17時16分発、その先へ。

 日が沈もうとしている。

 茜色に染まり始めた空を、これ程までに憎悪にまみれた心でみつめた事は今まであっただろうか。


 夜になれば、必然的に海月を見つけ出しにくくなる。そうなる前になんとしても見つけ出さなければならない。もう一刻の猶予もなかった。


「で、どうする?」


 交番を出てから一度話そうということになり、僕たちは元いた広場に戻ってきていた。ベンチに腰を下ろした拓馬が開口一番にそう口にした。


「とりあえずもう大人の力は頼れない。僕たちだけで海月を見つけるしかないよ。」

「だから、その行き先が分からないとどうしようもないだろ?心当たりがあるなら場所を言ってくれよ!」


 拓馬は交番を出てからというもの気が立っていた。僕も同じ気持ちだからよく分かる。きっと口には出さないが静香も同じなのだろう。


「海月の行きそうな場所…。」


 僕はぽつりと呟きながら、記憶を手繰り寄せていた。この夏の間のひとときの幸せを。瞼を閉じると、どの瞬間の映像も頭に浮かべることが出来た。僕はそれをスライドショーのように頭の中で並べ、ゆっくりとみて回る。


 その時、海月の発した甘い声が頭の中で広がった。


  ___私ね、海が好きなの。全てを忘れられるから。ちっぽけな私が抱える悩みも、苦悩も、悲しみも、この広大な海の前では、塵のようなものでしょう?それにね、私は…


「くらげになりたいから…。」


 海月の発した言葉の続きを気付けば僕が口にしていた。


「何?くらげが何なの?」

 僕の隣では静香が首を傾げている。拓馬も同様だった。


「分かったよ!海月の行こうとしている場所は海だ!」 

「なんでだ?どうして海だって思うんだ?」


 ベンチから立ち上がった拓馬は真っ直ぐに僕をみつめる。その目は力強く、大海原の真ん中で、何かしがみつくものを見つけたかのような希望に満ちていた。


「それは…おばあちゃんが亡くなってから海月と僕はよく海に行ってたんだ。拓馬と静香の所に顔を出した時もあったけど、よく二人で過ごした。その時に、私はくらげになりたいってよく言ってたから。」


「分かんねぇな。そのくらげになりたいって言うのはどういう意味なんだよ。」


 拓馬から受けた問いかけに答えようと口を開くと同時に、あの日の光景が鮮明に頭の中に浮かんだ。


 夕日が海に溶けるように沈み、潮の香りを孕んだ風が、僕と海月の身体を撫でるように吹き抜けていく。切り立った崖の上で横並びになって、二人だけの世界をあの日の僕たちは築き上げていた。


「__私は、くらげになりたいから」


 その言葉を口にした瞬間、海月の瞳の中に、僕には深い悲しみの色がみえた。ただ、夢を口にしただけなのに、僕の心の中では何故か言いようのない胸騒ぎが溢れた。海月が、どこか遠くへと、手の届かないどこかに行ってしまうんじゃないかと思ったのだ。


「……くらげになりたい?どういう…こと?海の中をふわふわ漂いたいってこと?」


 たどたどしくも、そう口にした。海月は、そんな僕の姿をみて、ふふっと笑った。


 そして、空に向けて人差し指を立てると、「じゃあ、響に一つ問題を出します。くらげの体は、大半は一つの物質で構成されてるんだけど、それは何でその割合は何%でしょう?」と、楽しげに問いかけてくる。


 僕は、それに答えようとくらげの姿を頭に浮かべる。透明な傘をゆらゆらと動かし、海の中を揺蕩うくらげ。指で触ると、力を入れた分だけすっと沈み込むあの感触はまるでゼリーのようだった。


「えっと…分かんないけど、じゃあくらげの体はゼリーで出来ていて、その割合は70%!」


 半ば当てずっぽうに答えた。くらげの体が何で出来ているかなんかか人生で初めて考えた。海月はそんな僕の答えに驚いたのか目を見開き、そのあと声を上げて笑った。


「ゼリー…?くらげの体がゼリーで出来てる訳ないじゃん。それだったらスイーツになっちゃうよ。響って面白いね、っていうかお菓子の家があるって信じている子供みたいで可愛い」


 お腹を抑えけらけらと笑う海月に、僕は少しだけむっとして、いいから早く正解を教えてよと言った。


 海月は目元を手で拭い、僕の目をみる。

「正解はね、くらげの体の大半は水で出来ていて、その割合は90%!」

「えっ水?」


 想像もしてなかった答えに驚く僕を横目に、海月は潮風でなびかれ耳からするりと落ちた髪の毛を再び掛け直した。


「くらげはね、体の大半が水で出来ているから、陸地に打ち上げられたら蒸発して、海で死んだら溶けて消えてなくなるんだって。この世に何も残さない。きっとそれは、海の中を揺蕩う内に出会った友達や家族の為に、死を迎えた自分のことを忘れられるように、前に進めるようにそうしてると思うの。そう考えたら、凄く美しい生き物だと思わない?」


