第三章【遭遇、降雨】5

 ――その夜、私は行灯の明かりの下、彼が持って来た書物を読んだ。これが口の中から出て来た事には驚いたが、予想に反してそれは唾液まみれなどという事は無かった。


  始まりからして、体験記の形を取った小説のようだ。流れ綴られている文字列を追う。ページを捲る。単調な作業が続いた。短い話ゆえに、然程の時間は掛からず読み終えたように思える。私はもう一度、最初から読み直す事にした。


 そうして私が二度、その物語を読み終えた時、不意に行灯あんどんの明かりが消えた。油が切れたのだろうかと行灯を見遣った時、外から何かを引き摺るような音がした。


 夜半に何事だろうかと明かり取りの窓を少し開けてみると、私の視界一杯に毛のような物が映り込む。面食らい、そのまま凝視していると、それはずるずると左方向へと動いている事が分かる。私はあまりの出来事に言葉を失った。引き摺るような音はそれが移動している音なのだ。


 幾許いくばくも無くして、毛の如き物は視野から消え失せる。いつの間にか雨は止んでおり、微かな月の光が緩やかに流れ込むようにして此方を照らす。


 私は窓の隙間から左方向を注意深く覗いてみた。そこには天に届くかと思う程の巨大な金色こんじきの毛の塊があった。山のようなそれは背に月光を受けながらじりじりと移動して行く。


 私は思わず息を飲んだ。そのまま目を離せないでいると、不意にぴたっと金色の毛の動きが止まる。夜の静寂の中、空間にそびえるようにして存在しているそれは、私の体を凍り付かせる。


 瞬間、金色の背に亀裂が入る。上から下、縦方向に走り、毛の塊は左右に割れた。中は、僅かな月の光だけでも此方に分かる程に赤く、禍々しい色彩を見せ付けるように佇んでいる。その猩々緋しょうじょうひに押し包まれるようにして、何かの輪郭が幾つか見えたような気がした。


 私は、ぐいと目を凝らす。そして、それが何なのか分かった時、私は叫び出したくなった。だが静止していた金色が再び、ぐぐぐと動いたことで私は何とかそれを堪える。上部を見上げると、まるで此方を振り返ろうとしているような動きをしていると知り、私は素早く窓辺を離れた。


 知らず、心拍数が上がり、呼吸が荒くなっている。落ち着け、声を出すなと私は自分自身に言い聞かせて、ただひたすらに自らを殺すようにして時が過ぎるのを待った。厳密に言えば、金色の化け物が去るのを待った。


 長すぎると思われる時間の後、ようやく再び音が聞こえ始める。何かを引き摺るような音だ。それはひどくゆっくりとしてはいたが、確実に遠ざかって行く。私は震えていた。


 ずずず、という音が微かにも聞こえなくなった事を確認してから、私は慎重に窓を閉め、急いで床に就いた。暗闇の中、目蓋の裏に先程の金色が焼き付いて離れなかった。

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