風邪引き先輩の夢うつつ

冠つらら

先輩。風邪引いたって、本当?


 頭がぼうっとして、ほんの少しだけ特別な気分になってしまいそうだった。


 ざわめく喧騒が私の目を覚ます。

 動きを止めていた手元を見れば、そこには何も掬えていないスプーンがある。

 はっきりとしない意識できょろきょろと辺りを見回すと、今、自分が何をしていたのかを思い出した。

 ばらばらの足音に、砕けた様子の会話たち。

 傍を通り過ぎていった女の人の手には、自分の手元と同じ色のトレイが乗っている。


 そうだ。ここは会社の食堂だ。


 視線を下げ、まったく量の減っていないミネストローネを見つめてみた。

 もう湯気は出ていなくて、少しずつ冷めているのが分かる。

 うん。そうだ。昼休みを迎え、食堂に来てみたはいいものの食欲はなくて。でも何も食べないのも午後に響くと思ってスープ一つだけを頼んだのだ。

 結局、まともに食す前に眠気に襲われて舟を漕いでしまっていたのだけれど。


 少しだけ自分をみっともなく思いながら、スプーンをスープの海に忍ばせゆっくりと口元まで運んでみた。

 社食の中でもこのミネストローネは私の大のお気に入り。だけどやっぱり今日はその大好きな味がしない。

 スプーンを器に預け、ポケットに入れていたタオルで鼻を抑える。

 ずび、と、微かに情けない音がタオルで抑え込まれた。

 朝起きてから、もう何度この仕草を繰り返しただろう。


「はぁぁ…………」


 出ていく声もどこか鼻が詰まっていて、まるで自分の声ではないようだった。

 一日で一番楽しみにしていた昼休みさえも楽しむ余裕がなくなって、私はそのまま机に突っ伏す。


「だめだぁ……うぅ」


 腕を枕にして額を乗せれば、服の上からだろうといつもよりのぼせていることがはっきりと伝わってくる。

 別に、お風呂に入っていたわけじゃない。ただ風邪を引いただけなのだ。


「やっぱり、早退しようかな」


 独り言すら呟いてしまいたくなってしまうほど。明らかに今朝よりも熱が上がっている気がする。

 かなり軽い微熱だろうと思って迂闊に出社したのがそもそもの判断ミスだ。いやそれよりも、昨日、暖房機能が壊れた部屋で遅くまで残業したことが間違いだった。


「失敗した……」


 何度考え直しても自分が疎ましくて、ついつい昨日の自分に恨み節なんて言ってしまう。でも別にいい。執務席とは違って今は誰かと一緒にいるわけでもないし。いつも通り、一人で楽しいはずだったランチを食べているだけだし。

 うつらうつらとしたままゆっくりと身体を起こしていけば、いつの間にか近くのテーブルには見覚えのある顔が見える。

 二人組の新卒女子たち。そう確か、一人は隣の課の女の子だ。もう一人の子は知らないけれど。


「ねぇ、今日、飯田いいだ先輩休みって本当?」


 知らない女の子が知ってる女の子に食い気味で訊ねている。彼女の溌溂とした声が遠く離れた私の頭をぐわんと揺らす。


「うん。そうだよ。なんか風邪を引いちゃったらしくって」


 知ってる女子が数量限定の定食の記念撮影をしながらサラリと答えた。彼女の声は清流みたいで、私の熱を冷やしてくれそうだ。


「風邪? 先輩大丈夫? 確か一人暮らしだよね?」

「大丈夫でしょう。一人暮らし何年目よ。課長があいつが休むのは珍しいからついでにゆっくり休んどけ、って茶化してたくらいには問題ないでしょ」

「そうかなぁ。えっ。先輩って彼女とかいたっけ?」

「今はいないよ。一年前に別れたっきりフリーらしいし」

「えっえっ。それほんと? じゃあ、お見舞いとか行っちゃってもいいのかな」

「やめときなよ。うるさい後輩が押しかけても回復を妨げるだけだって」

「ちょ、失礼なんですけどっ」


 知らない女子がむぅっと頬を膨らませて知ってる女子の腕を小突いた。彼女は全然平気そうな顔で定食に箸をつける。

 私はそんな二人のことを堂々と盗み見しながら、昨日のことを思い出していた。


「ねぇ」


 その時だ。目の前に、背の高い影がぬっと覆いかぶさってきたのは。途端に視界が狭くなって、女子二人は完全にその影に隠されてしまった。


根室ねむろくん。どうかしたの?」


 私の前に現れたのは一年後輩の根室くんだ。彼が新卒で入ってきた時、私が異動するまでの間半年だけ同じ課で面倒を見ていた子だ。

 私よりもずっと可愛らしい瞳をしていて、見た瞬間から私とはまるで違って羨ましいなぁ、と思った子。彼はそんな自分の童顔なところがあまりお気に召さない様子で、睫が長いことをからかうと結構本気で怒ったりした。


