第三章【遭遇、降雨】4

 翌日は雨だった。此処に来てから初めての雨だ。強い雨音は遠慮なくざんざんと響き渡り、雫は群れになって窓を叩いた。冷えた空気が家の中に漂っている。


  ほんの少し窓を開けてみると、途端に雨が風と共に勢い良く吹き込み、格子と衣服を濡らした。私は慌ててぴしゃりと窓を閉める。ふと部屋の中を見渡すと、いつもの彼の姿がない。板間にいるのかと思ったが、其処にも彼はいなかった。名を呼ぼうとして、私は彼の名を未だ知らないことに気が付く。


 とりあえず朝餉あさげを済ませ、器を洗う。その間に、今日は菓子商店に行くことはよそうと考える。この雨では傘を差した所でほとんど無意味になりそうだ。風も強く、それがまるで獣の咆哮のように私には聞こえた。


 それからしばらく経っても、彼が姿を現すことは無かった。今までずっと目に入る所にいた存在がいないということはこんなにも心を落ち着かなくさせるのかと、雨音に耳を傾けながら私は思う。その激しすぎる音の連続が心臓までも叩くようで、だんだんと焦燥が募って行く。何処かに出掛けているのだろうか。こんなにもひどい天気なのに? 彼は今、何処でどうしているだろう。


 私の脳裏に、昨日の出来事が鮮烈に蘇る。彼と白猫と女主人の言葉が、しゃぼん玉のように次々と浮かんでは何処いずこかへ消えて行く。彼らは一体、何について話していたのだろう。


 あの時、強く言い放った彼の言葉が私の脳味噌を揺らす。私が煎餅のかけらに手を伸ばしていた時。やめるんだ、と彼は言った。彼の言葉が無ければ私は、何の疑問も持つこと無くそれを口にしただろう。今までのように。


 おぼろげに、私は今の自分の置かれている状況が異質である事に気が付き始めていた。不可思議な事は多くある。見知らぬこの町で、この家で、私はこうして暮らす事になった。 灰色の座布団のような、猫のような生き物と共に。彼は人間の言葉を理解し、自らもそれを操る。


 町の中心に存在する、大きな菓子商店。中には途方も無い程の数の菓子売り場があり、売り子がいて、猫がいる。白い猫は地に響く声で人語を話す。閉店の折には、地の底から生まれているような鐘の音が鳴る。菓子商店には女主人がいる。


 他に何かあっただろうかと私は考えを巡らせる。だが、いずれにしろそれらのどれもが、私には決して受け入れられない事では無いのだと改めて思う。理由は良く分からない。冷たい霧が思考を取り巻いているかのような感覚の中、私は見えない現状の彼方を見据える行為を放棄した。


 ――どれくらい時間が経ったのか、気が付くと私は眠っていたようだった。覚醒し切っていない頭で、今は何時くらいだろうかと考える。未だ雨は降り続いていた。


 ぐるりと周囲を見渡してみたが、彼の姿は無い。呼ぼうとして開き掛けた口が、またも呼ぶ名前を知らないという事実にぶつかり、閉ざされる。彼の言を借りるならば記号に過ぎないという事らしいが、やはり名前を知らないというのは不便だ。今度こそは教えて貰おうと私はひそかに決意する。


「おい、いないのか?」


 仕方無しに私はそう呼び掛けてみる。しかし、返って来る声は無かった。この家には私一人分の気配しかしない。


 ふと、彼が何度も繰り返した言葉が思い出される。振り返れ、と。彼は幾度も幾度も私に向けてこの言葉を告げた。だが主語が無く、他に説明も無いので、彼が一体何を言わんとしているのか私には分からなかった。


 振り返るとは、どういう事だろう。自分が今、向いている方向とは反対の方向を向く事。あとは、思い出す事。思い出す……何を?


 その時、前触れ無く、がらりと引き戸が開かれた。はっとして其方を見遣ると、人間の頭があるであろう位置には何も見えず、私が視線を下げるとその存在を認める事が出来た。


「お前、出掛けていたのか」 


「そうだ」


 彼は、ずぶ濡れだった。灰色の毛は普段より体積を減らしたようになり、その毛先からは絶え間無く水滴が滴り落ちている。たちまち土間には彼の体の分の小さな水溜まりが生まれた。


 私は、何か拭く物、と口にしながらとうで出来た籠の中を漁った。その間に、彼は思い切り体を振って水滴を飛ばした後、いつものようにふよりと漂うように浮いて板間へと上がって来た。


 私が差し出した布を彼は受け取り、ぐるぐると包帯を巻くかのようにする。そして体全体に密着させるようにぎゅっと引き込んだ。白い布に水分が吸い取られて行くのが見える。そしてはらりと布を落とした後、彼は、お前に渡す物がある、と覇気の無い声で言った。


 明らかにいつもの彼とは様子が違う。私がどうかしたのかと尋ねるより早く、彼は唐突に口を大きく開いた。それは本当に大きく、顔面の半分くらいが口内で埋まってしまった。獣らしい鋭い上下の歯が光る。その口の中、何かが見えたような気がして私は恐る恐る其処を覗き込む。彼が口を閉じないことを祈りながら、私は右手を差し入れて、それを取り出してみた。


「お前に読んでほしい」


 彼は珍しく瞳を開いていた。濡れた闇夜のように黒く光る目が三日月を湛えて私を見ている。二、三度、ぱちぱちと瞬きをして、彼は続ける。


「不完全な物だが、無いよりはましだろうと思い、持って来た。明日の朝には返す約束をしている。今夜の内に読んでほしい。ところで今日、菓子商店へは行ったか?」


「いや、雨風が強かったので行かなかった」


「そうか。私はもう眠る」


 ふいと彼は私の横を通り過ぎ、板間の奥の隅に落ち着く。そして目を閉じた。


「あ、その前に名前を教えてくれないか」


「二度も拒んだというのに、案外しつこい男だな、お前は」


「今日、お前を探すのに呼ぼうとして困ったんだ。どうしても言いたくないなら諦めるが」


「探したのか、私を」


「ああ」


「何故」


「何故って、いつもいるのに見当たらなかったから。しかもこの雨だろう、外へ出ているのかと気になったからな」


「……そうか」


 それきり、彼は沈黙してしまった。余程、眠たいのだろうか。それともやはり、名を明かす事はしたくないのだろうか。どちらにしろ、今日の所も私は諦める事にした。


 先程、彼から受け取った書物に目を落とす。朽葉色くちばいろの表紙をした薄く小さなそれを、彼は私に読んでほしいと言った。彼がそう言うならば私は読もう。彼の発言や態度は、意味を持たないことが無かったように思えるからだ。其処には明言出来ない真意が隠されている。


 彼はもう眠ったのだろうか。板間の隅で目蓋を下ろし、じっとしている様は、まるで本物の座布団のようだった。もういっそ、座布団と呼んでやろうかと一瞬思案したが、それはあまりだと考え直す。やはり彼の口から名前を聞きたい。


 彼の言う通り、名前は記号に過ぎない。個を識別する為の呼称に過ぎないだろう。だが、それだけとも限らない。もしも彼が本心から拒否しているのでなければ、私は、座布団のような外見をした灰色の不思議な生物である彼の名を知りたい。私は少なからず彼の持つ誘引力に惹かれているのかもしれない。

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