第四章【樹形図】2

「出掛けるぞ」


「今からか?」


「何か不都合でもあるのか」


「いや、お前には聞こえていないのか、この雨風の凄まじい音が」


「無論、聞こえている」


「それで、出掛けると?」


「そうだ。お前が此処に骨をうずめる覚悟だと言うのならば無理にとは言わないが」


「どういうことだ?」


 またも雨の激しさが一段と強くなったようだ。最早もはや、豪雨と言って差し支え無いだろう。じとりと重たい雨気あまけが家屋の中にまでも入り込んで来るようだ。また、それと似たものが彼の醸し出す雰囲気から感じ取れた。


 彼は私の問い掛けには答えなかった。しばらく待ってみてもそれは変わらない。黙して語らず。そう、これが本来の彼の姿勢だ。そして、彼が黙するということ、それが彼の答えであると私はもう気付いている。また、彼自身の口から昨日、そう取れる言葉を聞いた。ならば、私が取るべき行動はもう決まっている。


「出掛ける準備なら出来ている。何か持って行くものは?」


「雨傘ぐらいだな。もっとも、この様子では無駄になるかもしれないが」


 彼は私に背を向け、土間へと下りて行く。私もそれに倣うように彼に付いて行く。


 黒橡色くろつるばみいろの傘を手に引き戸を開けると、待ちわびたと言わんばかりに矢の如く降り注ぐ雨が目に映る。耳に痛い程の雨は、その勢力を証明するかのように全力で私の体に当たり、弾ける。耳に痛いばかりか体にも痛い雨であった。


「やはり傘など意味が無いな」


「そうだな」


 私達は鉛色なまりいろの空を見上げて、いやに冷静な会話をする。迷った末に私は一応、雨傘を片手に外へ出る。帰路において、もしかしたらこれが役に立つくらいには天候が回復しているかもしれないではないか。何事にも可能性というものは常に付き纏う。良くも悪しくも。それがたとえ、今日の天気という非常にささやかで些細なことであっても。


「どうした。早く行くぞ。私は決して雨に打たれることが好きというわけでは無いのだから」


「猫は雨が嫌いと聞いたことがあるな」


 私たちは悪天候の中、足を踏み出す。地には浅い湖のような水溜まりが何処までも広がり、本来の道の顔を覆い隠している。履物すら無意味のように思える現状である。


「何度も言うようだが私は猫という生物には分類されない」


「それなら、何に分類されるんだ」


「私にも分かりかねる」


「そうか」


 泥水が撥ねる。着流しはたちまち水を吸って重たくなり、体全体に纏わり付く。頭の先から足の先まで何もかもが雨に汚濁されて行く。それでも何故か、私の心は幾分軽かった。


「ところで、何処に行くんだ」


「貸し本屋だ」


「お前が、あの本を借りて来た所か?」


「ああ。昨日の朝、返しついでにお前のことを少し話した。いや、借りる時には既に幾らか話し伝えてはあったのだがな。主人が、お前に興味を持った。出来れば話してみたいと」


「貸し本屋の主人か?」


「そうだ。彼は私の古くからの友人でもある」


 先を行く彼の毛も水をたっぷりと含み、とても重たそうであった。それでも彼の浮遊飛行速度は落ちることは無い。

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