 今はもう違う部署で働いていてフロアも違うし、あまり顔を合わせる機会もなかったけれど。

 久々の再会に嬉しくなって彼を見上げれば、まるで睫を指摘した時みたいな不機嫌な顔をしている。なんで。どうしてだろう。


「昨日、飯田さんと一緒に残業してたって本当?」


 まるで尋問。え。私、職質を受けているの?

 彼の瞳には彼にはあまり似合わない鋭い光が宿ってた。


「そうだよ。泰雅たいが、少し大変そうだったから。一緒に取り掛かった方が早く終わると思って」


 飯田泰雅は私の同期で異動しても異動しても結局近くの部署にいる腐れ縁。たぶん、この会社で一番仲が良いって言っても、彼もしょうがなく認めてくれるくらいの付き合いがある。

 根室くんもそれは知っている。最初、彼も同じ課にいたのだから。

 だから別に、根室くんだって同期と協力し合う気持ちも分かってくれるはず。

 でも私の答えを聞いた根室くんの眉根は深く寄せられていく。


「馬鹿じゃないの。先輩、風邪引いてるでしょ。飯田さんも風邪引いたって聞きました。寒い部屋で遅くまで仕事してたら、そりゃ風邪も引くでしょ」


 私たちの執務フロアの暖房が壊れていることを根室くんも知っているらしい。

 定時までは総務部の情けでヒーターを使って良しとされているのだけれど、節約のため、一定の時間になると勝手に切れてしまう。たぶん、根室くんはそのことも知っている。


「そう、だけど……。うん。分かってる。浅はかだったって」


 根室くんの厳しい眼差しに、自覚していた反省の言葉が素直に出ていく。


「ほんと、浅はか」


 根室くんは私の向かいの席に座って冷めたミネストローネを一瞥した。


「ごめん。馬鹿なことして呆れさせちゃったよね。あー、なんだか恥ずかしいな」

「別に、呆れたわけじゃないけど……」

「ふふ。いいのいいの、そんな遠慮しなくて。例え先輩が相手だろうと、間違っている時には間違ってるって指摘してくれていいんだよ」


 根室くんに気を遣わせるのは悪い気がして、私は大袈裟に笑いながら顔の前で手を横に振った。


「泰雅からもさっき連絡があって、付き合わせて悪かったって言ってたけど、すべては私が自分でやったことだから。私が軽率だっただけなんだよ。うん。根室くんの叱責は正しい」


 泰雅が送ってきた大層な謝罪メッセージを思い出し、不意に頬から力が抜ける。あんなに反省しなくってもいいのに。なんだか彼の顔が頭に浮かぶようだ。


「ふふふ」


 私がまた間抜けな顔をして笑っていると、根室くんの表情は対照的に不快を示していく。


「なにが可笑しいの」

「え? いや、その、なにも、可笑しくはないです……」


 ぴしゃりと言い放たれた彼の言葉に私は反射的に肩をすくめた。なんだか根室くんは苛立っているみたいに見える。確か今の上司は結構厳しい人だとうわさで聞いた。もしかしたら、ストレス、溜まってるのかな。

 可愛い顔が歪んでいくのを見ているとちょっとだけ心配になって、そっと囁くように聞いてみる。


「根室くん、大丈夫? 仕事、無理してない?」

「は?」


 突然の会話の転換についていけなかったのか、根室くんは目を丸めて首を傾げた。ああ。その表情。彼が新人だった時にしょっちゅう見せていた顔だ。分からないことがあると、よくそんな顔をして質問をしてくれたっけ。


