴れていた。大体の道筋は覚えている。


 私は顔を上げた。外に一歩、踏み出す。僅かの音を立てることすら躊躇う程に静まり返ったこの町が、私はとても恐ろしかった。静寂に気付かれぬように引戸を閉めて施錠する。私は灰色の彼を探しに、朽葉の貸し本屋まで行ってみることにした。

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