第四章【樹形図】3

 目に入り込む雨と、視界に広がる雨靄で彼の姿を見失わないように注意しながら、私は歩く。少しでも流星群の如き雨粒の群れから身を守ろうと掲げている右腕が、だんだんと気怠くなって行く。それ程に強く打ち付ける雨であった。水塊のようにも思える。


 立ち並ぶ家々の隙間を縫うようにして私達は足を進める。今の所、誰ともすれ違うことは無い。この天候では納得の行くものであったが、まるで無人の如くの町の様子に私は言葉を見失う。


 同時、いや、と考え直す。確かに今の私の視界に映り込む人影は皆無だが、肌に感じる雰囲気とでも言うべきものは今までに何度も人の行き交う中で確かに覚えたものであった。それは、町一番と評判の菓子商店の中にゆったりと漂うそれと非常に酷似していた。菓子屋の家屋内では、言うなれば人の中に在って人の中に在らずとでも表されるのであろうか、人々の気配がとても希薄で、私はたびたび不安を覚えたものだ。


 そう、私は今、思い当たった。あれは不安だったのだと。違和感にも似ていたが、それは菓子屋の中に猫がいることや、広々とした空間に入っている店の全てが菓子の店だということによるものだと思い、特に深く自らの感覚を追及することは無かったが。勿論、それらから来る、常とは違った感覚の存在を無視することは出来ないが、とにかく私が最も強く多く思っていたことは「不安」だったのだと理解した。


 人がいようが、いまいが、ざわざわと落ち着かない不安が私を蝕んでいる。それはおそらく、この町全体に対して言えるのだろう。


 一度、意識してしまうと私は途端に怖くなった。先を行く彼の姿を覆い隠そうとでも言うかのように絶え間なく降り注ぐ豪雨の向こう側、私は決して彼の存在を見失わないよう注意した。そう、私は決して彼を見失ってはならない。彼だけが此処で私の指標と成り得る人物であると――厳密に言えば彼は人では無いのかもしれないが――私は唐突に深く認識してやまなかった。


 少しずつ周囲の家々が数を減らして行く中、彼の行く先に少しばかり大きな平屋の家が見え始めた。思った通り、彼はその家の前で立ち止まる。私も後に続くようにして彼の隣に立った。


 僅かの屋根では防ぎ切れないほど斜めに叩き付ける雨から一刻も早く身を守りたくて、私は彼に目的地は此処かと確認した。そうだ、と頷いた彼を尻目に私は二度、戸を叩く。返事は無い。或いはあったとして、この雨音にかき消されているのかもしれなかった。


 もう一度、戸を叩こうと私が構えた時、来ることは伝えてあるから開けて構わないと彼がおもむろに言った。それならそうと早く言ってくれと思いつつ、私は戸を引く。意に反して戸は勢い良く開き、右に素早く滑り、思い切り良くぶつかった。それは雨の音と相まって大きな音を生じさせる。


 私は反射的に謝罪を口にしたが、そんなことは意に介した様子も無く、灰色の彼は私の脇をふわりと漂い一足先に家屋内へと入って行く。気付けば家の中に雨が吹き込んでいた為、私も急いで中に入り、今度は慎重に戸を閉めた。


「おい、いるんだろう。布ぐらい出してくれ」


 彼が奥に向かって少し張った声で告げると、分かってる、という小さな声が返って来た。私は隅に傘を立て掛け、声のした方を見遣る。


 少しの間の後、白い布の束が薄暗い屋内の中、私達の前へと飛んで来た。思わず私は幽霊の類かと思い、一歩後ずさる。だが、灰色の彼が布を半分程受け取ると、それは私の早合点だったと分かる。布は幽霊では無く、しかと命ある生き物によって運ばれていたのだ。


 灰色の彼が布を受け取った後の空間に現出した朽葉色くちばいろの二つの瞳がぎょろりと動き、その後、私をじとりと見定めるようにして其処にある。私は思わず視線を逸らせなくなり、呼吸を忘れたかのようにしてそれを見つめていた。


「使わないのかな」


 布。初対面の生き物は言外にそう告げ、真っ白のそれをぐいと私に差し出すようにする。私は未だ驚愕した状態のまま、何とか礼を言って布を受け取った。


 すると、その生物の全貌が顕わになる。朽葉色の瞳を持ち、黄丹色おうにいろの毛を持つ目の前の生き物の第一印象は、一言で言えば灰色の彼の色違いの種であった。私はますます驚きを深くし、何度か目をしばたいた。


「家の中が濡れるから出来れば早く体を拭いてほしいと思う」


 ぼうっとなっていた私を現実に引き戻すかのように橙色の生き物はそう言い、一度だけゆっくりと瞬きをした。


 私は短く返事をし、驚きと緊張の中で体を拭いた。布はすぐに水気を吸い取り、重くなる。その間ずっと、橙色の彼は視線を私の顔に固定したまま微動だにしなかった。


 やがて拭き終わった頃を見計らって、橙色の彼は私の手から布を取り、灰色の彼からも同じように受け取り、再び家の奥へと引っ込んで行った。

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