「はは。なんでもないよ。でも、もし、もう仕事嫌だなーって時があったら私に言って。愚痴でもなんでも聞くからさ。ね?」

「……よく分かんないけど、分かった」


 根室くんはきょとんとしたまま返事だけはしてくれた。

 その、無防備な表情が懐かしかったからかな。

 まだ身体は怠いけれど、少しだけ、彼と会話をしたことで身体が楽になったような気がした。

 根室くんは意味不明に笑う私を見て、はぁ、と大きな息を一つ吐いて腕を組んだ。




 午後を迎えた私の身体は、ミネストローネを食べようとしていた時よりも幾分か元気を取り戻していた。

 そのせいもあって。と、いうよりも。

 突如舞い込んできた至急案件の対応のせいで、私は結局早退が出来なかった。


 どうにか定時を少し過ぎた頃に仕事を終えた時には、ぶり返した熱のせいで私の歩行は食べ過ぎで動けない人みたいにたどたどしくなっていた。

 でも、自分の足で帰らないことには横になることも出来ない。

 もはや自分の身体に鞭を打つような気分で私はエレベーターの到着を待っていた。


〔ほんと悪い。今度、埋め合わせするから〕


 届いたスマホのメッセージを覗けば、私が最後まで働いたことを知った泰雅からの労いの言葉が届いていた。

 埋め合わせ。埋め合わせか。なら、高級アイスの六個セットでも奢ってもらおうかな。

 同期からのメッセージに僅かな期待を抱いたせいだろうか。気の抜けた私の喉を突如として痒みが襲い、盛大に咳き込んでしまった。

 反動で手からはスマホが落ち、私はアッと手を伸ばす。すると。


「何、やってんの」


 床に落ちたはずのスマホが誰かの手によって持ち上げられていく。スマホの動きに合わせて目線を上げれば、拾ってくれたのは根室くんだった。

 根室くんは開きっぱなしのスマホの画面をちらりと見やり、次に私の顔に視線を向ける。


「無理してんのはそっちでしょ。ほら、俺が送るから」


 スマホを私に返し、根室くんはそのまま扉が開いたばかりのエレベーターに乗り込んだ。


「え? 送るって?」

「その状態で一人で帰るつもり? 線路に落ちたらどうすんの」

「こ、こわいこと言わないでよ……」


 根室くんがエレベーターの扉を抑えてくれていたので、私は慌ててそこに乗り込んだ。まもなくして、エレベーターの扉は静かに閉まる。


「あれ。どうして、根室くんあのフロアにいたの?」


 エレベーターの上部で動く階数を示すランプを見上げながら、私はふと不思議に思って彼に訊ねた。根室くんの執務フロアは、私のフロアよりも二個上のはず。


「……用事があったから」

「社内便?」

「そんなとこ」


 根室くんは味気のない声でこくりと頷いた。彼はこちらを見ることもなく、無機質に並んだ階数のボタンをじっと眺めている。

 会社のビルは無駄に高層仕様で、地上に着くまでにはまだ少しかかる。幸いほかに誰も乗ってくる気配はない。けれど、黙ったままの彼の背中を見ていると、どこか息が詰まる気がした。

 昼に会った時にも感じていたその違和感。ぴりぴりと、見えないほどの細かな電流が彼の全身に走っているように見えた。


「根室くん。何か、怒ってる?」


 熱のせいもあるだろう。息苦しくて、私は思ったままの言葉をそのままに口にしてしまう。言った後でハッと気づいても、つい数秒前の発言を取り消すことなど出来ない。

 ようやくこちらを向いてくれた根室くんの瞳には光がなく、表情すらも静寂そのものだった。


 包み隠さずストレートにものを言うことを私は悪いことだとは思っていない。けれどやはり、言葉を濁すという行為の意味はきちんとあるようだ。

 遠回しに聞く、控えめに、でしゃばらず。

 社会人になって学んだ、世を穏やかに立ち振る舞うための手法すら忘れてしまうなんて。

 首の後ろを、熱に侵され出てきた汗が伝っていく。


「あ。あの、根室くん──」


 先輩としても相応しくない発言だった。決めつけたようなことを言ってしまうなんて失礼だ。そう思い、どうにか謝ろうとする。が。

 足元が崩れてしまいそうなほどのけたたましい音がエレベーターの箱中に響き渡ったかと思えば、途端に元気を失くしたようにすべての音が止まる。


「えっ。な、なに」


 今日は根室くんの前でずっとみっともない姿を見せているけれど、想定外の出来事に慌ててしまうのは許して欲しい。

 エレベーターをぐるりと見回し、先ほどまで点灯していた階数を示すランプを見上げる。けれど、そのランプは消滅したまま、一向に動こうとはしなかった。


「止まったみたいだな」


 根室くんの冷静な声が聞こえてくる。かちゃかちゃとボタンを押す音が続く。どうやら何を押しても反応はないらしい。電気はさっきまでついていたものがすべて消えて、別のところの明かりが灯っている。そのせいかちょっと仄暗い。

 おまけに、私たちを階下に運ぶはずのエレベーターの箱が動く振動は感じなかった。

 止まったみたいだな。つまり。止まったみたいだな……?


