第三章【遭遇、降雨】1

 此処に来て確か今日は五日目になる。しかし、そもそも私は此処に「来た」のかどうかも実の所、定かでは無い。そればかりか、私の持つ私に関することの内、定かであることの方が少ないように思えた。


 私は菓子があまり好きでは無い。私は大根の漬物が割と好きだ。そういう単純な情報しか、私は私について持ち得ていないように思える。そこに疑問を覚えないと言えば嘘になる。だが、特別に疑問には思わない。それがどうしてなのかは分からない。


 今日の朝餉あさげには大根の漬物が用意されていた。相変わらず、朝を迎えるとこうして食事の用意が整えられている。そして相変わらず、それを食べている間、彼は板間の隅でじっと私を見ている。


 時々、食べなくても此処では生きて行けるというのに何故なにゆえお前は食事をするのだろうかとか、人間は不可解な生き物であるとか、食べるのが遅いなとか、独り言かどうか判別しづらい事柄を、やはり独り言かどうか判別しづらい声で話している。


 食事が済んで私が立ち上がると、彼は音も無く付いて来る。着物に袖を通して草履を履く間も、隣で私の影のように待機している。引き戸を開けて施錠し、歩き出すと、もう当然であるかのように彼は黙って私の隣に位置する。


 多少は慣れてしまった所はあるが、未だ名も知らぬ猫のような生き物がこうして私に付き従うようにしていることは、どうにも理解し難いことである。そう、名前だ。私は彼にお前と呼び掛け、彼もまた私にお前と呼び掛ける。やはり互いの名前は知っていた方が何かと都合が良いのではないだろうか。私は以前に一度、はぐらかされてしまったことを思い出しつつ彼に再び名前を尋ねた。


「名前など記号に過ぎない」


 だが、彼から返って来た答えは以前に聞いたものと全く同じそれであった。


「そうかもしれないが、こうして共にいる以上、お互いの名前は知っていた方が良いだろう?」


「何故だ」


「何故って……呼ぶ時に困るじゃないか」


「そうは思えない」


「私はそう思うんだ」


「意見の不一致ということだな」


「もしかして名前が無いのか?」


「……そんなことは無い」


 少しの間を空けて彼は言った。


 そして、「それ程までに私の名が知りたいか?」と続けた。其処に怒りは感じ取れなかったが、あまり積極的な意思は見受けられなかった。


「お前がどうしても言いたくないというなら別に良いさ」


 私は僅かに思案した上で、そう告げた。


 沈黙がお互いを包む。そうこうしている内に、もう見慣れた菓子商店が見えて来た。今日も変わらず客入りは良いようで、まだ日が高くは昇り切らない内から店に入って行く人々の姿が目に映る。本当にこの町の人間は菓子が好きなんだなと改めて思わざるを得ない。


「必要と思った時に名は告げよう。それよりも昨日、私が言ったことを覚えているか?」


 不意に、彼が声を落とした様子で言う。


「どうしたんだ、急に声を小さくして」


「良いから答えろ。それと、お前も少し声を落とせ。歩調も緩めろ」


 不審に思いながらも私は彼の言う通りにした。共に過ごした時間は短いながらも、私はほんの少しずつに過ぎないかもしれないが彼について理解しつつあった。


 彼は、その発言のほとんどに確固たる意思がある。もっと言えば、何か裏がある。その全貌を言葉にすることは無いが、彼は私の知らないことを知り、直接的にではないがそれを伝えようとしているように思えるのだ。


「昨日のことか?」


 そう私が尋ねると、彼は肯定した。


「そうだ。最小の完全トーティエント数、二番目に小さな素数」


「ああ、三か」


「それの持つ意味。私は、明日の数字を考えろと言った筈だ。つまり、今日の数字だ」


「考えてはみたけど分からなかったな、正直。此処に来て何日ということかと思ったが、今日は五日目であって三日目では無いし」


「此処に来て、お前は何をした」


「菓子商店に行って女主人に会って、仮の住まいを得て、お前に会った」


「その後だ」


「その後? ああ、ちょっと気に入った菓子売り場が出来たな」


「もっと細かく見ろ。全てのことには理由がある。必然と言っても良い。此処では特にそうだ。どの事象にも必ず理由が存在する。それを念頭に置いて振り返れ、良いな」


 其処まで話した時、菓子商店はもう目の前だった。そのせいなのかどうかは分からないが、それきり彼は口を閉ざしてしまった。

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