第五章【対峙】2
その時、それよりも強い音を以て引戸が二度、叩かれた。振り向くと、誰かが立っている影が見える。応対すべく私が立ち上がり掛けた時、待て、と静かな声が後ろから聞こえた。見るまでも無く、その声の主は灰色の彼だろう。
私の思考を肯定するかのように、彼はいつものようにふわふわと床上僅かの高さを浮遊し、私の隣に並び立つ。そして、引戸へと向けて言い放つ。何用だ、と。それはまるで訪問者が誰であるか分かっているような口調であった。
「ご挨拶だね。わざわざ丁寧にも来てやっているというのに」
返された声は女性のもの。記憶に違いが無ければ菓子商店の店主であろう。
「頼んだ覚えなど無い」
「本当に失礼な奴だよ、お前は」
「用件を言え」
「粗雑な物言いだね。まあ、良い。私はお前の同居人に話があるんだ。いるんだろう?」
同居人。それは私のことだろう。私は、ふと彼の方を見る。彼もまた私を見上げている。その瞳は髪の毛一本分程に細く細く開かれていた。
灰色の彼は私から戸の方へと向き直り、仕事の話なら間に合っている、と威圧すら感じられる声音で告げた。すると同様、威圧を込めた声が戸の向こう側から返される。
「間に合っている? おかしな話だね。此処で働く者はほとんどがあの店で職を持っている。同居している御仁は未だ菓子商店で働いている様子は無いし、他の何処かで働いているのかい?」
そんな話は聞いていないが、と付け足して。
沈黙が生まれる。戸の向こうの影が僅かに揺れる。それはこちらの出方を待っているようにも見えた。
私は知らず、冷や汗が流れる。まとまらない思考の中でも、これだけは分かる。覚えている。三という数字を超えてはならない。
私は二度、あの商店の中で売り子の少女に自らの記憶とでも言うべきことを話した。あと一度で、三に届く。それを止めてくれたのが傍らにいる彼だ。名前も知らない、灰色の座布団のような容姿をした彼。
私は彼に助けられたのだ。そして、理屈ではうまく説明出来ないが、昨夜の会話の断片を少しずつ思い出しながら散っている思考をまとめると、やはり私が菓子商店で働いてみても良いかもしれないなどと思うことは何処かおかしいのだ。たとえ私に帰るべき場所が無くとも。私はもっと疑問に思って然るべきなのだ。私が今、此処にいることに。
「彼の働き口は既に決まっている。無駄足だったな、店主」
しばらくの沈黙を破り、灰色の彼が驚くべき言葉を口にする。私は思わず、弾かれたように彼を見た。彼の目は正面を捉えたままだった。
「決まっている? 何処にさ」
またも沈黙。すると鼻で笑ったように戸の向こう側の人物が告げる。
「出任せは止すんだね」
「出任せでは無い」
「なら、お言いよ。何処で働くというのさ。この町の菓子商店以外の一体、何処で?」
「本屋だ」
「本屋?」
「ああ、話は付けてある。ご足労だったな。お帰り願おうか」
少し経って、引戸の向こうで微かに砂利の音がした。
やがて、その音が連続して生まれ、次第に遠ざかって行く。菓子商店の方角へと歩いて行ったようだ。その音が完全に聞こえなくなってから、私はほっと一つ大きく息を吐き出した。いつの間にか呼吸すら控えめになっていたらしい。余程、緊張していたのだろうか。それは彼も同じだったのか、細く長い溜め息とも取れるものを傍らで吐き出している。
それが終わったと思いきや、彼は、では、そういうことだからな、と私を見上げて唐突に告げた。私が本屋で働くということだろうか。そして既にその話は付いていると? 寝耳に水である。その旨を告げると、今から話を付けて来るから此処で待っていろと彼は言い捨て、素早く引戸を開けてその隙間からひゅるりと抜け出て行ってしまった。
しかし、彼はすぐに引き返し、良いか、誰が来ても開けるな、必ず施錠しておけと付け加えてまたすぐに出て行ってしまった。
私はとりあえず彼の言葉に従い、戸を施錠する。そして元の通りに座る。
あまりにも瞬く間に起きた出来事に半ば私は付いて行っていないようだ。少しばかり呆けている気がする。
どうやら私は本屋で働くことになるらしい。本屋とは、昨夜に訪問した朽葉の経営する貸し本屋のことだろうか。失礼な話かもしれないが、昨日見た限りでは人手がいるようには思えなかったのだが……。
とにかく、詳細は彼が戻ってからになるだろう。私は潔く思考を中断し、ごろりと寝転がる。板間の静かな冷たさが背中に心地好かった。
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