「ええっ⁉」


 根室くんの言葉に数秒遅れて私の絶叫がエレベーターの中に響く。同時に、くらくらと眩暈を覚えて壁に手をついた。根室くんが、倒れそうになった私を咄嗟に支えようとしたのか機敏に振り返る。が、辛うじて持ちこたえた私はどうにかその場に倒れ込まずに済んだ。伸ばしかけていた根室くんの手が彼の体側に落ちていく。


「エレベーター、壊れちゃったの⁉」

「暖房も壊れるし、このビル大丈夫かよ」


 慌てる私とは違って、根室くんは落ち着いた様子でやれやれと苦笑していた。なんでそんなに冷静なの。


「閉じ込められたってことだよね?」


 そうだよね?


「先輩、動転しすぎ」


 私の迫真の表情に対し、根室くんは「うん」とだけ頷く。ちょっと落ち着きすぎじゃないかな。


「大丈夫。非常用ランプがついたってことは、完全に電気が切れたわけじゃないはず。非常電話があるし、幸いまだビルに人もいる時間だ。連絡すればすぐに助けが来るよ」

「本当?」

「本当。待ってて、今、連絡するから」


 あっさりとそんなことを言いながら根室くんは非常用ボタンに指を伸ばす。と、思ったけれど。


「根室くん?」


 彼はあと数ミリでボタンに指が届くというところでぴたりと動きを止めてしまった。

 眩暈も収まったし、少しだけ気分の悪さも落ち着いた私が壁から手を離して彼の表情をそっと覗くと、根室くんがぽつりと言葉をこぼした。


「さっき、俺に怒ってるかって訊いたよね」


 気まずいことを訊き直してくる。


「訊いた。ごめん、決めつけたことを言っちゃって」


 だけど正直に話を進めなくちゃ。私は微かに目を伏せた。


「いい。決めつけじゃないし」


 根室くんはボタンから完全に指を離し、そっと私に視線を向ける。彼の身体はボタンに背を向け、真っ直ぐに私と向き合っていた。


「決めつけじゃないって……?」


 それはどういうことだろう。

 根室くんは私のぽかんとした反応に瞬きすら返さなかった。代わりに、はっきりとした彼の声が返ってくる。


「正直、嫉妬してる。飯田さんと揃って風邪なんか引いて」

「……へ?」


 ちゃんと言ってくれたのは嬉しいのだけれど、その言葉の意味が全く頭に入ってこなかった。私が首を傾げると、根室くんは恥ずかしそうに私から目を逸らす。


「飯田さん、良い人だし、大人だし、かっこいいから。先輩、取られちゃうって、思って」


 俯きがちになりながら、根室くんはぽそぽそと言葉を連ねる。さっきまでの声とは違って、くすぐったいくらいに柔に聞こえた。


「どういうこと? 根室くん。嫉妬、って、まさか、飯田泰雅に?」


 彼の心境が整理できなくて念のために訊いてみる。


「そうだよ。何度も言わせて、楽しい?」

「ううんっ」


 というより、よく分からない。

 私が必死で頭を横に振ると、根室くんはその恨めし気な眼差しを下げた。

 全力で否定しすぎた弊害か。また、徐々に頭痛が蘇ってくる。でも緊急事態だし、あまり根室くんの気を煩わせたくないから気づかれないようにしなくては。

 とはいえ風邪を引いた身体が素直に言うことを聞いてくれるわけもなく。

 ちょっと横になりたい気持ちが強くなり、私は一歩ずつ後ろに下がってエレベーターの壁に身体を預けた。


「嫉妬、だなんてまさか思わなくて」


 脳裏には泰雅と根室くんの顔が交互に浮かんでいく。泰雅は確かに人気もあるし、人間としても好きな部類だ。けれど、それ以上の感情を抱いたことはない。そもそも、泰雅自体が私をそういう目で見ていないのだし、根室くんの頭に浮かんだ可能性は現実には微塵もない。のに。


「どうして、嫉妬なんて……?」


 言いながら、今度こそは地雷を踏んだと自覚した。

 私が壁に寄りかかっていることに気づいた根室くんが、一歩ずつこちらに近づいてくる。何も言わない。顔は真剣で、誠実なのに。決して何を言うこともなく。


「先輩」


 びくりと、思わず全身が波打った。根室くんの指先が耳を掠める。左耳から、私の表情を覆っていたマスクの紐が外れていく。だらしなくぶら下がったマスクが視界の隅で揺れ動いていた。