 言い終えて、笑った。いつかの海辺で、僕たち全員が夢を語ったあの海辺で、みせた時のように、嘘みたいな綺麗な笑顔をうかべたのだ。


 今思えば、海月は何度もそういう話をしていた。死を連想させるような、どこか死に憧れを抱いているような話や言葉を、何気ない会話の中にも含ませていた。何故、僕は気付くことが出来なかったんだ。もしかしたら海月は初めて出会ったあの時からずっと、死を考えない日は無かったのかもしれない。


「そうか…。いつからそんなことを口にするようになったんだ?いつから、そんなことを海月は考えるようになったんだ。」


 僕が海月の放った言葉を口にすると、途端に拓馬の目が鋭くなった。


「確か…くらげになりたいと思ったのは僕たちに出会ってからだって言ってたかな。」

「お前は、海月がそんなことを口にして何もしなかったのか?せめて、何で俺たちに言わなかったんだよ!俺たちが出会った日に海月は死のうとしてたんだぞ!」


 拓馬が僕の前に立ち、僕は見上げるようにしてみつめていた。


「お前のせいだ!何でずっと傍にいて気付いてやらなかった?」


 数秒後には、拓馬から伸びた右手が僕の胸元を抉るように掴み、ベンチに預けていた腰が宙に浮いた。


「拓馬、やめて!」

 隣に座っていた静香が必死に拓馬の腕を下ろそうとするが、僕の胸元に込められた力は強くなるばかりだった。


 そうだ。拓馬の言う通りだ。

 この夏の間、僕は誰よりも海月の傍にいた。何で気付いてあげられなかったのだろう。


 いや、違う。

 気付いてあげられなかったんじゃない。

 気付いていたのに、気付いていないふりをしていただけなんだ。


 海月が死に纏わる話をする度に、海月がどこか遠くへ言ってしまうような気がして、僕はその度に鼓膜に触れた言葉を、時折みせる切なげな表情を、頭の片隅へと追いやり考えないようにしていたのだ。


 ただ、離れていって欲しくなかった。

 海月の傍にいたかった。


 僕は臆病だ。

 ちっぽけで弱くてどうしようもない存在だ。


 拓馬が怒るのも無理はない。僕は殴られて当然の存在だ。そう思い、そっと目を閉じた。


「いい加減にして!今さらそんなこと言ったって何の解決にもならないでしょ!」


 その時、静香の張り叫ぶような声が鼓膜に触れて、僕はゆっくりと瞼をあけた。静香は拓馬の右手にしがみつくようにして掴み、訴えかけるような目でみつめていた。目の淵からは涙を溢し、悲しげな表情を浮かべて。


「響だけのせいじゃないよ。私達だってずっと一緒にいたじゃない?それに……誰よりも辛いのは響だって分かってるでしょ?」


 少しずつ、ほんの少しずつ、込められていた力が緩んでいくのを感じた。ベンチに僕の腰がついたあと、胸元にかけられていた拓馬の右手がだらりと落ちた。


「こうしてる間にも海月はどこかに向かってるかもしれない。もしかしたら、もう…。私達四人で仲間でしょ?だから、こんな無駄なやり取りをしてる暇あったら海月を探しにいこう…よ。」


 項垂れるように顔を伏した静香の肩に拓馬はそっと手を添えると、包み込むようにして優しく抱きしめた。


 そのままの体勢で拓馬は顔だけを僕に向ける。


「響…ごめん。俺、どうかしてた…よ。一番辛いのはお前だもんな。本当に悪かった。」


 言葉を切ると、小さく頭を下げた。


「いや…僕の方こそ、ごめん…。」


 広場の中央に設けられた時計は十七時十三分を指していた。僕たちがこうしている間にも無情にも時は溶けていく。


 まずは、海に行くしかない。

 そこに居ないなら手当たり次第で探しに行こう!


 そう、口にしようとした時、ポケットから携帯の振動が伝わってきた。アプリの通知はLINEと電話以外は全て切ってある。


 一体誰からだろう?とポケットに手を伸ばそうとすると、時同じくして静香と拓馬もポケットに触れていた。


 僕たち三人は顔を見合わせ、急いで携帯に指を滑らせた。


『新着メッセージが2件あります。』と表示された画面を弾くように右にスライドした。


 僕は、一番上に浮かぶメッセージをみて目を見開いた。


 それは、四人だけのグループLINEが久しぶりに動いた瞬間。




 メッセージは海月からのものだった。

 

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