第四章【樹形図】9

「当たらずとも遠からず、という所だろうな。何、お前に助力することは私の意思であり、それに朽葉は同意してくれた。つまり私達の意思だ。それをお前が気に病む必要など無い。だが、気持ちは受け取っておく」


 私が返すべき言葉を探している間に、ふわふわと文字通り空中を舞い朽葉が戻って来た。


 そして元の位置に音も無く座ると、手と思しきものに持っている巻物のようなものを板間の上に、ことんと置く。それは朱の紐で綺麗に括られていた。朽葉は黄丹色おうにいろの手でそれをしゅるりと解き、ゆるゆると広げて行く。


 虫喰いもなく全く劣化を感じさせない白い紙の上には、まるで今書かれたばかりのような濃い色合いの墨で線や文字が記されている。私は無言のまま、それを読んだ。


 私が最後まで読み終える頃、朽葉はとうに全てを広げ終わっていて、板間の上には白い帯が目を刺す輝きを放っているような錯覚を伴って横たわっていた。


「分かるかな。かなり要約されてはいるけれど、つまりはそういうこと。今、君はおそらくこの辺りにいる」


 朽葉が、その細く温かそうな手で紙の上の一部をすとんと指す。


「そして、個々人によって筋道は異なるけれど、とにかく紆余曲折を経て多くの生命はこれらを辿って行く。辿らされている、と言う方が正しいのかもしれない。丁度、今の君のようにね」


 黄丹色おうにいろの手は、緩慢に紙上を動いて行く。そこには墨で描かれた線が数多くある。まるで雲海の中を伸びている大樹の枝々のように。それらは幾つにも分岐している。分岐ごとには小さな文字で注釈が記されていた。


「どの道を行こうとも最終的に辿り着く所は決まっているんだ。つまり、此処」


 朽葉は淡々とした口調で語る。それと同じ調子で、とん、と最後の地点を示す。注釈には、無、と一文字が書かれているのみ。私は、その文字から目が離せなくなる。それを感じ取ったのだろう、朽葉が補足するように語った。


「無。これが、僕達と君がいる町。此処の町のことだよ。まだ本当の意味では君は辿り着いていない町。僕と彼は既に辿り着いて久しい町」


 一度、言葉を切り、朽葉は灰色の彼の方をちらと見遣る。私がその視線を追い掛けると、未だ灰色は囲炉裏の中央を無感情とも言える様子で見つめ続けていた。


「大丈夫。君はまだ戻れる。簡単なことだよ。何事にも道筋というものが存在する。君が本来の意味とは異なっても、とにかく此処にいるという事実がある。つまり必ず、辿った道があるということだ。それを正しく戻るだけだ。振り返るだけ。君が戻りたいのなら」


 ――振り返る。私は、朽葉の言葉でようやく合点が行った。灰色の彼が幾度も私に向けて繰り返した言葉、振り返れ、というもの。それは、こういうことだったのだ。経緯を振り返り、此処に来た道を入口目指して辿り、帰る。元いた場所へ。


 確信は無かったが、再度、私が灰色を見るとかちりと目が合った。それは先程に見た無感情の瞳では無く、夜空に浮かぶ冴え冴えとした月のような輝きを湛えたものであった。私は、その美しい目玉に確かに強い肯定を見た。


「そういうことだ」


 灰色の彼が短く告げる。そして一度、その両眼を伏せた後、再び彼は私を正面から見た。


「こちらにも色々と事情なり制約なりがある。遠回しになっていたことについてはすまなかった。とにかく、こうしてある程度は見えて来たものがある。その上で問いたい。お前は、どうしたい?」


 宵闇のような深く黒い目が細い月を抱いて私を見ている。傍では、朽葉が巻物を戻しているのだろう、しゅるしゅるという音がしていた。雨風の音は先からずっと続いている。それはまるで私の背を押し出すようにも今となっては聞こえた。


「私には欠落しているものがある。振り返ってみても、何処に戻れば良いのかも分からない。それでも私は、戻りたい。正直な所、この町には得体の知れない影があると感じる。それが私は今、心底から恐ろしいんだ。二人には良くして貰ったのに申し訳無いが」


 灰色の彼が、緩くかぶりを振った。


「そんなことは気に病まなくとも良い。元より私は、お前がそう告げることを望んでいた。これは私個人の希望に過ぎないから今まで言わずにいたが。加えて、決まり事に掛かることだから言えずにいたというのもある。とにかく私は、必ずお前をこの町から抜け出させてやりたい」


「うん、それが良いよ。君にはまだ有が感じられる」


 ゆう。朽葉は、そう言った。


「言わば、僕達は無なんだ。無が有を気取っているものの集まり、それが僕達であり、この町そのものだ。君は有だ。いつかは一切の有が無に転じる。それは大昔からの約束事で自然なこと。でも、此処には歪められて辿り着いた者がほとんどだ。おそらく君も。歪んだら正せば良い。歪みに屈して無になる必要も理由も決して無いんだ」


 そう言って朽葉は朱の紐で巻物を綺麗に括り、両の手でそれを胸の辺りに携える。朽葉は心なしか俯いていた。


「今日は此処に泊まると良いよ。もう遅いし、ひどい雨だ。明日の朝方には止む筈だから。そうしたら仮宿に戻って、振り返るんだ。おそらく流れというものが君を最終地点まで押し流そうとする。元へ帰りたいのなら、それに従ってはいけないよ」


 そこで再び朽葉は私を見た。自身の名前と同じ字を冠する朽葉色の瞳は、私の姿を通り越し、見える筈の無い明日や、それ以降を遠く見つめているように思えた。


 ――その夜、私は板間の隅に布団を敷き、眠った。囲炉裏を挟んだ反対側には灰色の彼と朽葉が、まるで寄り添うように並んでいた。薄暗闇の中に浮かび上がるその二つの姿はどうしてか私の胸を強く打ち、朝になっても変わらないそれらが明かり取りの窓から差し込む微かな陽光に照らし出されているのを見た時、突き上げるような、いわゆる郷愁とでも言うべきものが確かに感じられた。


 そして、私にも、私の傍らに寄り添ってくれていた誰かがいたのだろうかと、覚醒し切っていない脳裏の一部で考えていた。一瞬、菓子商店の売り子の少女が浮かんだ。店を辞めたという彼女は今、何処でどうしているだろう。


 やがて陽が昇り、その光が勢いを強める頃、灰色と朽葉の二人は目を覚ました。私は心からの礼を告げ、灰色の彼と共に貸し本屋を後にした。


 今、私が戻るべき所、仮の住まいに向けて歩き出す。隣には灰色の彼がいる。三日間続いた昨晩までの雨も風も嘘のように止み、朝の清浄な空気の間を泳ぐようにして太陽の光が輝きを主張している。


 私達は互いに無言のまま来た道を戻って行く。その間、去り際、朽葉がぽつりと洩らした言葉が私の脳味噌を揺らすように廻っていた。


 ――君に貸した本は僕が書いたものなんだ、もう遠い昔にね。綺麗な朽葉色の装丁だっただろう?


 彼は言っていた。朽葉という名は仮初めのようなものだと。


 ――とうに本当の名前は忘れてしまったからね。朽葉という名を瞳の色から自分で付けたんだ。さびしい字を書くけれど存外、気に入ってね。装丁にも使ったというわけなんだ。


 彼は、何処か影のように苦く笑った。


 ああ、そういえば。私の名前は何だっただろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る