 呼吸域が広がったはずなのに、私の胸は反対に潰れていくようだ。

 苦しい。

 眼前に迫った彼の愛らしい瞳が、今は野生動物を思わせる勇ましさに帯びている。


「その風邪、俺にうつしてよ」


 ようやく彼の声が戻ってきたと思ったのに、耳元で囁かれたそれは私の身体に吐息として侵食していく。また、眩暈がしたような気がした。


「根室くん、駄目。本当にうつっちゃうから」


 あまりにも彼との距離が近く、私はどうにか彼を離そうと彼の胸元を押す。が。


「うつして」


 反対にその手を掴まれ、あっけなく抗う術を失ってしまった。

 根室くんの唇が柔らかに笑みを描いていく。美しい弧が彼の凛々しい表情を彩る。初めて見る彼の妖艶な眼差しに、私の頬は自分でもわかるほどに火照ってしまった。


「あ」


 恥ずかしくて目を逸らそうとしても、彼の額が私の額をそっと固定して視線すらも逃げられなくなる。


「飯田さんと同じ風邪を引いてるなんて、嫉妬で狂いそうなんだ」

「だから、泰雅とはなんともなくって……」

「その呼び方も、ズルい」

「うう」


 もう何も言葉が浮かんでこない。じわじわと身体中に汗が滲む。体温は上昇し続け、もはや天井を知らない。

 呼吸をするたび、根室くんの息を吸っている気がして余計に緊張が昂ってしまう。きっと、彼も私の呼吸音が聞こえているはずだからだ。


 まだ非常用ボタンを押してはいない。けれど制御室かどこかでは、エレベーターの異常を察知しているはず。つまりは、すぐにでもその閉ざされた扉が開いてもおかしくはないのだ。

 だんだん意識も朦朧としてきた。このままでは、いつ意識が飛んでも不思議ではない。


「先輩、苦しそう」


 少しだけ彼の声がいじわるに聞こえた。もしかしたら気のせいではなく、本当に、彼はこの状況を楽しんでいるのかもしれないけれど。

 重たくなる瞼の向こうで彼を見やれば、息が上がっていく私の表情を彼が愛おしそうに見つめていた。彼の瞳からは溢れ出る情愛と、一方で歪んだ感情が織り交ざっているようだった。


「根室くん……」


 ゾクゾクと、体内に煮えた熱気の内部で寒気が渦巻く。寒くて、寒くて、熱い。無限のループに囚われた私の身体を、根室くんはそっと包み込む。


「ん……」


 唇から、次第に震えが収まっていった。

 彼に触れた瞬間から、僅かに息苦しさがほどけていく。

 息を吐きだしたほんの刹那に、柔らかなざらつきを持った温もりが伝わってくる。夢中でその温もりを追いかけると、情けない声が洩れていった。微かに、彼の笑い声が吐息に混ざった気がする。


 のぼせていく一方で、優しく握りしめられた彼の手が少しひんやりとした。

 どれだけ熱が上がっているのだろう。

 気づけば縋るように手を握り返していた。絡み合う指の温度が次第にどちらのものか分からなくなる。まるで私の熱で全てが溶かされてしまったよう。


 しばらくして、酸素がどっと喉を通っていった。

 どうにか瞼を開いていけば、先ほどよりも顔の前が明るい。

 根室くんの顔がよく見える。


 いや。


「離れていかないで」


 無意識のうちに唇が勝手に何かを告げた。すると、私の声に応えるように再び目の前には影が覆う。

 さきほどよりも、伝わる体温が高く感じた。

 上気に狂った思考は、善悪の判断すら曖昧にさせる。

 止めなければ、根室くんに風邪をうつしてしまうのに。

 分かっているはずだった。

 けれどその手を掴む力は辛うじて残った理性とは裏腹に強くなっていく。


 閉ざされたエレベーターの中。扉が開けばすべてが露わになる。

 どうか開かないで。そう願ったのはこれが初めてではない。

 彼に出会ったその日から、開かぬようにと祈り続けていたパンドラの箱がついに開かれてしまったのだ。


 狂熱に隠した本心が望む。

 もう、私のすべてを奪っていって。


 

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風邪引き先輩の夢うつつ 冠つらら @akano321

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