警鐘を打ち鳴らせ

有未

第一章【振り返れ】1

 振り返れ。振り返れ。振り返れ。もっと、もっと振り返れ。今、最も実行すべきは「振り返る」こと。良いか、忘れるな。常に頭に置き、常に実行しろ。





「振り返れ」


 私は、またその言葉で目を覚ます。低く響くその声は割と聞き慣れてしまったようだ。鐘の音や鶏の鳴き声、また、その代わりとなるものが存在しない以上、起床する際に役立っていると言えなくもない。しかし、これで二日連続になる。私がこの言葉で起こされることに少なからず辟易を覚えていることもまた事実だ。


 私がいつものように体を起こすと、いつものように私を見つめる夜の闇のような瞳と目が合う。見続けていると本当に夜に吸い込まれそうなほど、その二つの目は美しく、恐ろしい。そして、闇に染まった夜空に頼り無く浮かぶ三日月のように、瞳の中心には黄金が輝く。私は初めてその瞳を覗き込んだ時、まるで其処に別世界の夜空が映っていると錯覚したほどだ。それ程までに彼の目玉は魅力的だった。


「振り返れ」


 彼はまた、先程と同じ言葉を繰り返す。否、先程どころか、もう幾度となく聞いた同じ言葉である。好い加減に聞き飽きて来るというものだ。


 そう、一日目にして私は聞き飽きていた筈だ。その旨はとっくに伝えてあるのだが彼はそんなことはお構いなしとでも言うかの如く、同じ言葉を同じ声音で以て呪いのように繰り返す。たった五文字の音が織り成す発言は、いつ何時であってもその調子や響きといった正しさを崩すことは無かった。


「振り返れ」


 これで今朝にして既に三度目となる。私はついに耐え切れず、もうやめてくれないか、と懇願に近い心情を抱えて彼に告げた。


「では、お前は真に振り返っているか。振り返ることが出来ているか」


 やっと「振り返れ」以外を発したかと思ったのも束の間、やはりと言うべきか、その短い言葉の中にもそれに関するものはしっかりと組み込まれている。私は頭を抱えた。


 一体、彼は私に何を伝えたいというのだろう。幾度も幾度も繰り返される主語のない「振り返れ」という一言だけでは、その真意を汲み取ることは出来ない。


「もっと、具体的に言ってくれないか。そんなにも同じことを繰り返すほど、私に何かを伝えたいというのなら」


 起きたばかりで良く回らない頭のまま、私は言う。彼は私の言葉を理解しているのかいないのか、やはり依然として同じ言葉を繰り返すのみだった。振り返れ、と。


 私はいよいよ諦めを深くし、大仰に溜め息をついた後、布団から抜け出す。溜め息は決して彼への当てというわけではないのだが、そうでもしないことには自分の中にある感情を整理することが出来なかったのである。


 平たく固い布団を押し入れへと仕舞い上げ、その上に枕を放り投げる。おそらくはそば殻が詰まっているのであろう枕は、がさりと音を立ててから沈黙した。低血圧ゆえか、はたまた彼のせいであるかは知る所ではないが、私は少々の苛立ちを覚えながら襖を勢い良く閉める。


 思った通りの音を立てて襖が閉まる。それを見上げていたのだろう、彼は丁寧にも、焦りや苛立ちが生み出すものはほとんどが無意味で不利益である、と忠告した。その発言が更に私の苛立たしさを深くしたことは言うまでもないだろう。


 朝餉あさげ。白米と味噌汁、それに大根の漬物を頂く。質素ではあるが大切な食事である。私は良く味わうようにしてそれらをゆっくりと口へ運んだ。板間の隅では、私を窺うようにして彼が座り込んでいる。正直、あまり気分の良いものではない。何処か見張られているような具合でもある。


 しゃりしゃりと大根の漬物を咀嚼しながら今一度彼を見ると、感情の読み取れない表情でじっと此方こちらを見据えている。黒曜石のような瞳は間違いなく此方を――私を見ているに違いないのだが、何故か私の体を突き抜けて、遠く、私の意識の及ばない彼方かなたの地でも見ているようにも思う。


 私は終わりに麩の浮かんだ味噌汁を飲み、箸を置く。洗う作業は面倒に感じたので、とりあえず私は器を水に浸して出掛ける準備をすることにした。とは言っても、私の持っている衣類は多くない。


「……うん、綺麗だろう。おそらく」


 昨日と同様の着流しに袖を通す。姿見がないので確認は出来ないのだが、おかしくはない筈だ。目立った汚れも無いだろう。


「汚れているかどうかを気にしているならば問題は無い。汚れることなどないのだ、一切が。本来ならば食事も不必要である。お前が食物を摂取することは単なる己の満足に繋げる為の行為であり、生命維持には無関係だ。時間の無駄とも言える」


 いつの間に来たのだろうか、私が驚きのままに振り向けば、つい先程まで板間の片隅で石像のようにして動かなかった彼がそこにいた。見開かれた瞳が私の姿を捉えている。


「食べなかったら死ぬだろう」


「それは常識の範囲での概念であり、此処では通用しないもの。最初の日にそう言った筈だが、くも人間の記憶能力、或いは理解能力とはこうも乏しいものなのか」


「そう言われてもだ、空腹にはなる。腹が減れば食べたいと思うのは不思議ではないだろう」


「是。しかし、その空腹はお前の錯覚に過ぎない。人間の脳味噌は騙されやすい。そう簡単に己の感覚を信じるべきではない」


 私は今日で二度目になる溜め息を吐き出した。埒が明かないとはこういうことを言うのであろう。私には此処で押し問答をするつもりは無いのである。


 彼の横を素通りし、玄関先へと向かう。その後ろを、さも当然と言わんばかりに彼が追って来る。足音はしない。気配で分かるのである。


 ご丁寧にも、草履を履く間、彼は私の隣で侍従のように佇み、私の用意が済むのをただ待っている。こうして黙ってさえいれば、然程さほどの問題は無いようには思える。


「良いか、忘れるな。振り返れ」


 立ち上がった私に彼はまたも同じ言葉を繰り返す。此処へ来て三日目、既に何度、彼は私に「振り返れ」と告げただろう。最初の内は暇潰しも兼ねて数えていたのだが、初日にして四十回を超えた所で私は数えることをやめた。


 私は引き戸を開け、施錠する。それも彼の言う所の「不必要な行為」に当たるらしいのだが、仮の住まいとは言え自らの住まう処を開け放したまま外出する気にはなれない。


 地面と草履がじゃりじゃりという摩擦音を奏でる間、彼は無言で私に付き従う。彼は移動するに当たって音を持たない。どういう仕組みになっているのかは分からないが、見た目だけで判断するならば彼には足が無い。


 彼はいつも地面擦れ擦れの所を浮いて移動している。私の足元でそのような常識を覆す行為が涼しい顔で行われていることについては未だに慣れないのだが、言及した所で納得の行く回答が得られるわけではないということが分かってしまった現在、最早、気にしないでいることくらいしか私には出来ないのである。

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