第27話 朝帰り
***
日が昇って初めて歩く道は、夜とは別世界のように感じた。
朝の六時を過ぎて花ちゃんのアパートを出た俺は、おぼつかない足取りで自分のアパートを目指す。
長い間あんな金持ちマンションにいたんだから、アパートが犬小屋に見えてしまうかもしれない。まあすでに犬みたいなのはいるんだけど……。
まださすがに通勤や通学の時間ではないから、人の数もそれほど多くない。
もうすでに俺の身体は限界を迎えていた。ほぼ丸一日物を口にしていないのだ。空腹を通り越して軽い頭痛と吐き気にさっきから襲われている。
帰りにコンビニに寄ろうと思っていたのも、そんな気力さえ今はない。とにかく途中で倒れるわけにはいかないため、最後の方は記憶もなくほぼほぼ本能だけで足を動かしていた。
帰宅するのにどのぐらい時間がかかったかは覚えていない。この時点で意識の方も朦朧としてきた俺は、何度かカギを落としそうになりながらも鍵穴に差し込んでドアを開ける。
そこに待ち受けるは仁王立ちで腕を組む一人の幼女。
今こいつの相手をしてやれるだけの体力などあるはずもなく……。
「――おいぴょんきち! 朝帰りとは何事だ! 一体どこへ行って何をしていたか全て吐くまでここを……ってぴょんきち!? 大丈夫か!?」
***
まあ……いわゆる風邪というやつだ。
原因は栄養失調によるものなのか、ストレスによるものなのか、花ちゃんに移されたのか……。花ちゃんとはさっき会ったばかりだからそんなすぐには症状がでないな。
とりあえず理由が何であれ、頭が痛くて喉も痛くて全身が火照ってむちゃくちゃ熱いのは確かなことだった。
多分熱もけっこうあると思うが、一人暮らしの男子大学生の家に体温計なんてあるはずもなく……俺の過去の経験から予測するに、恐らく三十八度ぐらいだろう。
俺は昔から年に一回はこうやって寝込んでしまうレベルの風邪をひいてしまうのだ。これが今年の一回だと信じている。
何か口にした方がいいんだけど、家には何もない。てかそのための外出のはずだったのが、当初の目的が果たされることなく戻ってきたのだ。
戻ってきた―—確かにドアを開けて中に入ってきたことまでは覚えている。しかしそのあとの記憶がないのだ。
次に目が覚めた時には俺は自分の布団に寝かされ、枕元にはペットボトルの水と形がぐちゃぐちゃのおにぎりが二つラップをかけて置いてあった。
布団に横になるぐらいは自分でできることだけど、さすがにおにぎりは無理がある。
つまり俺以外の誰かがこれを作ったということになり……。
まさか……いやいやそれはさすがに…………。
とある押しかけ女の姿が脳内に浮かび上がりかけている最中、扉の開く音が聞こえてきた。
そういえば帰って来たときは鍵を開けることだけを考えていたから、閉めることはすっかり頭から抜け落ちていた。
でもここはオートロックがあるから……と、それでもセキュリティの裏をつけば突破は容易い。
身構える俺。身体が重くて怠いから、今なら小学生相手にも負けると思うけど。
そんな俺の前に、両手にパンパンに物が入ったレジ袋を吊り下げた人が入ってくる。
「——起きてたのか。まだ顔が赤いな。体温計買ってきたからちゃんと後で熱計るようにな」
「…………」
「それにしてもキサマの家何もないな。ドラッグストアとスーパーをはしごして腕がちぎれるかと思ったぞ」
「…………」
「アタシの作ったおにぎりに全然手をつけていないじゃないか。食欲はあるのか? 一応ゼリーと経口補水液も買ってきたけど……それとも温め直したら食べてくれるか? 一口でもいいから……」
「あの…………」
「夜中に家を出てどこほっつき歩いていたのは治ったら訊くとして、キサマお風呂の入っていないだろ。あんまり不潔なのも身体によくないぞ」
「いや、てか…………」
「あそこのハンガーにかかっているのバスタオルだよな? 先にアタシが身体を拭いてやる、ちょっと待ってろ」
俺が何かを言う前に次々に話し倒したら、買ってきたであろう物を冷蔵庫の中に入れたり、洗面所に行ってガチャガチャと物音を出していた。
そして戻ってきたその人物に、俺は問いかける。
「えっと……どちら様で?」
その声と話し方には聞き覚えがあった。
だが、あの黒いゴスロリ衣装は着ていない。
紺のスウェットにベージュのワイドパンツに加え、英語で文字の書かれた黒いキャップ。上下ともにダボッとした服装は最初見たときストリートダンサーが入ってきたのかと思った。
耳には星形のイヤリングをぶら下げ、ちゃんと化粧までしている。
どうやら思っていたよりも質の悪いウイルスにでも感染したのか、俺の脳はまともに機能していなかった。
「……ふむ、記憶障害か? それにさっきよりも顔が真っ赤だ。キサマ保険証は持っているか? 午後は病院に行くぞ」
頭ではちゃんと理解している。
目の前にいるのは自称ヘルクイーンこと村雨であると。
だからこそ、一瞬とはいえその姿に見惚れてしまった自分を認めるのが何だか嫌だった。
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