魔女見習いとクリームソォダ~喫茶「ろまん」にようこそ~
紫陽_凛
1
――お師匠様から聞いていた通り、いや、聞いていた以上の……、
魔女見習いのリリーが喫茶「ろまん」の前に降り立ったのは、八月も末の、残暑激しい夏の夕暮れのことだった。
――あっつい! おかしい! こんなに暑いなんて聞いてない!
魔法界と人間界の季節の流れが違うのだと知ってはいたけれど、これほどとは思わなかった。魔法学校の衣装は防寒性に優れ、黒ずくめで、全身を寒さから守ってくれる。しかし今はそれが、リリーを蒸し上げる鎧と化していた。だくだくと流れる汗を何度もぬぐい、自前の箒を抱きしめるように、「ろまん」の文字を見上げる。リリーは汗まみれの顔を再び拭うと、開け放たれた喫茶店の入り口をくぐった。
「……ここにいることは、分かってるのよ、お師匠様!」
「いらっしゃいませ!」
にこやかに迎え入れる軽装の男は、リリーの格好を見るなり驚いた。リリーはその、平和ボケした男につかつかと歩み寄り、腰に手を当てて箒を突きつけた。
「お師匠様はどこ。……白の大魔女カサブランカはどこ。あなた、知ってるでしょう」
「あー……えー、っと」
明らかに何か知っている風だ。リリーはさらに詰め寄った。
「知っているのね」
「その、……あー」男はちらりと背後に目をやった。何かの機器のなかでごぽごぽと液体が沸騰している。
「お師匠様を出して。さもないと、ただじゃすまないわ」
「あの、お話は聞くので、後にしてもらえませんか。いま、ちょっと忙しいので」
「忙しいですって!? こっちだってめちゃくちゃ暑い中来てるのに……!」
知らぬ間に駆け寄ってきた巨大な猫が、リリーのストッキングに勢いよく爪を立てた。びりびり、と嫌な音がした。
「うぎゃー!」
「こらマサ子さん! なにやってるの! ――申し訳ありません、空いているお席におかけになってお待ちください」
お決まりのセリフを聞きながら、リリーは穴の開いたストッキングを見下ろし、猫をじろっとにらんだ。
「ちょっと、猫! 魔法学校の制服、高いのよ!」
それはこっちのセリフよ、とばかりに猫が鳴いた。長毛の真っ白な巨大猫は、リリーをひと睨みすると、店の奥の方へ引っ込んでしまった。
コーヒーをお客に出したあと、若い男はリリーの隣に座って、まず猫が破いたストッキングについて謝った。
「すみません。マサ子さんはああ見えて気性が激しい猫で……」
「マサ子さんって、猫の名前なの? ……とっても高貴なお名前に聞こえるけれど」
「いやあ、本当はマサカドという名前にする予定だったのですが、女の子だと分かったので、マサ子さんになりました」
リリーは押し黙った。異世界とはいえ、精霊や神や悪霊のことはよぉく学校で教えこまれている。教材に辞典があるくらいだ。――猫にマサカドという名前を付けようとしたこの店主を、リリーはどう評価していいかわからなかった。
「リリーさんといいましたか。祖母の遺言にある通りです」
男はリリーの顔を見つめて言った。
「残夏の日に
不肖の弟子、の部分をつつみ隠さずに言ってしまうあたり、ド天然かデリカシーが無いのだろう。
「あなたの分の夏服を準備してあります。お腹も減っているでしょうから、遺言の通りのメニューを用意しますね――」
「……待って。遺言と言った?」
リリーは周回遅れでその事実に気づいた。
「お師匠様、……お師匠様が? まさか。嘘でしょ?」
用意されていたシャツも、オーバーオールも、そしてヘアゴムも……リリーの好みで、サイズがぴったりで、あつらえたようだった。リリーは、何度も店主の言葉を反芻した。
「祖母は、もう十年も前に……」
そういえば魔法界と人間界では時間の流れが違っているのだった。知識として知っていても、こうして事実として目の前に出されると、その重みに押しつぶされてしまいそうになる。
「お師匠様……」
白の大魔女と呼ばれたカサブランカ。奔放かつ放任主義の、リリーの育ての母親だ。赤子の時から面倒を見てもらい、リリーが全寮制の魔法学校に通えるようになるまで母親役をつとめ――そして「あたしの役目はここで終わりよ」と言い残して人間界へと去った。
リリーは、自力で人間界に渡れるようになるまで待ち、お師匠様を追いかけてきたのだ。それなのに。
「もう、亡くなってるなんて」
つぶやきは、暮れかけた空の向こうに消えていった。涙は出なかった。
「リリーさん。準備ができましたよ」
背後から控えめな「孫」の声がする。リリーは応えるように引き戸を開けた。
のぞき込むように、店主の顔が間近にあった。思いがけず見つめあった瞳の奥に、白魔女カサブランカのあの、緑色のかがやきを見たリリーは、そっと彼から視線をそらした。
「あなた、……名前はなんていうの」
「え。……
「すなお。――名は体を表す、というものね」
「え?」店主はことりと首を傾げた。
「いい名前ね、と言ったのよ」
リリーはカウンター席の方を見た。お師匠様の指示した「もてなし」が、きっちりと用意されていた。
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